18世紀末の大革命により絶対王政を打倒したフランスは、19世紀において、ブルジョワ社会を形成しつつ、7度も政体を変化させながら、資本主義体制を確立させた。
社会情勢を反映して、文学もいくつかの流派が交替する。大別すると、世紀前半はロマン主義、後半では小説におけるレアリスム・自然主義と、詩の象徴主義である。
すでに18世紀にルソーによってロマン主義の道は開かれていたが、その影響が表面化するのは19世紀に入ってしばらくしてからであった。
イギリス・ドイツのロマン主義に刺激を受けて、ロマン主義第一声の書「文学論」De la litterature consideree dans ses rapports avec les institutions sociales(1800)がスタール夫人Mme de STAEL,Germaine(1766-1817)によって書かれた。この本で彼女はヨーロッパ南北の文学を対比し、新しい文学は北方の文学を手本とすることを説いた。また、「趣味の相対性」relativite du goutを説き、初めて相対的・歴史的観点を体系的に文学批評に取り入れた。
そして、大革命によって没落した貴族階級の疎外感、解放されたブルジョワジーの上昇エネルギー、そのブルジョワジー自体がもたらした、金銭本位社会の非人間性による疎外感、これら3つが、ナポレオン独裁、王政復古の反動貴族政治、七月王政の大ブルジョワジー寡頭政治と絡んでロマン主義は醸成していった。そのため、フランスのロマン主義は他国と違って強い政治性を帯びている。
さて、文学におけるロマン主義はまず、古典主義・啓蒙主義への反動であった。「自由」への熱烈な欲求を抱えながら、ロマン主義者は「感性と想像力と情熱に至上権を与え、無限に向けて自我の解放と高揚を目指す一種の理想主義」を目指した。しかしこの理想主義は現実のブルジョワ社会の中で抑圧され、「世紀病」Mal du siecleといわれる不安な精神状態を作り出した。世紀病の直接の原型は、フランスロマン主義の父、シャトーブリアンFrancois-Rene de CHATEAUBRIAND(1768-1848)のRene(1802)に見ることができる。同世代の作家が描いた「世紀病」に、セナンクールEtienne Pivert de SENANCOURの「オーベルマン」Oberman(1804)、コンスタンBenjamin CONSTANTの「アドルフ」Adolphe(1816)があり、後のロマン主義文学者に影響を与えた。
ロマン主義における詩は、「個の真実に根ざした余情性の圧倒的優位と、それにともなう技法の革新」に特質がある。「古典主義の詩の抽象性を排し、もっぱら霊感を重んじ想像力を駆使して『魂の吐息』『魂のほとばしり』を具体的かつ感動的、あるいは絵画的に表現しようとした」。ラマルチーヌAlphonse de LAMARTINE(1790-1869)の「瞑想詩集」Meditations poetique(1820)は個人的告白の妙なる表現でロマン主義詩最初の傑作となった。しかし詩法の面ではまだ多分に伝統的であり、真の革新はロマン派の総帥、ユゴーによってなされた。
ユゴーVictor HUGO(1802-1885)は「劇こそ完全な詩である」と主張し、「三単一の法則」を廃棄して「芸術における自由」を主張した。この主張を支持するロマン主義を奉じる若い文学者・芸術家たちはユゴーのもと、セナークルCenacleを結成した。そしてユゴーは劇「エルナニ」Hernaniの、古典派の牙城フランス座における初演(1830年2月25日)で古典派と衝突し、彼らを制圧して、ロマン派の勝利を決定づけた(「エルナニ事件」)。彼の詩における真の革新とは、用語の面では、迂言法を排して新たな隠喩を頻用する一方、日常的・現実的な名詞や形容詞を多用することで散文と同一レベルに立ち、詩法の面では句切りを柔軟にすると同時に句跨りや倒置を敢行したことである。
この結果、詩は多種多様な主題と装飾を受け入れる自由な形式を獲得したが、反面感情の誇張を招いた。ユゴーの代表的な詩集として、「懲罰詩集」Les Chatiments(1853)「静観詩集」Les Contemplations(1856)「諸世紀の伝説」La Legende des Siecles(1859)が挙げられる。一般に、ロマン主義の、理想を求めるエネルギーは現実生活で満たされるまま宗教に向かい、詩人に社会的使命を生じさせ、「人類の未来に宗教的信頼感を抱いて積極的に政治に参加し、ブルジョワ社会が生み出した悲惨な民衆を救済しようとする」、人道的・社会主義的理想主義を生んだ。ユゴーの小説「レ=ミゼラブル」Les Miserables(1862)はその思想をよく表している。小説では他にも彼は「ノートルダム=ド=パリ」Notre-Dame de Paris(1831)で歴史小説の範を示した。
ユゴーは彼独特の黙示録的世界観に基づいて「暗黒から理想へ昇っていく人類の姿」をうたいあげる叙事詩人であった。彼の詩は現実の背後にあるものを見通し、象徴や比喩によって不可視を可視とした。彼はシュールレアリスムに先駆する「幻視者」visionnaireとされる。
ヴィニーAlfred de VIGNY(1797-1863)は「幻滅とその超克」というロマン主義的主題を一貫して扱ったが、極度に情念を抑制した象徴的手法によって冷たく固い詩句を刻むことにより「哲学詩」という新詩風を確立した異色のロマン主義詩人である。その無感動性は後の高踏派・象徴派から高く評価された。彼の代表的な詩集に「運命詩集」Les Destinees(1864)がある。
放蕩に溺れる一方で純潔に激しく憧れるという矛盾に苦しんだ世紀児、ミュッセAlfred de MUSET(1810-1857)は、「ロレンザッチョ」Lorenzaccio(1834)で自らの苦悩を主題にし「魂の叫び」を素直に吐露した。この作品はロマン主義史劇の傑作とされる。
ロマン主義の孕む理想主義は宗教に刺激されて、神秘思想や理神論などの形となって現れたが、ネルヴァルGerard de NERVAL(1808-1855)においては、「現実生活への夢の流入」epanchement du songe dans la vie reelleが起き、現実と夢との境界がなくなる。彼は彼の代表作「オーレリア」Aurelia(1854)に書かれているように、夢を第二の人生とする。こうして自我の深層にひそむものを対象化しようとしたことから、ネルヴァルは象徴主義を経てシュールレアリズムの素地を用意したといえる。
市民社会の成立は読者の大衆化をもたらしたし、教育の普及はジャーナリズムを急速に発達させた。また、大革命後の社会の変動により、個人と社会の関係、そして一個人の複雑な内面を表現することが要求された。このような状況の中、「19世紀は小説の世紀」と呼ばれるほどの隆盛を小説は見せることになる。ロマン主義の時代においては、スタンダールとバルザックによって近代小説への道が開かれた。
スタンダールSTENDHAL(1783-1842)は「結晶作用」cristallisationという言葉で有名な「恋愛論」De l'Amour(1822)や、古典主義の演劇規則打破を叫ぶロマン主義最初の宣言「ラシーヌとシェイクスピア」Racine et Shakespeare(1823-1825)などを発表した後、小説家に転身し、「赤と黒」Le Rouge et le Noir,Chronique du XIXe siecleにおいて政治小説・風俗小説・心理小説を融合させ、初の近代小説を作り上げた。彼が課題とした「幸福の追求」chasse au bonheurは「自己の探求」であり、それゆえに彼は「自己自身」であろうとして自己の真摯な感動を尊重する一方でその感動を明晰に認識しようとした(エゴチスム egotismeまたは本名にちなんでベーリスムbeylism)。この彼独特の考えに基づき、貴族とブルジョワジーの虚栄・偽善によって疎外される個人を現実に即して描こうとしたしたことが、ロマン主義の中にも批判のレアリスムを持ち得たのである。
バルザックHonore de BALZAC(1799-1850)はロマン主義時代の作家らしく、その卓越した想像力で多様な主題を扱い、あらゆる人物を生み出した。彼はそうして生まれた小説を、社会の「結果」を描く「19世紀風俗研究」Etudes de moeurs au XIXe、「原因」を描く「哲学研究」Etudes philosophiques、「原理」を研究する「分析研究」Etudes analytiquesの3部門に全作品を分類しようと思い立ち、人物がいくつもの作品にまたがって登場する「人物再登場」retour des personnagesの手法で各作品を有機的に結び付けた。そして19世紀前半のフランス風俗史を再現すべく、全作品を「人間喜劇」La Comedie humaineの総題のもとにまとめた。科学的観察と現実の資料に基づいた、外側からの描写は、「ロマン派の過剰な主観主義を批判し、作品それ自体の自律性を構築しようとする意図」を示している。この面では後のレアリズム・自然主義小説の先駆である。一方彼は神秘主義の影響を受けており、世界の総合的把握という意図は直観的認識に支えられていた。バルザックは観察家と同時に「幻視者」visionnaireであったのである。
なお、読者層の拡大はサント=プーヴ(1804-1869)による科学的文芸批評の確立させることにもなる。
ロマン主義は人類の歴史にわたって潜在してはいるが、フランス文学史における運動としてみると、1843年、ユゴーの「城主」Les BurgravesがポンサールFrancois PONSARD(1814-1867)の古典主義的詩劇「リュクレース」Lucreceに人気を奪われたことで衰退していく。「成熟したブルジョワ社会を支える科学的で実証的な時代精神に、あまりに主観的なロマン派の発想と表現がもはや適合しえなくなった」ため、「複雑の度をいっそう深めた社会と個人の関係を描くには、繊細な観察に基づいた客観的な表現が要求されるようになった」のである。さらにロマン派の理想主義に支えられた二月革命がルイ=ナポレオンのクーデターにより挫折すると(1851)、ロマン主義は完全に崩壊した。
詩の領域では、ボードレールCharles BAUDELAIRE(1821-67)が「新しい戦慄」(ユゴー)の創造者となり、詩の新しい領域を開く。
彼にとって詩は「なによりもまず暗示の芸術」であり「喚起の魔法でなければならなかった」。したがって、「ボードレールはロマン派的心情の安易な吐露にはしることをきらい、磨きぬかれた詩句と完璧な形式美を目指した」のであった。その意識は、「悪の華」Les Fleurs du Mal(1857)に結実している。彼は「単なる詩の技巧などというものを越えて、詩の言語や形式の問題について、きわめて意識的・自覚的であった点で、それまでの詩人たちと一線を画し」、象徴主義に深い影響を与えた。ボードレールの感情の繊細さと音楽性はヴェルレーヌに、幻想的で空想力の豊かな面はランボーに、知的・哲学的な面はマラルメに受け継がれ、それぞれが自己の詩的世界を発展させることになる。ボードレールが近代詩の父と呼ばれる所以である。
ヴェルレーヌらが登場する前の、1860-1866年にかけて、高踏派Les Parnassiensが出現した。彼らはルコント=ド=リールLECONTE DE LISLE(1818-1894)を盟主とした詩人の集まりで、芸術の功利性を排しその自律性を求める「芸術のための芸術」を主張するゴーチエTheophile GAUTIER(1811-1872)を崇めた。彼らは「主観的で感情過多なロマン主義を克服し、詩における一種のレアリスムともいうべき没個性と不感無覚を標榜」し、高踏派の合同詩集「現代高踏派詩集」Le Parnasse contemporain(1866)を発表した。
ヴェルレーヌPaul VERLAINE(1844-1896)は詩集「土星びとの歌」Poemes satueniens(1866)「雅な宴」Fetes galantes(1869)「言葉なき恋歌」Romances sans paroles(1874)「かしこさ」Sagesse(1881)「昔と近ごろ」Jadis et naguere(1884)などにおいて、「いわゆる雄弁を排し、詩句にメロディの流麗を与えることのみ腐心し」、余情的な音楽性を見せた。日本においても上田敏の訳を通じて深い影響を与えた。
ヴェルレーヌによって若くして詩壇に登場したランボーArthur RIMBEAU(1854-1891)は、ロマン派的な「主観詩」を排して「客観詩」を目指し見えないものまでも見る「見者」Voyantに達しようとした。ヴェルレーヌを巻き込んだ放浪生活を散文詩に綴った「地獄の一季節」Une Saison en Enfer(1873)にも見られるような、彼の短いながらも波瀾万丈の人生は、若者の典型として時代を越えて共感を呼んでいる。
マラルメStephanne MALLARME(1842-1898)は、あらゆる妥協を排し、理解しやすさすら一つの妥協として退け、「芸術の聖性」に行き着いた。マラルメもまた詩句の音楽性を求めたが、ヴェルレーヌとは異なり、「すべてに存在する諸関係の統合」であるハーモニーにこだわった。彼は言葉の中に純粋な「イデア」の放射を求めたが、これは「イデアリスム」と呼ばれる。こうしてマラルメは「純粋詩」を目指したのである。
高踏派の後、19世紀末の詩人たちはブルジョワジーに支配される社会をデカダンスdecadenceとし、デカダン(頽唐派)les decadentsという風潮を作り出した。それを母体にして1886年にモレアスJean MOREAS(1856-1910)が象徴主義宣言を行い、象徴主義Le Symbolismeが生まれた。象徴主義はマラルメを師と仰ぎ、「感覚が与える象徴symbolesによって、より真実の世界をつかむこと、感覚世界から精神世界へ飛躍すること」を目指した。しかしマラルメの詩の難解さからさまざまな誤解が生じたため、象徴主義が一つの文学運動とはなりえなかった。とはいえ、象徴派詩人として出発し夢幻的童劇「青い鳥」L'Oiseau bleu(1909)で日本でも有名なメーテルランクMaurice MAETERLINCK(1862-1949)や、ジャリAlfred JARRY(1873-1907)の象徴主義演劇は革新的であった。特に「制作座」において1896年に初演されたジャリの「ユビュ王」Ubu roiは「第二のエルナニ事件」であり、ダダイスム・シュールレアリスムの予告であった。
二月革命の挫折と反省に加え、自然科学の発達、産業革命の進展により、ロマン主義の過剰な主観性・余情性に物足らなさを痛感した知識人・一般大衆は、現実の、特に人間の社会的側面の冷静な観察と客観的表現を求め自覚しようとした。コントAuguste COMTE(1798-1857)によって創唱された実証主義の思想は文学の創作・批評に浸透し、科学信仰時代に入る。コントを継承したテーヌHippolyte TAINE(1828-1893)はレアリスム・自然主義の理論的指導者となった。実証主義を基盤としたレアリスム運動は、画家クールベGustave COURBET(1819-1877)のレアリスムに呼応して、まずシャンフルリー(1821-1889)とデュランティ(1833-1880)の機関誌「レアリスム」Le realisme(1857)の発行により展開された。
しかしレアリスムの勝利を決定し、以後の多彩な展開の基盤を確立したのは、シャンフルリーの運動に参加せず、逆にそれを嫌悪・軽蔑していたフローベルGustave FLAUBERT(1821-1880)の小説「ボヴァリー夫人」Madame Bovary(1857)であった。「ボヴァリー夫人」や「感情教育」L'Education sentimentale(1869)において彼は「ブルジョワ社会の人間の愚劣さに対する陰うつな諷刺」を展開した。さらに彼は作者主観の作品のへの介入を徹底的に排除を目指し、同時に言語表現における完璧性の追求に腐心した。こうして彼は近代小説を完成者ともなった。
フローベールの「ボヴァリー夫人」の出現によってレアリズム小説は第2帝政期(1851-1871)の文学の主導権を握ったが、レアリズムの方法を一層徹底化することを目指した自然主義が第3共和制時代の1870年代後半から1880年代に隆盛を見る。ゴンクール兄弟Les GONCOURT ,Edmond(1822-1896)et Jules(1830-1870)の「ジェルミニー=ラセルトゥ」Germine Lacerteux(1865)は自然主義小説の先駆的作品となり、自然主義作家ゾラを生むきっかけとなった。
ゾラEmile ZOLA(1840-1902)は「ジェルミニー=ラセルトゥ」に影響されて「テレーズ=ラカン」Therese Raquin(1867)を発表、それと同時に彼は「ナチュラリスム」という語を使い始めた。さらにバルザックの「人間喜劇」に対抗して第2帝政下のフランス社会をより科学的・実証的方法で描こうとし、「ルゴン=マッカール」叢書20巻Les Rougon-Macquart,histoire naturelle et sociale d'une famille sous le Second Empire(1871-1893)にまとめた。この中には、有名な「居酒屋」L'Assommoir(1877)が含まれている。「実験小説論」(1880)では、ゾラはテーヌの決定論に基づいて、「科学者の実験方法を文学作品に適用する」という考えを示し、科学万能時代の下、自然主義運動は成功をおさめた。また、ゾラがマネE.MANETやモネC.MONETら印象派画家たちを熱烈に擁護する美術批評を行ったように、自然主義運動は印象派の美術運動と直接・間接に影響しあいながら展開して、文学・美術の変革を進めた。さらにゾラはドレフュス事件においてドレフュス擁護にまわり、大統領宛の公開文「私は弾劾する!」J'accuse!を新聞掲載し(1898)、闘争を行なった。
「居酒屋」成功の後、ゾラを師と仰ぐ若者たちによって形成された「メダンのグループ」Le Groupe de Medanの一員であり、フローベールの弟子であるモーパッサンGuy de MAUPASSANT(1850-1893)が「脂肪の塊」Boule de Suif(1880)で文壇にデビューし、絶賛を浴びた。「人生の断面を簡単・平明・的確な文章でえぐり、しかも読者の心を捉える物語に仕上げる彼の才能は抜群で、近代レアリスム短編形式の完成者」となった。同じく「メダンのグループ」の一員であったユイスマンスJoris-Karl HUYSMANS(1848-1907)は自然主義から離れたが、「さかしま」A Rebours(1884)において主人公にマラルメやヴェルレーヌの詩を的確に論じさせ、象徴派詩人の真価を世に広める契機をつくった。
ドレフュス事件などの社会不安の激化と厭世的風潮は、自然主義に対する保守派の攻撃を強めることとなった。そして自然主義運動の指導者ゾラ自身が、1890年代末には客観主義を捨てて自らの思想感情を作中であらわすなどして、主観的色彩の濃い理想主義小説を書くようになる。こうして自然主義文学は急速に衰退した。
以上のほかにも、19世紀には様々な動きが存在する。
ロマン主義に影響されて1830年頃から南仏文芸復興運動が活発になり、プロヴァンス語で書かれた詩集が出版されるようになった。ミストラルFrederic MISTRAL(1830-1914)らは文学団体「フェリブリージュ」Felibrigeを結成して、プロヴァンス語の統一・民族意識の高揚・パリ中心の中央集権体制からの離脱とプロヴァンスの栄光の回復を目指した。こうして書かれた傑作の一つに、ミストラルの「ミレイヨ」Mireio,Mireilleがある。
ロートレアモンComte de LAUTREAMONT(1846-1870)は20世紀のシュールレアリスムによって再発見された詩人である。詩集「マルドロールの歌」Les chants de Maldoror(1869)の奇怪かつ華麗なイメージに現れているように、彼は孤立の中で詩的イメージの本質を追求した。そして夢や催眠状態にある純粋な無意識世界に初めて分け入った。こうして彼はシュールレアリスム運動に実質的根拠を与えることとなった。
純粋な観念論ではなく、それなりの「現実」を見据えた姿勢をとる超自然主義Supernaturalisme の作家たちも存在した。代表的な作家として、バルベイ=ドールヴィイBARBEY D'AUREVILLY(1808-1889)、ヴィリエ=ド=リラダンVILLIERS DE L'ISLE-ADAM(1838-1889)、ブロワLeon BLOY(1846-1917)が挙げられる。彼らは、「実利・実証主義万能を排し、カトリシスム擁護のため闘争し、幻想性をもちこむことによってロマン派にその文学を結び付けた」。ヴィリエ=ド=リラダンは、「象徴的あるいは神秘的な手法で、物質主義的社会・および写実主義作家を告発すると同時に、現実に対する夢の勝利」を高らかに謳い、象徴主義の先駆者となった。