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| La Marseillaise Les paroles et la musique de Claude-Joseph Rouget de Lisle | |
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1er couplet
Allons enfants de la Patrie, [ Refrain ]
Aux armes, citoyens ! 2
Que veut cette horde d'esclaves, 3
Quoi ! ces cohortes étrangères 4
Tremblez, tyrans et vous perfides, 5
Français, en guerriers magnanimes, 6
Amour sacré de la Patrie, 7
Nous entrerons dans la carrière |
第1節
いざ祖国の子らよ、 [ ルフラン ]
武器を取れ、市民諸君! 2
何を欲しているのか、 3
何と!あの外国の軍勢が 4
震えよ、暴君ども、そして汝ら裏切り者よ、 5
フランス人よ、寛容な戦士として、 6
神聖な祖国愛よ、 7
僕たちは道に足を踏み出すだろう |
フランス共和国の国歌、「ラ・マルセイエーズ」はフランス革命の際の戦争をきっかけに生まれた。
1789年7月14日、パリのバスティーユ監獄を市民が襲撃したことによりフランス革命が勃発。1791年、国王夫妻が逃亡を企てるが失敗、逮捕される(ヴァレンヌ事件)。国王の逮捕に驚いた周辺各国はフランス革命に危機感を抱き、8月にはプロイセンとオーストリアが共同で武力による介入を示唆した警告を発する(ピルニッツ宣言)。ピルニッツ宣言に怒ったフランス議会は亡命貴族の資産没収を決定、オーストラリアに宣言の取り消しを求めるが、受け入れられない。1792年4月20日、王ルイ16世は、戦争でフランスを敗戦に導き再び専制政治を再開しようとの目論見で、オーストリアへの宣戦布告を議会に提案し、開戦が可決された。
アルザス地方の国境の街ストラスブールに宣戦布告の知らせが届いたのは4月24日。翌日には各広場で、立憲君主派の貴族であった市長、ディードリッヒが宣戦布告を読み上げ、ライン川をはさんで敵国に隣接するこの街は熱狂に包まれた。そしてその晩、市長の家で宴会が開かれた。この会は前線へ出発するライン軍の司令官の歓送会も兼ねていたので、ライン軍総司令官リュックネール元帥のほか、たくさんの将校が出席。その中には、ストラスブールに一年前から駐屯し、市長とも懇意だった工兵大尉クロード=ジョセフ・ルジェ・ド・リールがいた。この会で、民衆の間で流行している革命歌が話題にのぼった。下劣な内容の歌が流布し、軍隊で演奏されるのは遺憾だ、ということで、詩と音楽の才で知られていたルジェ・ド・リールに市長が新しい革命歌の作詞・作曲を依頼。周囲に押し切られてルジェ・ド・リールは承諾した。なおも続く宴会をこっそり抜け出した彼は、ヴァイオリンを使って一夜の内に今日『ラ・マルセイエーズ』と呼ばれる歌を作詞・作曲する。
翌朝ルジェ・ド・リールに譜面を見せられた市長は感激し、その晩、歌を披露する会を催す。翌27日には市長は印刷工に楽譜の印刷を命令、その楽譜には『ライン軍のための軍歌、リュックネール元帥に捧ぐ』とあった。市長の姪のルイーズは他の楽器用に編曲して楽譜を書き写し、軍隊や兄弟に配布。新聞も歌詞を掲載した。 29日には、国民軍の音楽隊が練兵場で、義勇兵の登録を記念するパレードに際して演奏、一般に初めて披露される。
こうして見ると分かるように、『ラ・マルセイエーズ』・・・『マルセイユの歌』は、南フランスの街マルセイユとは 反対の場所、ストラスブールで生まれた。では、なぜ、『ラ・マルセイエーズ』と呼ばれるようになったのか。
『ライン軍のための軍歌』は市長夫人やルジェ・ド・リールが郵便で送ったり、行商人や出張販売員などによって他の土地へ広まっていく。6月17日には南フランスの街モンペリエで楽団が演奏、モンペリエ大学の学生ミルールがこれを聞いて覚えた。彼はジャコバン派の拠点「憲法友の会」のモンペリエ支部のメンバーだった。モンペリエ支部は先に創設されていたマルセイユ支部と定期的に連絡を取り合う関係にあった。
ところでそのころのフランスは、ルイ16世の目論見どおり、オーストリアに対する戦争に重ねて敗戦、内にはクーデターの動きもあった。議会は首都防衛のため、全国からの義勇兵を集めた軍団をパリ郊外に創設することを決定。これは南フランスで熱狂的に迎えられ、まずモンペリエで義勇兵の登録が定員に達した。マルセイユでも登録がなされることになり、モンペリエとマルセイユの部隊が一緒にパリへ行軍することになった。この行軍についての打ち合わせに行く代表の一人に、部隊の指導者になっていたミルールが選ばれ、マルセイユへ向かった。マルセイユで歓待を受けたミルールは、歓迎の宴で『ライン軍のための軍歌』を披露。同席していた新聞記者が彼に歌詞を教わり、新聞に掲載した。これ以後、「憲法友の会」は集会の始まりと終わりにこの歌を歌うことに決め、歌詞を印刷して街中に配布。マルセイユの国民軍の楽隊も繰り返し演奏した。マルセイユの義勇兵がパリへ行軍する間、この歌が歌われることになり、義勇兵は全員歌詞を暗記し、7月2日、パリまで800キロの道のりへと出発。出会う人々には歌詞を書き写したものを配り、歓待を受けた村村で村人に歌って聞かせた。そしてミルール率いるモンペリエ義勇軍と合流して行軍を続け、次第に彼らの歌は『マルセイユ人の歌』(Chant des Marseillais)と呼ばれるようになった。一般の人々にとっては、地中海訛りの人は皆マルセイユ人に思われたらしい。7月14日にはヴィエンヌでバスティーユ監獄を記念する祭りを過ごす。この時、ルジェ・ド・リールが6番まで書かなかった歌詞にペソノー神父なる人物が7番の歌詞を付け加えたという説がある。そして7月29日についにパリの入り口、シャトラン門に到着、到着を待っていた議員やパリ市民の前で『マルセイユ人の歌』が歌われると、場は熱狂に包まれたらしい。
翌日市内に入ったマルセイユ義勇軍は、早速カフェで王党派と大乱闘事件を起こし、その名前をパリ市民に刻み込む。マルセイユ義勇軍は事あるごとに『マルセイユ人の歌』または『マルセイユ人の軍歌』と呼ばれるようになった歌を歌った。8月10日には国王の廃位問題に端を発したテュイルリー宮襲撃で、歌を歌いながら突撃して王宮奪取に成功。王権は停止された。ここに、『マルセイユの歌』、『ラ・マルセイエーズ』は革命の象徴になったのである。 しかし、作者ルジェ・ド・リールは君主制を望んでいたらしく、そのため、革命の象徴たる歌の作者にも関わらず、歴史に翻弄され、不遇のまま暮らした。
ジロンド派の政治、ジャコバン派の恐怖政治を経て、テルミドール派の反動政治が始まるが、至る所で革命に反動的な民衆や王党派の蜂起・テロが発生。反動の行き過ぎを懸念した議会は1795年7月14日、『ラ・マルセイエーズ』を国歌として制定した。
以後200年以上、法的には『ラ・マルセイエーズ』が国歌としてありつづけることになる。しかし、王政復古など政治情勢の変化によってその地位はあやふやなもので、革命歌としての性格を恐れた政府によってしばしば禁止された。国歌が禁止されるというのは妙な話だが、廃止してしまっては反動が来ると恐れたのであろう。第二次世界大戦を経て、第四共和政体制となったフランスは、1946年10月27日に発布された憲法の第二条三項で「国歌は『ラ・マルセイエーズ』である」と規定、初めて憲法に国歌を明記した。現在の第五共和制の憲法でも、この規定に変更は加えられていない。
日本では教育現場での『君が代』の扱いについて論議が絶えないまま、法制化が強行され、演奏・斉唱が強制されているが(いくら法律上義務・罰則規定がなくても、文部省・教育委員会により実質的には強制されている)、フランスではどうだろうか。
フランスでは1882年の学制改革において、小学校教育に国歌が組み込まれた。カトリックの学校では、革命でカトリック教会が打撃を被ったことから、革命の象徴である『ラ・マルセイエーズ』は長らく悪意を込めて説明された。一般に学校では、1880年代はドイツに対する国威発揚の手段として、1930年代にはナチスの全体主義の脅威に対抗する人間性の象徴として教えられるなど、その扱いは時代に応じて変化している。現在は学校で国歌を教える義務はないが、歴史や公民の授業で多少触れるのが普通だという。フランスの学校には入学式も卒業式といった儀式もないので、歌う・歌わないは問題にならない。1985年に文部大臣が公報で義務化の意向を示したが、実際には効果がなかった。『ラ・マルセイエーズ』の歴史を見れば、敵と戦うため、自由を守るため、人々が歌いたいから歌ったのがこの国歌なのであって、フランス人からすれば国歌を強制しようとする日本の姿は妙に見えるかもしれない。ただ、歌詞については人殺しをあおる歌で現状に合わないということで、変えるべきだという論議がなされている。
参考文献:吉田進『ラ・マルセイエーズ物語 国歌の成立と変容』中公新書 1994年