16世紀のフランス文学史

16世紀はフランスにおけるルネサンスRenaissanceの世紀である。1493年に始まったイタリア戦争をきっかけにフランス人は当時絶頂にあったイタリア=ルネサンスを目の当たりにし、意識に決定的な変革を起こした。古代の文化の中に新しい人間の生き方を探ろうとする「ユマニスト(人文主義者)」humanisteが活躍し、宗教改革を起こした。しかしそれは宗教戦争を招き16世紀後半には約35年にわたって内乱が起きた結果、ルネサンス文化は凋落した。

現代フランス語とは大きく異なる文法体系を持った中世フランス語も16世紀にはその体系が崩れ、17世紀に新たに再編成される前の過渡期として捉えられる。新たな学芸の発達は語彙の増大をもたらし、作家たちは好んで新語を作ったり取り入れたりした。知識人の間の言語は依然ラテン語であったが、近代国家の成立は国民意識を目覚めさせ、ラテン語に代わりフランス語で書こうとする傾向が強まった。また、フランス語の文法書が多く生み出された。フランソワ1世FrancoisTのヴィレール=コトレの勅令Ordonnance de Villers-Cotteretsは、全ての司法関係の書類をフランス語で書くように命じたもので、フランス語の地位を向上させた。

ラブレーFrancois RABELAIS(?-1553頃)は連作「ガルガンチュアとパンタグリュエル物語」Gargantua et Pantagruel全5巻(1532-1564)を発表した。その中でラブレーは社会批判を含んだ奇想天外な物語を展開し、弾圧を避けるために大胆な言語技法を随所に用い、言語表現の可能性を探った。カルヴァンJean CALVIN(1509-1564)は宗教改革の指導者として君臨した。彼はラテン語で書いた主著「キリスト教綱要」Instituo christianae relogionis(1536)をフランス語に改訂して(Institution de la religion chretienne)1541年に発表した。高度な内容を初めてフランス語で書いたこの作品は、近代フランス散文の確立に大きな影響を与えた。

またイタリア=ルネサンス文学の傑作であるボッカチオの「デカメロン」に影響されて、マルグリット=ド=ナヴァールMARGURITE DE NAVARRE(1492−1549)、デ=ペリエBONAVENTURE DES PERIERS(1510頃−1544)、デュ=ファイユNOEL DU FAIL(1520頃−1591)がその流れをくむ物語作品を発表した。

詩ではまずクレマン=マロClement MAROT(1496-1544)が登場した。中世以来の詩の伝統を継承しつつ、フランスで最初に14行詩(ソネ)sonnetの詩形を試みた。マロにはたくさんの弟子がおり、マロ派と呼ばれる。また、イタリア文化が早く流入したリヨンでは、その自由な空気を吸ったリヨン派と呼ばれる詩人たちが16世紀中頃に生まれた。リヨン派の中心人物としてセーヴMaurice SCEVE(1501頃−1564)が挙げられる。

そしてパリでは、ギリシア・ラテンの古典の研究に打ち込んでいた若い詩人たちが、デュ=ペレーJoachim DU BELLAY(1522-1560)の名の下に新しい文学運動の宣言書「フランス語の擁護と顕揚」Defence et illustration de la langue francaise(1549)を発表した。ここで彼らはフランス語は劣った言語ではなく過去の詩人の怠慢によって優れた作品が生み出せないと述べ、過去のフランス文学を否定しギリシア・ラテン・イタリアを模範とした文学を提案した。ロンサールPierre de RONSARD(1524−1585)をリーダーするこの7人の若い詩人達のグループは、プレイヤッドPleiade(七つ星)派と呼ばれ、詩壇を制覇した。ロンサールの代表作品としては「オード4部集」Quatre premiers livres des Odes(1550)・「恋愛詩集」Les Amours(1552)・「エレーヌへのソネ」Sonnets pour Helene(1578)が挙げられよう。

演劇においても当然ルネサンスの影響が及び、「フランス語の擁護と顕揚」の主張に応えて、エティエンヌ=ジョデルEtienne JODELLEが「捕われのクレオパトラ」Cleopatre captive(1552)を発表した。

そして、宗教戦争による内乱の中、ユマニスム(人文主義)humanismの総決算的なユマニスト、モンテーニュMichel Eyquem de MONTAIGNE(1533-1592)が登場する。 彼は「エセー」Essais(1580,1588)において徹底した相対的思考のもとで人間観察を行なった。そして懐疑を突き詰めた態度として「私は何を知るか」Que sais-je?を銘句にし、人間の理性の限界を暴いた。モンテーニュはフランスにおける「モラリスト」moralisteの元祖とされる。

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