novembre 30, 2008
『トラスティベル ~ショパンの夢~』
Xbox 360 初のアニメ調 3D RPG、ということでヒットを見込んで大量に仕入れたら、大量に売れ残ってしまったのだろうか。2007年6月の発売から3ヵ月後、Amazon.co.jp にて半値以下で投売りされていた哀れなゲームソフトが、この『トラスティベル ~ショパンの夢~』である。ちなみに現在(2008年11月)の Amazon.co.jp での売値は普通の価格に戻っている。
発売元はバンダイナムコゲームスだが、制作はトライクレッシェンド。トライクレッシェンドは元々コンピュータ・ゲーム中の音楽制作の下請けを主に手がけてきた会社で、本作は初の自社作品だという。音楽制作会社らしく、本作では音楽をモチーフにした物語が展開される。
物語の舞台は、19世紀に活躍した作曲家ショパンが39歳で病死する間際に見た夢の中の世界である。武将や政治家ではない歴史上の偉人を物語の根幹に据えたゲームは珍しいのではないだろうか。もちろん、歴史上ショパンが本作のような夢を見ていたという記録はなく創作である。
その夢の世界というのは RPG おなじみの剣と魔法の世界。主な登場人物の名前や地名は全て楽器の名前や音楽用語から採られている。
ヒロインは14歳の少女で、ショパンの妹に顔立ちが似ており、不治の病を患っているためこの世界では魔法が使えるという設定になっている。実際の歴史上でもショパンの妹は当時不治の病と呼ばれた結核のために14歳で亡くなっていて、この事実が物語に密接に関連している。(作中でショパンが妹についてヒロインに語るシーンを読み飛ばしてしまうと、物語世界の構造に加えて、最後のボスを倒した後のヒロインやショパンの行動が理解できなくなる。)ショパン自身も夢の中の世界の人物として序盤から登場するが、世界が自分の夢の中であることを自覚しており、成り行きでヒロインたちと旅をすることになる。なお、ショパンのキャラクターデザインは、今日まで伝えられている写真や肖像画とは全く似ていない。
物語は全8章の構成になっていて、各章は最終章を除くとショパンの著名作品から名づけられている。そして NHK の TV 番組『名曲アルバム』のように、各章に名づけられた曲が演奏されるとともにショパンの評伝が挿入される。演奏しているのはピアノのコンクールの権威であるショパン・コンクールの優勝者で、日本でも有名なスタニスラフ・ブーニンである。
本作の第一の売りは、Xbox 360 の性能を生かした非常に精細で鮮やかなグラフィック。ほとんど全てがリアルタイム描画による 3D であり、ファンタジックな世界の存在感を堪能することができる。ただし視点が固定されているのが惜しい。キャラクターはナムコのゲーム『ゆめりあ』や『アイドルマスター』の系譜に並ぶであろうアニメ調で描かれているため、暖かい雰囲気がかもし出されている。3D ゲームでよく描かれるリアルタッチの美男・美女が苦手だったり飽きたりしている人には受け入れやすいが、アニメ・オタク的なものを敬遠する人には抵抗があるだろう。
本作の第二の売りは、爽快感のある戦闘。ターン制とアクションを組み合わせた独自のシステムを持っている。戦闘用のフィールドの中、ターンごとに制限時間内で各キャラクターを操作してアクションを行う。攻撃も必殺技もボタン一つで行えるので、アクションゲームが得意でない私でも簡単だった。基本的にはボタンの連打によって敵をタコ殴りすることになるので、長時間プレイしていると親指が痛くなる。特定のボス・キャラクターを倒すごとに戦闘システムのレベルが上がり、攻撃力が向上する一方で素早い操作が求められ、難易度がやや高くなる。高いレベルでは必殺技の連鎖を行えるようになり、敵を素早く倒せて気持ちがいい。
味方キャラクターが使える必殺技は、その人物が戦闘フィールドの明るい部分にいるか影の部分にいるかによって変わる。敵によっては、明るい部分と影の部分とで形態と強さが変わる者がおり、敵を影からおびき出したり、敵を突き飛ばす必殺技を使って影から追い出したりするなどの戦術を取ると戦闘が楽になる。ただ、敵の配置が固定なので戦闘もパターン化してしまい、変化に乏しい。
フィールド上にいる敵キャラクターと接触することで戦闘画面に移行する、いわゆるシンボルエンカウントなので、無駄な戦闘は回避することができる。また、味方キャラクターのレベルが上がりやすく、目的地への道中に存在する敵キャラクターを順次倒して行けば自然に理想的なレベルまで上がるようになっている。従って無駄な「経験値稼ぎ」をせずに済み、物語がサクサク進む。
アクションに長けたプレイヤーには簡単すぎるシステムかもしれないが、そんな人々のために隠しダンジョンと二周目プレイがある。隠しダンジョンはボス・キャラクタークラスの敵がうようよしており、この隠しダンジョンにおいてプレイ可能になる最高のパーティーレベルで対処しないと、奥に居るボス・キャラクターを倒すことができない。最高のパーティレベルでは必殺技の連鎖を行うごとにボタン配置が入れ替わっていくため操作が難しく、歯ごたえのある戦闘を楽しむことができるだろう。二周目プレイでは敵が強力になっていて、雑魚モンスター相手でも相手の攻撃の防御に失敗すると瀕死のダメージを食らうため緊張感がある。敵が一匹ではない場合、一匹の敵を倒すために別の敵に背を向けていると防御できず必ずダメージを食らうので、戦術にも工夫を要する。
本作ではもともと、敵の攻撃に対する防御はボタンの連打では受け付けられず、タイミングがシビアである。一周目では防御に失敗しまくってもゴリ押しでクリアできるのだが、二周目では防御できないとクリアは難しい。2008年に発売された PS3 版では、敵の攻撃力が上がっているため防御が一層重要になっているらしく、敵の配置パターンがランダムになっていることもあいまって、難易度が向上しているという。
なお、隠しダンジョンや二周目をプレイをしなくても物語の本筋には全く関係がない。ただ、プレイしないと得られない強力なアイテムやコレクションアイテムがあり、二周目のみに存在するサブイベントがある。個人的には、二周目の敵が強すぎて何度も中断したので、一周目で得たアイテムを全て引継くか敵の強さを選べるようにして欲しかった。
本作の第三の売りは、美しい音楽。ブーニンが演奏するショパンの曲は言うまでもないが、オリジナル曲も出来がいい。音楽をモチーフにしている作品だけあって、抜かりがない。音楽面で個人的に最高傑作だと思っている PC-Engine の RPG『天使の詩II 堕天使の選択』には及ばないが。(『天使の詩II 堕天使の選択』は 1993年の作品だが殆どの BGM が CD 音源。サウンドトラックのダウンロード購入・試聴可能。「オープニング」、「夜の町」、「メインテーマ」は必聴。)
本作の第四の売りは、快適な操作性。前述の最高のパーティレベルを除けば、思い通りに操作できず不愉快になることがない。(そもそも最高のパーティレベルは隠しダンジョンや二周目のクリア以外には必要ない。)ディスクの読み込みで待たされることも極端に少ない。優秀なプログラマを抱えているのだろう。
グラフィック、戦闘システム、音楽、操作性、これらは web のレビュー記事で多くの人が賞賛している。
だが逆に、多くの人が声高に非難する部分がある。それはシナリオである。
実在の人物の人生をモチーフとし、精神世界を舞台にした物語であるだけに、抽象的・象徴的であったり難解であったりするのは悪くない。Xbox 360 のユーザーは恐らく、金銭に多少余裕が出てくる高校生以上の年齢層だろうし。ただ、伏線が充分ではないため、登場人物の言動が唐突な感が否めず、説得力を欠いている。少年や少女が年齢や育ちに反して突然難しい言い回しを使い、プレイヤーへの問題提起を行うシーンがあるのも不自然で興醒めしやすい。
しかし最悪なのは、エンディングのスタッフロールで物語のシークエンスに関係なく、登場人物たちがプレイヤーに対峙し御託を並べ出すことだ。物語に作者のメッセージを込めるのはいいが、それは物語中の登場人物の言動によって示すべきであって、必然性もなく直接登場人物に作者のメッセージを語らせるのは下策だ。メッセージの内容もプレイヤーを落伍者と決め付けて「まだ間に合う」と社会参加・社会復帰を促すようなものになっていて寒々しい。社長が監督と脚本を担当しているから誰も止めることができなかったのだろう。
PS3 版では物語を補完するシーンが追加されると共に、エンディングでの「説教」は改変されたという。発売後の非難を受けてだろうか。賢明な判断だ。後で改変するくらいなら最初から入れなきゃいいのに、とも思うが、過ちを素直に認める態度は評価したい。
なお、本作では物語のナレーターとして森本レオが起用されている。ただ、森本レオが出演しているのはオープニングの世界観紹介とエンディング後に語られる寓話のみである。個人的には森本レオのナレーションは好きなのだが、本作について言えば森本レオは不要だった。商業展開上の話題づくり以上の意味は感じられない。
一周クリアに要した時間は、およそ30時間だった。隠しダンジョンやサブイベント、アイテムのコレクションなどをやりこむのであれば、二周プレイの時間を含めて60時間から70時間はかかると思われる。短いという見解もあるが、クリアするのに50時間とかやりこみプレイで100時間以上とかかかるようなボリュームの作品は個人的にやる気が起こらないので、これくらいでちょうどよかった。
本作の評価は、最高の素材を使いながら上手に調理できなかった料理、という喩えに尽きる。ただ、上手に調理できていなくても食べられるレベルではある。シナリオのまずさに目をつぶれば、優れた作品だと思う。プレイした2007年当時、ユーザーが少ない Xbox 360 に限定しておくには勿体無いコンテンツだと思ったので、改良の上 PS3 用に移植されたのは喜ばしい。
ちなみに海外では『 Eternal Sonata 』というタイトルで発売されている。プロモーションビデオを観ると、まるでハリウッド映画の予告編のようで微笑ましい。海外の大手ゲーム情報サイト「 IGN 」では2007年の Xbox 360 ゲーム・オブ・ザ・イヤーの「ベスト・オリジナル音楽」賞を受賞している。ただし同時に「誰もプレイしなかったベスト・ゲーム」賞も受賞しているので、売れなかったようだ。
投稿者 Dormeur : 10:21 AM | コメント (0) | トラックバック
novembre 21, 2008
『 CROSS†CHANNEL 』考察:メタ解釈
ノベル型アドベンチャーゲーム『 CROSS†CHANNEL 』を自己言及的メタフィクションとして解釈してみる。
ネタバレなので、プレイしていない人は読まない方がいいかもしれません。
ループする世界とは何か
作中の「人類が滅亡し1週間を繰り返す世界」(以下、「ループ世界」)を「マルチエンディングの恋愛アドベンチャーゲーム」(以下、「ゲーム世界」)のメタファーとする。
その根拠として、以下の類似点が挙げられる。
1. 現実世界では人類が何十億人も存在するが、ゲーム世界ではそのうちのごくわずか、主人公と何人かのヒロインと数人の脇役しか登場しない。登場人物は極めて狭い人間関係の中で生きている。他の人類は存在が希薄であり、この希薄さをデフォルメ・極大化すれば人類が登場人物以外全滅した状況となる。
2. ゲーム世界でどんな感動的な展開や惨劇が起ころうと、ゲームをリセットして初めからプレイすれば登場人物はその出来事を記憶していないし、ゲーム世界内の物品も全て元通りになる。登場人物は自分たちの生きている世界がリセットされるものとは気づいていない。ループ世界の放送部員たちも同様にループの初めに戻れば記憶を失い、ループ世界の物品は全て元通りとなり、放送部員たちは世界がリセットされるものとは気づいていない。
3. ゲーム世界が展開されるなか、ゲーム世界がリセットとループによって閉じられており、その中で異なった展開があることを知っている存在がある。それはプレイヤーである。ループ世界の現象やループ中の出来事を知った黒須太一は、情報量でプレイヤーとほぼ同一化する(注1)。ループ世界での太一の情報源は太一自らが記した日記であり、ゲーム世界でのプレイヤーの情報源は主人公による叙述である(注2)。どちらも主人公の視点によって把握された世界という点で変わりない。
4. プレイヤーとほぼ同一化した太一が取った行動とは、日記から得た情報を元にループ世界での同一展開を回避しつつ、ループ単位の1週間を放送部員の少女の1人と出来る限り過ごすことである。一方、ゲーム世界で繰り返しプレイ中のプレイヤーは、過去のプレイ経験や攻略サイトで得た情報を元にゲーム世界での同一展開を回避しつつ、ゲーム世界中の時間をゲーム世界のヒロインの1人と出来る限り過ごそうとする。
5. ゲーム世界では、主人公がゲーム世界のヒロインの心の傷を救済する展開を取ることが多い。主人公が1人のヒロインの心の傷を救済した場合、その他のヒロインの心の傷は放置される。全てのヒロインの心の傷を救済しようとするなら、世界をリセットさせてやり直すしかないが、それでも1人ずつしか救済できない。太一も世界をリセットさせて1人ずつ放送部員の心の傷を救済する(注3)。
6. ループ世界に一人残り記憶を保ち続ける太一だが、世界が分断されているため放送部員とはコミュニケーションを行うことができない。可能なのは一方的な呼びかけだけであり、その呼びかけが届いているのか知る術がない。ゲームのプレイをやめたプレイヤーは、世界が分断されているためゲーム世界中のヒロインとはコミュニケーションを行うことができない。可能なのは一方的な呼びかけだけであり、その呼びかけが届いているのか知る術がない。
プレイ1周目の世界とは何か
『 CROSS†CHANNEL 』の1周目は、関係がギクシャクしていた放送部員たちが和解を果たし、共に放送を始める学園ものストーリーである。人類の滅亡や世界のループは示されていない。放送部員をはじめ、学園の生徒が狂気を孕んでいることも示されておらず、太一は放送部員と対立していない。放送部員以外の人間がいる。これらのことから、1周目が少なくともループ世界の出来事ではないことがわかる。では、何なのか。
ラストシーンで眠る太一が見た夢、あるいは太一の願望と捉えることが一般的だろう。しかしループ世界がゲーム世界のメタファーであり、太一とプレイヤーがほぼ同一化しているとすると、1周目はゲーム世界を好むプレイヤーが耽溺したい学園ものゲーム世界のモデルとして提示されているとも考えることができる。
「萌え」の記号が散りばめられたキャラクターによって、コメディや純愛感動ストーリーが展開されるゲーム世界。その表層を剥ぎ取ればループ世界のように狂気に彩られていることを否定するものは、実は何もない。主人公に愛を注ぐ献身的なヒロインだって、程度が過ぎれば恋愛依存症のストーカー。ツンデレ属性のヒロインだって、程度が過ぎれば敵対者。委員長属性のヒロインだって、程度が過ぎれば自分で自分を生きづらくしている愚か者。「萌え」の記号によって個性が与えられたキャラクターの世界は、ちょっと境界線を越えれば簡単に悲惨で破滅的なストーリーに転んでしまいかねない(注4)。そして実際に境界線を越えたのが、『 CROSS†CHANNEL 』の少女たちではないか。
狂っているのは何か
『 CROSS†CHANNEL 』についてどこかの blog で書かれていた感想に、「主人公が狂っているのに、少女たちが心を許して主人公に迫ってくるのは気持ち悪い」というものがあった。ある意味でこれは正しい。主人公がどうであれ作中の女性たちに好かれるのが、恋愛アドベンチャーゲームというものだからである。
主人公や少女たちは本当に狂っているのだろうか。ゲーム世界の主人公や少女たちは、物語の筋書きに従って行動している。主人公はプレイヤーの操作にも従う。自分たちは他者に対して自動的に対応せざるを得ないのだ、と自分たちの狂気について太一は語っているが、その自動性は物語によって強いられた行動様式である。登場人物が物語から外れて自律行動することなどないのだから。
太一が複数のヒロインと情交するのは、ゲーム世界に対するプレイヤーの態度を模倣したものに過ぎない。主人公とヒロインの純愛、人生で1回きりの運命的な恋愛を体験しているにも関わらず、プレイヤーはゲーム世界で複数のヒロインを次々と攻略する。とんでもない好色家であり浮気者である。純愛とも運命的な恋愛とも程遠い偽善者だ。太一の気持ち悪さを考えると、プレイヤーの気持ち悪さもまた浮かび上がってくる。
狂っているのはプレイヤーかもしれないし、恋愛アドベンチャーゲームそのものかもしれない。
太一の決断
太一と和解した少女は、そのつど元の世界へ消えていく。一旦消えれば世界がリセットされてもループ世界に現れないまま、新たな一週間がスタートする。ゲーム世界でも、攻略済みのヒロインは別のヒロインの物語には現れもしないか、物語の背景に過ぎない。全ヒロインを攻略してしまえば、もはやそのゲームから新しいものは得られない。プレイヤーに残されるのは、ヒロインとともに過ごした時間の思い出だけだ。だから最後には、ゲーム世界を模倣している太一のもとに誰もいなくなった。あらゆる登場人物が消え去り、太一だけが残される。太一は登場人物の思い出だけを拠り所にして生きる。
太一はループ世界の中でひたすら少女たちをとっかえひっかえして、恋愛を楽しみ続けることはしなかった。そんなことをしても同じゲームを繰り返すように飽きが来てしまうから。ならば自分も記憶を失ってループするか。それでは互いに傷つけあうだけの人間関係と、いつ惨劇に転ぶともしれない状況を繰り返すだけだ。ならば特定の少女とループ世界で暮らし続けるか。そうしようにも、狂気を抱えた太一と互いに理解しあえる相手は彼女たちのなかにいなかった。太一は自分が他者と理解し合えるとは思わなかった。太一は自分が暴走して他者を傷つけることを恐れている。一人になれば他者を傷つけることも他者に傷つけられることもない。だから太一だけが残った。しかし孤独には耐えられなかった。
ゲーム世界は一時的で不毛なコミュニケーションである。プレイヤーがゲームを終えればそれっきりだ。プレイヤーが帰って来た現実世界も一時的で不毛なコミュニケーションである。死ねばそれっきりだ。どちらにせよ、相手と一体にはなれない。だが生きていれば、他者にメッセージを発信し続ければ、一時的であっても他者と通じることが、CHANNEL が CROSS することがあるかもしれない。
だから太一は、ラジオ放送を通じて顔の見えない誰かにメッセージを発信し続ける。
だからプレイヤーは友人に、あるいは Internet の先の顔の見えない誰かに向けて、感想や考察を語る。
だからシナリオライター田中ロミオは『 CROSS†CHANNEL 』を書き、作品を通じて顔の見えない誰かにメッセージを送った。
ラストシーンが謎めいているのも、プレイヤーに他者への語りを喚起させる仕掛けなのではなかろうか。
注意
以上の解釈は確定的、絶対的なものではない。例えば、登場人物の中で例外的にメタ視点から事態を把握している七香の存在をどう絡めて解釈するかは意図的に無視している。作中最大の謎であるエピローグ「黒須ちゃん寝る」も同様。
- 注1:プレイヤーには明かされていないループを記した日記の存在が作中で言及されているため、「ほぼ」という語を用いた。
- 注2:ゲーム世界はほとんどの場合、主人公による一人称で叙述されている。
- 注3:但し、本作では太一とヒロインは必ず離れ離れになってしまうため、救済は完全ではない。太一はヒロインの抱える問題を彼女自身の手で克服するようヒロインに宿題を課して別れる。ヒロインは太一に依存しない自立した生き方が求められることになる。恋愛の成就とヒロインの救済をもって物語を終える一般的な恋愛アドベンチャーゲームとの大きな差異が、そこにある。
- 注4:それを意識しているかどうかは不明だが、萌えギャグマンガ『らき☆すた』を悲劇に改変した二次創作作品が多数の作者によって作られている。参照:「『泉こなたを自殺させる方法』を考えるスレ」
投稿者 Dormeur : 08:50 PM | コメント (0) | トラックバック
novembre 17, 2008
『 serial experiments lain 』10周年 (3)
雑誌連載版『 serial experiments lain 』
アニメ雑誌の「 AX 」にTV アニメの放送に先駆けて1998年の3月から連載が始まり、同年11月に連載が終了した企画。キャラクター原案や『 lain 』各商品のパッケージイラストを手がけたイラストレーター安倍吉俊がイラストを担当し、アニメ版の脚本家小中千昭がテキストを担当。アニメ版の世界観を伝えると共に、PS 版との橋渡し的な意図も込められている。
安倍吉俊のイラストは精密な描写とアニメチックでない重厚な色彩感覚が素晴らしい。私の個人的なお気に入りは、アニメ版本編で描写が簡略化された紅茶のシーン。最終回で孤独になった玲音が、幻想の中で父の幻影(=神?)に紅茶とマドレーヌを振舞われ、その優しさに嬉し涙を流し、現実世界への愛情を見出す。記憶を巡る物語である Marcel Proust の『 A la recherche du temps perdu 』に対するベタベタなオマージュである。
1998年に出版された公式画集『 an omnipresence in wired 』と2005年に出版されたその復刻版『 yoshitoshi ABe lain illustrations 』に収録されている。
安倍吉俊の絵に魅せられたなら、彼自身が原作・キャラクターデザイン・脚本を務めたアニメーション作品『灰羽連盟』(2002年)をオススメする。2007年に廉価版 DVD-BOX が発売されて、入手しやすくなった。生と死の狭間の世界に、人でも天使でもない「灰羽」という存在として生まれ変わった少女たち。そんな彼女たちの出会いと別れを描いた、珠玉の物語だ。
10年経って
この10年でも PC やネットワークの構造、ユーザーインターフェースなんかは根本的な変化がないので、10年前の作品といっても SF 描写に古びた感じが全然しない。目に付くのは CRT モニタやアクセラの設定(ベース・クロックが 100MHz )くらいのものだ。逆に、小中学生が電子メールやネットワークゲームを日常的に利用しているという設定は、1998年当時としては新鮮味があっただろうが、現在では SF ではない日常の風景と化している。CG の活用も、現在の製作環境では物珍しくない。
作風でいうと、アニメの世界では虚実の境界を曖昧に、という点やメタフィクション的演出では今敏の仕事が思い浮かぶ。コンピュータ・ネットワークに宿る幻想をモチーフにしている物語だと、PC ゲームの『最果てのイマ』あたりだろうか(未プレイなので噂話程度にしか知らない)。
PS 版『 lain 』と同様のシステムを持ったゲーム作品は聞かない。サスペンスやホラーといったジャンルには親和性の高いシステムだと思うが、ゲーム性が低い上にマルチエンディングによるボリュームの増大ができないので追随できないのかもしれない。ノベル型作品だが、『ひぐらしのなく頃に』の TIPS システムや「カケラつむぎ」のように、情報の断片化と統合という面で演出の一環として補助的に使用している例はある。
投稿者 Dormeur : 09:32 PM | コメント (0) | トラックバック
novembre 16, 2008
『 serial experiments lain 』10周年 (2)
PS 版『 serial experiments lain 』
TV アニメ版『 serial experiments lain 』の首都圏での放送が終了した1998年11月、プレイステーション( PS )用ゲームソフト『 serial experiments lain 』が発売された。ただしゲーム版の企画・シナリオにも参加している小中千昭によれば、PS 版の製作は TV アニメ版よりも先行して着手されており、TV アニメ版が製作されるかどうかは確定的でなかったという。
TV アニメ版とゲーム版で題名は同じ。岩倉玲音という名の少女が登場し、彼女を清水香里が演じているのも同じだが、玲音以外の TV アニメ版の登場人物はほとんど登場しない。一つのシークエンスとして明確に描写される物語も存在しない。
そもそもこの作品がゲームソフトなのか、という疑義も存在する。インタラクティブ・コンテンツと言うべきかもしれないが、ノベル型アドベンチャーゲームがゲームと呼べるなら、この作品もゲームなのだろう。版元のパイオニア LDC は本作のジャンルを「アタッチメント・ソフトウェア」と称しており、同種の名称が冠されたソフトウェア作品に同社の『 Noël 』シリーズがある(但しゲームシステムもテーマもかなり異なる)。
プレイヤーが自分の名前を入力してゲームを始めると、縦の円筒状の空間に、数百個のデータの断片が配置されている。プレイヤーが架空のオペレーション・システムを操って、コンピュータ・ネットワーク上のデータを再生(プレイ)する、という設定だ。データの再生の順序は任意だが、特定のデータが再生済みでないと再生できなかったり、本作を結末まで何度かプレイしないと再生できなかったりする。プレイ状況次第で新たに出現するデータもある。説明書によれば、円柱の下層ほど過去に近く、上層ほど現在に近いデータであるとされている(しかしそれが正しいかどうかは保証の限りではない)。何も操作せずに放置していると再生されるデータというものも20種類ほど存在する(これがまた、トラウマになりそうなほど不気味だ)。
それらのデータの内容とは、主に次のようなものである。
- 女子小学生(のち中学生)である岩倉玲音の日記(音声のみ)
- 研究所の新人女性研究員で精神科医である米良柊子の日記(音声のみ)
- 玲音と柊子のカウンセリングにおける会話(音声のみ)
- カウンセリング結果レポート(音声のみ)
- アニメーション動画(TV アニメ版とは内容や画風が異なる)
その他、システムのアップデートプログラム、柊子と玲音の友人の会話(音声のみ)や警察の捜査記録(音声のみ)、記者会見の記録(音声のみ)といったものがある。
プレイヤーがゲーム内でできるのは、セーブやゲームの終了といったメタ操作を除けば、データの断片を再生していくこと、ただそれだけ。自ずと作品の全体像の把握が目標となるだろう。
上記でしつこく「音声のみ」と書いているように、この作品では一般的なアドベンチャーゲームとは違って会話や叙述は文章として表示されることがない。プレイヤーが内容を理解しようと思えば、音声をスキップすることなく耳を傾けざるを得ない。
だが、プレイヤーが内容を理解しようとデータの断片を記憶・整理・再生すればするほど、細部が明瞭になっていくのに反して全体像が曖昧になっていく。当初はプレイヤーはこう思うはずだ――幻覚・幻聴に悩む内気な少女が、何かの研究所でカウンセリング療法を受けている、と。しかし少女はハッキングと精神医学の知識をメキメキと身につけ、逆にカウンセラーの精神はどんどん脆くなっていく。カウンセリング結果レポートは二人の音声が交錯するようになり、カウンセラーが少女の治療を行っているのか、少女がカウンセラーの治療を行っているのか判然としなくなる。二人の日記の記述と会話の内容に矛盾が生じ始め、虚実が入り混じる。二人の日記に登場する人物は果たして実在したのか? アニメ版と同様に、客観的な正しさは存在しない。あらゆる結論はプレイヤーに委ねられている。
特定のデータを再生すると、再生したことのあるアニメ動画が1本に連結されて再生される。そして玲音の最後の行動を記録したアニメ動画が続き、本作は一応の結末を迎える。条件が満たされていれば、画面に玲音の顔が浮かび上がり、プレイヤーの名前を呼んで語りかけてくる。その言葉と、アニメ動画での玲音の行動を重ね合わせれば、こう考えることができるだろう――玲音はプレイヤーの脳内にダウンロードされ、プレイヤーの記憶として存在し続けるのだと。「記憶とは記録に過ぎず、自我とは記録されたデータの集積の一側面に過ぎない」という論理がそこにはある。データとしてフラット化した玲音は、もはや物事の虚実や自我の同一性・単一性に悩まされることがない。
重要なのは、アニメを視聴する場合とは違って、ゲームでは「プレイヤーによる操作」という能動的かつ積極的な行動が求められていることである。だからこそ、プレイヤーはより作品世界に接近し、境界を侵犯し、作品世界に結合する。あたかも、神秘主義の宗教のように。プレイヤーの精神の安定は揺さぶられ、単調な BGM がそれを加速させる。それゆえに「精神を病むゲーム」とも称される。
本作に物語があるのだとすれば、それはプレイヤーが参画し、データの断片からプレイヤー自身の意識の中に作り上げた物語だ。物語の主人公は玲音ではなく、プレイヤー自身である。小説でも映画でも表現できない、コンピュータ・ソフトウェアでのみ実現できる物語だ。
残念なことに、本作は TV アニメ版とは違ってもはや中古市場でしか流通していない。私が何年も前に入手したときは、5800円の新品定価に対し、中古ソフト店で8000円程度の価格がつけられていたと思うが、今や概ね1万円から2万円程度の範囲内で取引されているようだ。版元がゲームソフト事業から撤退しているのと、CERO による倫理審査前に発売された作品で現在の倫理審査をパスできるのか不明瞭なことから、PlayStationStore によるダウンロード販売も望み薄である。
ロシアの『 lain 』ファンサイトに CD-ROM のイメージファイルらしきものがアップロードされているようだが、権利者の許諾を得ているかどうかは極めて怪しい。なお、正規にイメージ化した ROM は PS エミュレータ「 ePSXe 」では動作させることができなかったが、「 XEBRA 」では動作した。本作の動画・音声データはデータ形式が特殊らしく、「 PSxMC 」では未だにリッピングできない。
参考リンク
[game]PS版 serial experiments lain
http://materia.jp/blog/20051107.html#p02
悪夢のダウンロード~「serial experiments lain」がプレイヤーに与えるもの
http://homepage1.nifty.com/sawaduki/game/sawa/lain.html
投稿者 Dormeur : 10:32 PM | コメント (0) | トラックバック
novembre 15, 2008
『 serial experiments lain 』10周年 (1)
そういえば、『 serial experiments lain 』が世に出てから今年は10周年にあたる。
『 serial experiments lain 』とは何かというと、TV アニメ・ゲームソフト・雑誌連載を連動させたメディアミックス企画で、その名の通り「連続」( serial )的で「実験」( experiments )的な作品だ。
その内容を敢えてジャンル分けするなら、近未来 SF とサイコサスペンスとファンタジーの混合物とでも言おうか。
作中に登場する企業ロゴをこのサイトのアイコンに使わせてもらってるほど好きな作品で、DVD (北米版を含む)や音楽 CD 、公式画集やシナリオ本といった関連商品を買いあさったものだ。10周年という節目に語ることは私にとって最低限の義務かもしれない。
『 lain 』のテキストや脚本を手がけた小中千昭によると、企画が動き出したのは1996年の末頃のこと。その前年には阪神淡路大震災と地下鉄サリン事件が起き、TV アニメ『新世紀エヴァンゲリオン』の放送が始まった。1996年は『エヴァンゲリオン』の放送が終了し、マスコミを巻き込んで「エヴァ・ブーム」が起ころうとしていた。閉塞的な雰囲気が漂っていた社会状況で生まれたそれらの事件から、精神世界への関心が高まりを見せていた。その一方で、携帯電話、 PC、Internet 、マルチメディアゲーム機といった情報機器が急速に普及し始めていた。そんな時代だからこそ『 lain 』の企画が生まれ、商業展開に至ったと思われる。
情報技術の発達に伴う社会と個人のボーダーレス化、経済のグローバル化という時代の変化をなぞるように、あるいは変化を予告するかのように、『 lain 』は「境界の破壊と結合」という実験を行った。
TV アニメ『 serial experiments lain 』
TV アニメ版の『 serial experiments lain 』は1998年の夏から秋にかけて深夜に放送された(私の住んでいた大阪では放送が翌年にずれ込んでいたと思う)。
1998年というのは、『エヴァンゲリオン』のヒットを受けてアニメブームが起き、 TV アニメ作品のビジネスモデルが大きく変わり始めた年だ。ロボットアニメや魔女っ子アニメのように、おもちゃ会社が作品に関連して制作するおもちゃの売上げによってアニメ作品の製作資金を回収するのではなく、作品を収録したビデオテープや DVD の売上げを中心としてアニメ作品の製作資金を回収する。それと併せて作品のマンガ化やゲーム化、グッズ化を進め利益を得る。マンガ作品やゲーム作品がアニメ制作の出発点であることも多い。そのために放送権料が安い深夜の時間帯にアニメ作品を TV 放送し、一連のコンテンツを宣伝するのだ。深夜放送ゆえの表現規制の緩さもあいまって、性表現、暴力表現、難解な物語性、難解な映像表現などを有したマニア向けの作品が多く作られるようになる。同時に、マンガ作品のアニメ化が安易に展開され、アニメ作品の粗製濫造が進んでいく。TV アニメ版の『 lain 』は、現在に至るまで続くその流れの初期に生まれた作品である。
物語の舞台は、コンピュータ・ネットワークによる情報流通が発達した近未来の東京。しかし現代の東京と比べても大して変わりはない。自動車が空を飛ぶこともないし、人間そっくりのロボットが現れることもない。この作品の世界では、コンピュータ・ネットワークは「インターネット」ではなく「ワイヤード」と呼ばれ、ネットワーク端末は「パソコン」でも「ケータイ」でもなく「 NAVI 」(ナビ)と呼ばれている。
主人公は岩倉玲音(いわくら れいん)という名の私立中学2年生の少女。年齢に反して子供っぽく、内気な性格をしている。人間関係が乏しく、ほとんど友人がいない。そんな彼女と同じ学年で顔見知りの少女、千砂(ちさ)が飛び降り自殺を遂げるところから物語は始まる。死んだはずの千砂から学校の生徒に電子メールが届き始め、ついに玲音の下にも届く。そのメールの内容は、「自分は肉体を捨てただけで生きている。ここには神様がいる」というものだった。関心を抱いた玲音は、父親に新しい NAVI をせがむ。時を同じくして、玲音は日常生活の中で幻聴や幻覚を体験し始める。
玲音の友人たちは、遊びに出かけた渋谷のクラブ「サイベリア」で、玲音に似ているが性格がまるで違う人物を目撃したと玲音に語る。友人たちにサイベリアに呼び出された玲音は、ドラッグを摂取した少年による銃撃事件に遭遇する。少年は玲音の姿を見て怯え出し、「何故自分にこんなことをさせるのか。ワイヤードはリアル・ワールドに干渉してはならない」と玲音に向かって叫ぶ。玲音は突然人格が豹変し、「どこにいたって、人は繋がっているのよ」と言い放つ。その直後、少年は銃で自殺を遂げる。
警察に保護される玲音だったが、家族の反応は奇妙なものであった。父親に与えられた最新型の NAVI を使い、玲音はワイヤードへのアクセスを深めていく。何者かから NAVI の性能を飛躍的に向上させる部品を与えられ、NAVI を改造してワイヤードを縦横無尽に巡る。ワイヤード内での玲音は、内気な少女ではなくサイベリアの玲音のように攻撃的な性格をしている。
一方、世間ではネットワークゲームのプレイ経験がある少年が少女に追われて自殺したり、追いかけてきた少女を殺害したりする事件が起こっていた。玲音の姉、美香(みか)は自動車が往来する渋谷の路上に立ち尽くす玲音の姿や、街頭の TV 画面に玲音の顔が現れるのを目撃する。玲音は雲間から現れた玲音の幻影を崇める子供たちの姿を目撃する。岩倉家の前には謎の黒服の男たちが現れ、玲音の監視を始めている。美香の前に「預言を実行せよ」というメッセージが現れ、時制の異なる二人の美香が邂逅し、美香は自我を失う。数々の事件には、謎のハッカー集団「ナイツ」の関与がほのめかされる。部屋いっぱいに改造と拡張を重ねた NAVI で玲音はワイヤードにアクセスし、事件の真相を追う。
物語の時制は曖昧になり、一人の人間としての玲音の同一性も曖昧になっていく。画面に現れる映像は現実なのか、玲音の精神世界なのか、ワイヤード内の仮想現実なのか。新たに人格の異なる玲音が現れ、友人たちや学校の生徒たちが抱える秘密をワイヤードに暴露したことで玲音は孤立する。玲音の家族はその虚構性を露わにして崩壊する。玲音の前にワイヤードの「神」を名乗る男、英利(えいり)の幻影が現れ、事件の真相や玲音の正体について語るが、その内容が事実かどうかすら定かではない。
ワイヤードと現実世界と玲音の意識が混濁するうち、玲音は現実世界を自分の都合のいいように改変することを決意する。物語の始めから玲音を気遣い続けてきた友人、ありすに対して、「人格の異なる自分が行った罪をなかったことにする」と玲音は伝えた。そして世界は改変される。ありすだけが元の世界の記憶を保っていた。ありすは岩倉家にいる玲音を訪ねるが、玲音と英利の問答に巻き込まれ、放心してしまう。掛け替えのない友人の心を狂わせてしまったことを悔やんだ玲音は、ある決断を実行する。「記憶なんてただの記録。記録なんて書き換えてしまえばいい」と。
この物語では、『トロン』『ニューロマンサー』『マトリックス』といった SF 作品とは違い、「コンピュータ・ネットワークが現実世界を模倣している」のではなく、「現実世界こそがコンピュータ・ネットワークの模倣である」という可能性が示唆される。コンピュータ・ネットワークの情報が現実世界を侵食し、人々の認識と意識がコンピュータ・ネットワークのように結合される。「人間の記憶は記録に過ぎない」というドグマのもと、コンピュータに保存されたデータを書き換えるように、人々の記憶や歴史が書き換えられる。
演出面においても、作品と視聴者の分断を破り、視聴者を作品世界に接続しようという意図が端々に見られる。客観的な正しさが保証されない作品世界を前にして、視聴者は混乱を来たし、真相を求めて作品に接近せざるを得ない。視聴者が虚実の入り混じった作品世界に接することで、視聴者の玲音に対する認識は頻繁に書き換えられ、視聴者それぞれの「玲音」像が生まれる。あたかも作中内で表明される「玲音は遍在する」というドグマのように。最終話において、玲音は画面上にぼんやりと現れ、視聴者に語りかけるかのように、画面の外側へ自分の居場所と正体を問いかけてくる。その姿を見て、視聴者は玲音と自らが接続されていることを否応無く意識させられる。
本作の奇跡として、玲音を演じた清水香里のことも触れておきたい。清水香里は当時子役あがりの中学生で、玲音の存在感にひどく生々しさを感じさせる。その演技は初め棒読みスレスレに思えるが、実際には彼女は玲音の持つ多面性を演じ分けることに成功している。次回予告では物語の内容の説明はされず、清水香里のフェティッシュな実写映像が流され、本編での無機質な世界観と対比を成している。
1998年は TV アニメの製作現場にコンピュータが導入された端緒期にあたり、コンピュータ・ネットワークの世界という本作の題材もあいまって、CG やデジタル処理された映像が随所に用いられている。制作スタッフにコンピュータ・マニアが多くいたことから、コンピュータ・マニアな視聴者を惹きつける、先進的かつ混沌とした独特な感覚の映像表現が多用されている。
本作は第二回文化庁メディア芸術祭アニメーション部門優秀賞を受賞しているが、星雲賞は受賞していない。知名度の低さが災いしたのだろうか。
廉価版 DVD-BOX が現在でも販売されており、入手は容易。海外での人気も根強いようで、YouTube のような動画投稿サイトに本編が丸ごとアップロードされているのを見かける。ただし廉価版 DVD-BOX には次回予告や、「ウェザーブレイク」という画像(本放送時、次の番組が天気予報だったので橋渡し的な意味で放送された)が収録されていない。
投稿者 Dormeur : 10:04 PM | コメント (0) | トラックバック
novembre 13, 2008
『 Memories Off #5 とぎれたフィルム 』考察
『 Memories Off #5 とぎれたフィルム 』の web での評価を探ってみると、評価が低くて意外だった。もちろん個々人の嗜好が作用して評価にバラつきが出るのはもっともなのだが、それにしても評価が低すぎないかと思う。
シナリオが薄っぺらい?中途半端?
恋愛関係とヒロインの抱えるトラウマの解消で悩んでいた従来の主人公たちに比べると、今回の主人公・春人は、先の2点に加えて仲間たちとの友情、映画制作の夢という課題がのしかかり一層ややこしい立場にある。恋愛の成就は友情や夢と必ずしも両立しない。だからエンディングにおいて、友情や映画制作の面で全て丸く収まらず中途半端になることがあるのは必然的だ。そもそも従来シリーズだって、主人公とメインヒロイン以外のヒロインの恋愛は、メインヒロインを犠牲にして成り立っている。だからこそ、ラストカットは犠牲者ゼロで友情も夢も犠牲にしない稀有なパターンであり、ハッピー・エンドの印象が際だつのだ。
もし春人が絶妙の立ち回りを発揮すれば、ラストカットをベースに美海を脚本担当として、瑞穂をアドバイザーとして映画制作に巻き込み完全な大団円に持っていくこともできるだろうが、さすがにそれは出来すぎというものだろう。器用に問題を収拾する主人公なんて、それこそメモオフシリーズの主人公らしくないし。
ルートによっては映画完成の経緯がスパッとカットされていることがある。長さのバランスを取るためだと思うが、ここを「薄っぺらい」「中途半端」と評するのは議論が分かれる。詳細に描いたら描いたで、「長ったらしい」と言われそうだ。
瑞穂エンドに納得いかない?
瑞穂ルートでは、映画制作の夢に対して主人公は正面から向き合っていない。あすかの問題だって、瑞穂の事情を知ったあすかの方から折れてくれたのであって、主人公は何も解決していない。そして瑞穂と気まずくなれば、職場放棄という失態を犯す始末。主人公は逃げてばかりだ。だから作り手は主人公に瑞穂を失うという天罰を下したのだ。麻尋ルートの「フタリキリ」エンドで、仲間との友情と映画制作の夢を両立させる努力をせずに恋愛にかまけた主人公に堕落の道しか与えていないところを見ても、作り手の意図は明らかだろう。
美海ルートでも作り手の意図は一貫している。美海 A エンドで主人公が美海を失っていないのは、あすかの気持ちを汲んだうえで美海の問題にきちんと向き合ったからだし、友情からも映画制作の夢からも離れていないからだ。もしも春人が美海を映画制作に参加させず、独り占めして可愛がるという選択肢があったとしたら、恐らく美海も瑞穂と同様の道を辿ったはずである。
瑞穂 B エンドの意義は、プレイヤーに瑞穂が抱えていた苦悩を疑似体験させたことにある。安直に悲劇を描いてプレイヤーに衝撃を与えようとしたのではない。死別からどう立ち直るべきか、プレイヤー自身に降りかかった出来事として考えるよう促しているのである。
サスペンス要素が安っぽい?
確かに、雄介の死の謎を伏して物語を引っ張る割に、麻尋ルートで明かされる真相は意外性に乏しい。一見すると、麻尋がさっさと真相を語っていればサークルメンバーの仲もそれほどこじれなかったように思われる。
だが、麻尋は対人コミュニケーションが不得手であることにプレイヤーは留意する必要がある。作り手がわざわざ麻尋視点を設けてまで描写している以上、麻尋のコミュニケーション能力の低さは作品を理解するうえで最優先事項である。リバースカットで判るとおり、麻尋は動揺しているときほど人前では強がって不敵な言動を繰り返し、本心を素直に吐露できない。自分が原因で諍いが起きて2人が死ぬ、というのは一般論で考えても悪夢のようだが、死んだのが自分にとって大事な人間なら尚更だ。麻尋にとって、そんな思い出すのも辛い事件の詳細を語るには、心が安定するだけの相当の基盤がなければならない。
麻尋の望みは3つある。1つ目は雄介の台本を映画化すること、2つ目はサークルのメンバーに自分を受け入れてもらうこと、3つ目はあすかにネックレスを渡すことである。サークルのメンバーに受け入れてもらうためにもネックレスを渡すためにも、あすかに会って話をしなければならないが、あすかが対話を拒絶しているうえ、メンバーも二人の接触を回避しようと手を回しているので会うことすら難しい。それに麻尋が真相をあすかに話したところであすかが協力者になる可能性は低い。あすかが求めているのは真相よりもまず、自分の居場所を確保することだからだ。むしろ麻尋が積極的にあすかにアプローチすればするほど事態が悪化するだろう、と麻尋にも予見できる。だから麻尋はあすかの問題は機会が到来するまで保留しておき、雄介の台本の映画化を優先した。麻尋にとって3つの望みが満たされない不安定な状況が続くため、終盤に3つが満たされる可能性が見えて心の余裕ができるまで真相を話そうとしないのである。
そうだとしても、「人殺し」呼ばわりされて麻尋は辛くないのか、というともちろん麻尋は陰で泣くほど辛い思いをしている。だが麻尋は本質的に臆病なため、自身の弱みを見せて拒絶されるよりは、虚勢を張って誤解されたままの方がマシだと思っているのだ。恋愛に関しても同じことが言えるのは、春人への恋心を否定しようとする言動や、相思相愛の春人から理由も言わずに去って行く行動を見れば明らかである。
香月ルートにおいて、香月に雄介との関係を問われて激怒したのは、麻尋の心に隙が出来ていたところに雄介への罪悪感を刺激されたからだと思われる。映画制作まで放棄したのは、香月との関係を修復する自信がなく、「自分に雄介の映画を作る資格もサークルメンバーに関わる資格もない」といった調子で遁走したのだろう。
重要なのはキャラクターそれぞれの立場と価値観に基づく心理であって、その絡み合いが「 Memories Off 」シリーズの醍醐味だ。サスペンス要素はプレイヤーの興味を煽るための味付けに過ぎない。
登場人物の行動が突飛で共感できない?
描写から理解できる限り、登場人物の行動に大した矛盾はない。共感できるかどうかはともかくとして、登場人物は各々の立場と価値観に基づいて行動している。プレイヤー個人の立場と価値観で判断すれば登場人物の行動は突飛かもしれないが、登場人物はプレイヤーと同一ではないのだから、登場人物の行動は登場人物の立場と価値観で評価すべきだ。
どれだけ無粋にならずに登場人物の行動に説得力のある説明を行うかが作家の腕の見せ所なのだが、本作では説明の仕方が上手か下手かはともかくとして、必要な説明は最低限されている。あとはプレイヤーの読解力の問題だと思う。
そもそも、「 Memories Off 」シリーズに共感できるような登場人物っていたっけ?
お色気描写が多い?
主人公が大学生の男子ともなれば、女性の肉体的な魅力に興味がないのは不自然だし、一人暮らしのアパートで互いに好いた男女が夜を明かすなら、性交渉を仄めかす描写がないとかえって不自然だろう。今時の一般的な価値観で言えば、高校生でも恋人同士で性交渉がないのは少数派なはず。
家庭向けゲーム機用ソフトウェアの倫理制限内であるにせよ、性描写が前面に出てくるのは「 Memories Off 」シリーズにそぐわない、という見解もあるが、散々男女の恋愛の修羅場を楽しんでおきながらプラトニック・ラブを求めるというのは矛盾してませんか。
あすかがうざい?
確かに、あすかはうざい。しかしあすかの恋愛感情に気づいておきながら、それにきちんと向き合わない春人にも責任はある。麻尋の登場によって顕在化するあすかの心の問題についても、あすかにきちんと向き合って丹念に話を聞いていれば、あすかの家庭環境や友人関係、雄介に対する感情の捩れといった事実から、あすかの行動の源が問題からの逃避と逃避場所の確保にあることは早期のうちに春人に見えたはずだ。あすかの年齢や経歴、現況を総合的に勘案すると、あすか一人に責任を押し付けたり自己解決を求めるのは酷というものである。最も罪深いのはあすかの両親だが、親として娘をサポートする責任を放棄している以上、唯一あすかを導ける立場にある春人が何とかするしかない。
プレイヤーも、あすかが抱えている事情を知れば無闇に「あすかがうざい」と切り捨てる訳にはいかないはず。えっ、あすかは健気で萌える? あれは健気というより病的依存だ、目を覚ませ!
まあ、あすかと同じく主人公に一方的に好意をぶつけてくるキャラクターである『 Memories Off ~それから~ 』の鷺沢縁とは違って、相手の気をひくために動物や自分を傷つけるようなことをしない分だけあすかは理性的ではあるけど。ひょっとして、あすかルートでバッド・エンドを作ろうとすると縁と似通ってしまうから、敢えてバッド・エンドを無くしたのだろうか。
「とぎれたフィルム」の意味
・「ファム・ファタル」のテープ
・雄介の命と遺志の比喩
・春人と麻尋の恋愛関係の比喩
・制作が途中で頓挫した映画(香月ルート)
・美海が形成したエピソード記憶の比喩
・春人と瑞穂の恋愛関係の比喩
投稿者 Dormeur : 01:37 AM | コメント (0) | トラックバック
novembre 10, 2008
『 Memories Off #5 とぎれたフィルム 』
過去に交際していた女性や現在交際している女性への未練が原因で、主人公がウジウジと悩むストーリーが特徴的なノベル型アドベンチャーゲーム「 Memories Off 」シリーズ。
その5作目が『 Memories Off #5 とぎれたフィルム 』。
2005年の作品である。
主人公の初期状態が、「彼女と死別」→「彼女はいるが関係が冷え気味」→「過去に理由も判らず彼女と別れた」→「突然彼女から別れを告げられる」という順番で進んできたこのシリーズ。
今度は「主人公が交際中の女性に別れを切り出す」パターンかと思いきや、違った。
なんと今作の主人公は、過去でも現在でも女性と交際しておらず、女性への未練で悩まない!
このシリーズでは画期的なパターンだ。
でも、やはり「 Memories Off 」の冠を頂いた作品だけあって、主人公はウジウジと悩む。
では何が原因で悩むのかというと、「過去の男」なのである。
もちろん、主人公が同性愛者だという意味ではない。
今作の主人公は大学生の青年、春人。
大学に入学した彼は、高校時代に映画制作を行っていた仲間たち3人とともに映画制作サークルを作る。
しかしその直後、彼の親友でありライバルであり、仲間たちのリーダーだった男、雄介が不審死を遂げてしまう。
死の直前、雄介は執筆中の脚本の主演女優にうってつけの人物が映っているとして、春人に「ファム・ファタル」と題されたビデオテープを渡していた。
そのテープには、雄介に対して殺人予告をする少女の姿が映っていた。
雄介の死後、ショックを受けたサークルのメンバーたちは映画制作をやめ、サークル部屋で馴れ合う日々を送っていた。
しかし春人が2回生を迎え一人暮らしを始めた春、サークルのメンバーたちの前に一人の女が現れる。
「ファム・ファタル」の少女、麻尋だった。
彼女はメンバーに対し、雄介の遺した脚本で映画を作ろうと持ちかける。
しかし彼女は雄介の死に関わっているため、メンバーは映画制作を拒否する。
この出来事をきっかけとして、春人の運命は大きく動き出すことになる。
シナリオは大まかに、主人公に関わる5人の女性と主人公が恋愛関係になるパターンがある。
うち3人のシナリオでは麻尋の申し出に乗り、主人公が雄介の遺した脚本で映画を作ろうとする。
残る2人のシナリオでは、麻尋の申し出を断り、主人公のアルバイト先で出会った女性と交流を深めていく。
作品全体を貫くキーパーソンは、亡くなった雄介を別とすると、雄介の妹であるあすかである。
彼女は雄介の死後、絶望に襲われ塞ぎこんでいたが、春人の友人である修司と春人の尽力で立ち直った。
以後、あすかは春人に依存して好意をぶつけてくるのだが、春人は彼女に対して恋愛感情を抱いていない。
あすかに対して恋愛感情を抱いているのは修司なのだが、彼女は修司に対して恋愛感情を抱いていない。
ここで三角関係が成立している。
一方、春人のアルバイト先であるハンバーガー店には、あすかも勤めている。
別のアルバイト先である家庭教師の生徒は、あすかの親友である。
ハンバーガー店の従業員と交際を深めるにせよ、家庭教師の生徒と交流を深めるにせよ、あすかとの三角関係が成立する。
あすかとの関係をどう処理するのかが、主人公に課せられた問題だ。
ややこしいことに、あすかは兄の死に絡んだ麻尋を激しく嫌悪しているうえ、映画制作を拒絶している。
雄介の死後、憔悴するあすかの姿を見た春人と修司は、あすかを二度とこのようにさせないと誓い合っていた。
麻尋の申し出どおり映画制作を行うことはあすかを傷つけることになり、修司との友情を失うことになる。
かといって映画制作を行わないのならば、麻尋を傷つけることになるし、雄介の遺志を果たすことができないし、「人々を幸せにする映画を作る」という目標を抱いていた主人公の成長もない。
主人公のジレンマは従来の単純な恋愛から、恋愛と友情と将来が絡み合ったものへと深まっている。
主人公が置かれたこれらの状況下では、恋愛アドベンチャーゲームにおいてよくあるような「主人公がヒロインと相思相愛になれば問題が解決してハッピー・エンド」というパターンは無理である。
主人公とヒロインが相思相愛になってからもなお、物語に一山あるのが『 Memories Off 』シリーズの醍醐味だが、本作ではその一山がより強くなっている。
特に顕著なのが麻尋のシナリオだ。
主人公視点で始まる物語は、春人と麻尋が相思相愛の仲になっても悲劇的結末を迎えてしまう。
ここで時間が再び物語の冒頭に戻り、視点が麻尋に転換する。
これにより、主人公が居ない場でヒロインや他の登場人物が何を思い何をしていたのか、そして主人公視点では明かされない疑問・疑惑の答えが明かされていく。
また、主人公が居る場での麻尋の言動にどんな意図があったのかも判明する。
そして再度視点が春人に転換。
事態の真相を知って足掻き続ける春人は、ハッピー・エンドへ向かう。
この二重の結末に加えて、麻尋視点でもなおバッド・エンドへの分岐があり、主人公と麻尋が二人の世界に耽溺すると痛々しい結末を迎えるのを見れば、本作が「主人公とヒロインの恋愛=勝利」としていないことは明らかだ。
麻尋ではない、とあるヒロインのシナリオも然り。
主人公はサークルのメンバーへの関わりをやめて恋愛に勤しむのだが、その結末はまるで主人公への罰であるかのようだ。
そして主人公を通じてプレイヤーは、ヒロインが抱いていた苦悩を自ら体験することになる。
毀誉褒貶がありそうな、冒険的な試みだと思う。
恋愛物語を敢えてハッピー・エンド一辺倒にしない、こういう試みを私は評価したい。
恋愛と友情と、映画作りへの夢。
この三点セットを満たすという厳しい条件をクリアしなければ、主人公は幸せにはなれない。
人間が生きていれば誰かを傷つけることは不可避だが、それでも二人の恋愛のために恋愛以外を切り捨ててしまえば大きな代償を払わなければならない――それが本作の主張なのだろう。
本作のシナリオは伏線が巧みに張られよく練られているが、あすかのキャラクター設定も練られている。
兄が死んで憔悴していた彼女の姿を見れば、「お兄ちゃん子だったから、ショックを受けたのだろう」「兄を死なせた人間である麻尋を嫌って映画作りに反対しているのだろう」と想像するのが普通だ。
だから主人公もそう考えてあすかに説得を試みる。
しかしその想像はミスディレクションである。
あすかの本心が違う以上、説得がことごとく失敗するのも当然なのだ。
脇役の良さは「 Memories Off 」シリーズの特徴だが、シリーズを通じて主人公の助言役を務める男、稲穂信は相変わらずいい味を出している。
主人公視点ではゲストキャラクターのように存在感がなく「あれっ?」と思わされるものの、実は物語の根幹に関わっていて驚かされる。
主人公がサークルへの関わりをやめた場合は、従来どおり主人公の良き助言者となる。
シリーズ恒例の歴代ヒロインのゲスト出演はなくなったが、前作でチョイ役だった木瀬歩が本作でも登場。
ギャグ要員としてだけでなく、主人公が映画制作に挑む場合にはスタッフとしてもストーリー展開の繋ぎ役としても重要な役割を果たしている。
それにしても、本作をプレイしていると身につまされることが多い。
悪意がないのに他人の心を傷つけたり。
余計な一言を言ったせいで人間関係が崩壊したり。
相手の発言を言葉どおりに受け取って失敗したり。
順調だと思っていたらバッド・エンドに突入したり。
グッド・エンドとバッド・エンドへの分岐が紙一重だったり。
人生ってのは地雷原を歩くようなものだな、としみじみ思う。
「ゲームと現実を混同してる」などと指弾されそうだが、本作には妙にリアリティを感じる。
ところで、本作には女性ユーザーを取り込もうとしている節がある。
女性視点でのシナリオ展開が組み込まれているだけではない。
男性キャラクターのデザインがボーイズラブ系なのだ。
雄介は長髪に涼しい眼にメガネ姿。
地肌の上にワイシャツを羽織り胸元をはだけている。
初めて見たとき「何じゃこりゃ!?」と驚いた。
修司は女の子のような顔。
主人公の春人は精悍な顔つきのイケメンである。
顧客の圧倒的大多数であろう男性ユーザーには、ちょっと抵抗があるかもしれない。
以前のシーンで廃屋を掃除したのに、後のシーンで背景画像が掃除前になっている凡ミス。
以前のシーンで一緒に観た映画について、後のシーンで相手に知ってるかどうか訊く凡ミス。
首長族のような人体デッサン。
ケチの付け所はある。
しかしビデオ映像を模した演出やマンガ的演出など、従来のシリーズ作品よりも演出に工夫があるし、プロットを複雑化することによって、プレイヤーの意表を突いたりキャラクターの内面を掘り下げたりすることに成功しているのを見ると、大した問題ではない。
『 Memories Off #5 とぎれたフィルム 』――それは、優しいがゆえに傷つけあう若者たちの青春物語。
シリーズ最高傑作であり、ノベル型アドベンチャーゲームの秀作だ。
投稿者 Dormeur : 11:58 PM | コメント (4) | トラックバック
novembre 08, 2008
『 Memories Off 』シリーズの哀れなヒロインたち
恋愛アドベンチャーゲームの『 Memories Off 』シリーズの物語は単純なボーイ・ミーツ・ガールではなく、大抵は心に傷のあるヒロインを主人公が救済することで主人公とヒロインが恋人同士になります。厄介なことに主人公は元彼女や交際中の彼女に未練があるものだから、恋人関係の成立までには話がどんどんこじれます。
話を盛り上げるための設定とはいえ、そのヒロインたちに課せられた不幸な身の上とは?
下記をご覧ください(順不同ネタバレ)。関係者が死にすぎですね。
そもそもダメ男に恋をしてしまうこと自体も不幸ではあります。主人公さえまともなら、修羅場で傷の上塗りをせずに済むのに。
主人公が救わなかった場合、ヒロインたちの未来は暗いです。主人公が救うと言っても、主人公の判断がまずく結果オーライなことも多々あります。主人公のハッピー・エンドが、他のヒロインの心を傷つけていることも多々あります。ダメな主人公より脇役の男たちの方が遥かに性格的に男前なので、それがプレイヤーにとっての救いです。
時に腹黒いヒロインと、優柔不断で悩み続けるために事態を悪化させるダメ主人公が織り成す泥沼ワールドに興味のある方は『 Memories Off 』シリーズをどうぞ。
主人公のダメっぷりにストレスが溜まるので、甘いラブストーリーや主人公の成長物語でストレスを解消したい方には不向きです。
A さん
子供の頃に母親が死亡。成長してから母親の代わりとして父親に性的虐待を受ける。その後、父親が勝手に決めた男と結婚させられそうになり逃げる。
B さん
幼い頃、少年が孤児院から脱走するところを目撃し職員に告げ口した。そのため職員は少年に追いつきかけるが、少年は追跡を振り切ろうと道路に飛び出し事故に遭った。成長後、恋人ができるが、その恋人は実はかつて自分が事故に遭わせた少年だった。
C さん
5歳年上の恋人がいたが、喧嘩別れになったまま引っ越しする羽目になった。元恋人とは連絡が取れず謝罪が出来ていない。
D さん
親友の助力で幼馴染と恋人関係になるが、彼を遺して事故で死ぬ。
E さん
自分の才能を伸ばすために海外へ留学するチャンスを得るが、海外へ留学するならば彼氏と別れなければならない。
F さん
親友とその彼氏共々仲良しの3人組だったが、親友が事故で死亡。その彼氏のことが好きだが、彼の方は死んだ親友のことをずっと引きずっていて、自分のことは女として見られていない。
G さん
幼い頃に池で溺れたが近くにいた母親は子供を助けず、子供の入院中に他の男の下へ逃げた。子供を一人で育てる自信のない父親により、子供の居ない親戚の家に預けられる。父親に捨てられたと記憶を混同し男嫌いになる。
H さん
高校時代に交際していた男がいたが転校に伴い別れる。新たに恋人を作るが、バイクで二人乗りをしていたところ事故に遭い、恋人だけが死ぬ。
I さん
友人の彼氏と知らずに男と恋仲になってしまう。
J さん
子供の頃に入院中、同じ病室の少女が死ぬ。その少女の元に度々遊びにきていた少年がショックで廃人化したため、少女に成り代わり生きている振りをすることで少年を立ち直らせる。成長後、少年と再会すると過去を隠して恋人として交際を始める。過去を知る男が現れ、事実を恋人に伝えられないまま逃げる。
K さん
実は双子の姉妹で、妹の方は病気で入院していて治る見込みがない。姉は病弱ゆえに両親にいたわられる妹に嫉妬しており、妹は健康な姉に嫉妬している。姉は両親の愛情を得ていい気分に浸るため、妹は病院の外の世界を楽しむため、姉妹で共謀して入れ替わっていたが、二人とも同じ男に恋心を抱いてしまう。病気と恋に苦しみ、妹は飛び込み自殺を試みる。
L さん
父親の転勤のため外国を転々として過ごす。異国の血を引いているので、かつて日本の学校に通っていた際に苛められた。そのせいで日本に居るときは感情を抑えこみ、他者との関わりを避けるようになる。
M さん
子供の頃から貧乏暮らしで、高校にも行けずフリーター生活を送る。金品をたかるために男との交際を繰り返していたが、たかり目的で近づいた男に本気になってしまう。
N さん
厳格な名家に生まれ、好きな男が別にいるのに親の決めた相手と結婚させられそうになっている。両親も政略結婚で不仲。それゆえ「この世の全ては偽りで出来ている」という価値観を形成し逃避する。
O さん
母親が再婚するも死亡し、義理の父とその連れ子と暮らしている……と思っていたが、実際は義理の父は実の父親で、自分は彼が愛人との間に作った子供だった。それを知り連れ子とも険悪になる。自身の出生を汚らわしいと思い自殺を試みたり、父親を恨んで毒殺を試みたりする。
P さん
病弱なため、まともに学校に通えない。従姉妹が骨髄移植の適合者だったが事故で死亡してしまった。骨髄のドナーが見つからずそのまま死ぬ。
Q さん
周囲に愛される妹を妬み、妹が開設している web サイトの掲示板を匿名で荒らす。妹と取り合った末に彼氏ができるが彼氏は元彼女に未練があり二股状態。
R さん
皆に好かれようと思い行動するが裏目に出て、結局誰にも相手にされなくなる。以後、他人の言うことに従うだけの人形のような状態になる。修学旅行中に出奔し露天商に拾われる。
S さん
母親の死亡後に父親が再婚するが、実は父親は愛人との間に子供を作っており、再婚相手はその愛人だった。子供の頃に幸せな思い出を作った少年は、成長後に愛人の子供と交際していた。
T さん
義兄に恋心を抱き、彼の気を引くために愛猫を虐待する。その果てに自傷へ向かう。
U さん
3歳年下の弟が居たが、弟は事故で死亡した。職場で出会った少年に、亡き弟の姿を重ねる。
V さん
子供の頃に事故で父親が亡くなるが死を受け入れられず、父親の職場へ日参し帰りを待ち続ける。父親と交わした約束を守るため、加害者への怨恨を封印し無邪気な人格を演じ続ける。
W さん
妹の彼氏に恋心を抱いてしまう。
X さん
足が不自由で車椅子生活を余儀なくされている。健常者並みであることを目指しているがうまくいかない。
投稿者 Dormeur : 11:18 PM | コメント (0) | トラックバック
novembre 05, 2008
「日曜エロゲ劇場 家族計画」
「日曜洋画劇場」の淀川長治のパロディ作品。
関西訛りが出ていないのが惜しい。
確かに彼の言ってることに間違いはないけど、『家族計画』の本筋は人間の陰陽が炙り出されるヒューマン・ドラマですから誤解なきよう。
ロリコンは病気です!
ニコニコ動画には『 CROSS†CHANNEL』版や『 ToHeart2 Xrated 』版も公開されています。
投稿者 Dormeur : 10:12 PM | コメント (0) | トラックバック
ノベル型ゲームの英訳版
単純に私が世間知らずなだけなんでしょうが。
ふと調べてみると、意外にも日本のノベル型ゲームは英訳されていることが判った。
例えば、『加奈 ~いもうと~』。
英語版の題名は『 Kana: Little Sister 』。
原作が発売されてから3年後の2002年の発売ということなので、。
ゲームサイト「 Moby Games 」のユーザーレビューには、賛辞が連ねられている。
英語圏の人々にも感動が伝わってるのが微笑ましい。
『加奈』の翻訳販売を出掛けた会社「 G-collections 」は現在『家族計画』の翻訳作業中で、2008年内発売予定の模様。
英語版の題名は『 Family Project - Kazoku Keikaku - 』。
Youtube にプロモーション動画がアップロードされている。
煽り文句に
「 From the writer of Kana ~ Little Sister ~ and Yume Miru Kusuri 」
(『加奈 ~いもうと~』と『ユメミルクスリ』のライターが送る)
「 "The greatest bishoujo game of all time" (2007 Erogamescape ranking) 」
(「歴代最高の美少女ゲーム」(2007年 Erogamescape ランキング))
とありますな。
『ユメミルクスリ』みたいなマイナーな作品も英訳されていたとは。
でも『加奈』と『ユメミルクスリ』のライターは違うはず。
『加奈』と『家族計画』のシナリオを手がけた山田一(田中ロミオ)は、『ユメミルクスリ』では企画にしかクレジットされていない。
シナリオの手伝い程度ならやってるかもしれないけど。
日本最大のエロゲーレビューサイト「 Erogamescape 」が引き合いに出されているというのは趣き深い。
ちなみに本当に『家族計画』が「 Erogamescape 」の統計でトップに来るのか、2008年11月2日現在のデータで調べてみると、確かに得点の平均値でトップにあった。
得点の中央値では、『この世の果てで恋を唄う少女 YU-NO 』が1位になっていた。
投票データ数が100未満の作品を除外すると、『家族計画』は2位だった。
(今回の話とは関係ないけど『車輪の国、向日葵の少女』の得点は過大評価だと思う。)
それにしても『加奈』をプレイして『家族計画』もプレイしようという人は、『加奈』には微塵もない強烈なギャグの応酬に耐えられるんだろうか。
そもそもギャグ自体がちゃんと翻訳されるかどうか心配だ。
例えば、こういうの。
「しつこいのよ、しつこいの! あんまりしつこいと、自慢のアンデス空手でプチ殺し(小さく殺す……半殺しの意)てあげるんだからあっ! だってもダンテもないのよこのデビル野郎! あなたの靴の裏で叩き潰したゴキブリのような顔も見たくないし、靴の裏でゴキブリを叩き潰すときの音みたいな声も聞きたくないのよ! 黙って、黙ってよこのフニャチン! わたしが言いたいのはただ一つ、あなたみたいなケツの穴ファシストなんて大嫌いってことよ! 変わった? そうよわたしは変わったのよ! 未知の宇宙エネルギー・マグネトライトロンの聖光を浴びて超越浄土世界への扉をくぐる資格を得たのが二つ前の仏滅の日のことよ! そら変わるっちゅうねん! そうよ私はさそり座の女になったの! いい、わかった!? わかったならあんたが撮った写真とネガを全部返しなさい! そうしないとあなたの自慢のケツの穴に炭酸浣腸ぶちこんでやるんだから! ふぁっきゅーめーんっ!」
「あなたの粗末なご面相に比べたら億倍もマシよ、この人面害虫! シアン化水素溶液を 飲ませて殺して焼却したあとゴキブリと一緒に骨壷に詰めて、 肥溜めに沈めてやるから!」
団鬼六ネタとか「大宇宙超真理曼荼羅」なんかはそれがギャグと判ってもらえるかどうかも怪しい。
……いや、プレイしたことがない人には誤解を受けるでしょうが、涙なしには語れない感動作なんですよ、これでも。
まあ、英語圏の人々も『加奈』で感動してくれたのなら、ギャグを耐え抜けば『家族計画』でも感動してくれるでしょう。
翻訳が大変、と言えば。
傑作『 Ever17 - the out of infinity - 』が「 infinity 」シリーズで唯一英語版がアメリカで発売されている(2005年発売)。
残念ながら英語版の版元である「 Hirameki International 」が2008年1月に事業を停止してしまったため絶版になっている。
『 Ever17 』はあまり売れず大赤字になったらしい。
Macworld の記事によると、ただでさえアメリカではノベルゲームはゲームと見なされず小売店側が扱いたがらないそうだ。
そしてポルノ描写もガン・アクションもないとくれば、なおさら厳しいんでしょうな。
日本のように『弟切草』や『かまいたちの夜』に始まるノベル型ゲームの歴史を経ていないから、一般消費者がノベル型ゲームというジャンル自体を認知していない、と。
ノベル型ゲームは制作費の安さが特徴だから、原作の日本メーカーは零細企業が多くて欧米じゃ知名度は皆無だろう。
「あの○○社のゲームだから」仕入れてみようか、買ってみようかってことにはなりにくい。
『逆転裁判』は英訳されてそこそこ売れたらしいけど、「読むだけ」じゃないし版元は欧米でも知名度があるだろうカプコンだし。
それはさておき、体験版がダウンロードサイトにあったのでプレイしてみた。
造語が多い八神ココの台詞は訳さずに直接アルファベット表記したり、英語風にアレンジしたり、やはり翻訳者泣かせな様子。
ゲームサイトでの評価を探ってみると、投票点数は高いけどレビューの投稿量はわずか。英語版 wikipedia で結末までのネタバレ全開な粗筋が書かれているのは、入手困難なことへの意趣返し、あるいは「ノベル型ゲームにはこんな面白いストーリーがあるんだよ」という啓発だろうか。
ともあれ売れなくても内容は優れているので、さすがコアなファンサイトが作られております。(注:ネタバレ全開)
『 Ever17 』に衝撃を受けてか、有志が『 Remember11 』の翻訳に取り組んでいるけど、尻切れトンボの作品の翻訳に労力を注いでるのを見ると複雑な気分。
サスペンス感のある面白い作品ではあるんだけども。
ちなみに有志による翻訳が完了している作品のリストが「 Visual Novel Fan Translations 」にある。
『うみねこのなく頃に』も Episode2 まで翻訳が進んでいるらしい。
よくやるなあ。
投稿者 Dormeur : 09:04 PM | コメント (0) | トラックバック
novembre 03, 2008
『果てしなく青い、この空の下で…。』
『果てしなく青い、この空の下で…。』は2000年に発売された成人向けノベル型アドベンチャーゲーム。
昔メーカーの Web サイトで見たとき、タイトルといいキャラクターデザインといい、雰囲気のよさそうな作品だな、消えていく田舎を舞台にした叙情的恋愛ものかな、と思っていたのだが、実際は違うのだという。
なるほど、プレイしてみたらいい意味で裏切られる隠れた良作だった。
物語の舞台は山々に囲まれた平和な寒村。
過疎化が進行するこの村で、主人公の少年の通う学園は全校生徒わずか6名。
あと1年で閉校することが決まった。
残る1年をどう過ごすか、生徒たちはそれぞれの思惑を胸に秘めながら日々を送ろうとしていた。
そんな彼らの運命は、村の開発を通じて村を牛耳ろうとする悪徳事業家と、村に語り継がれる「ヤマノカミ」の伝説によって翻弄されることになる。
1つのシナリオは始業式、春、夏、秋、冬の5つのパートで構成される。
春から夏にかけては不穏さがちらつきながらも、田舎の穏やかな日常が描かれる。
ここで5名のヒロインのうち、誰と物語を進行させるがが確定する。
しかし夏の終わりから秋にかけて、主人公たちの状況は暗転し、冬にそれは破滅的な様相を見せる。
始業式を春に組み入れれば、「春夏秋冬」が「起承転結」に対応している。
物語の序盤は学園恋愛ものを思わせ、正直言って退屈。
やる気がなくなってしばしばプレイを中断していた。
しかし中盤に入りオカルトやホラー、ミステリーの要素が露わになると俄然面白くなってくる。
展開によっては洞窟探検や仕掛け扉の開閉のイベントがありゲーム性がある。
ジャンルで言えば伝奇ものに当たるだろうが、主人公が秘められた超能力に目覚めて大活躍するなんてことはなく、主人公は怪奇に巻き込まれて困惑し恐怖する等身大の人物である。
超能力に目覚めたヒロイン同士が得物を手に戦いあうなんてこともない。
村に起こる一連の事件が物語を貫く軸として据えられており、主人公が共に過ごすヒロインの違いによってその事件が様々な角度から見える。
主人公が共に過ごしていないヒロインは、秋になるとある者は心を病み、ある者は行方不明になり、ある者は村外へと出て行き、ある者は不思議な発言を繰り返す。
彼女たちに何が起こったのか、どんな思惑があったのか。
他のヒロインと結末を迎えることで少しずつ謎が明らかになっていき、全てのヒロインと結末を迎えたとき全貌が明らかになる。
マルチエンディング方式を生かしてプレイヤーの意欲を誘う、巧みな構成だ。
バッド・エンドに向かうシナリオはクライマックス付近までほとんどグッド・エンドと同じ展開なので手間がかかるが、滅びの悲しさがありバッド・エンドでしか見ることができない一枚絵もあるのでそれなりに楽しめる。
ただ、文乃ルートは事件の根幹のネタバレになるのに最初からクリア可能なので、最初から文乃ルートをクリアすると残りのヒロインは消化試合気味になる。
「文乃以外の4人のヒロインをクリアすると、文乃ルートに入る選択肢が現れる」という形がベストだったと思う。
新規プレイヤーには文乃ルートを一番後回しにすることをオススメする。
ちなみにヒロイン全員のグッド・エンドを見ると、大団円的なエピローグがつくとともに、ラブコメ調のおまけシナリオを読むことができるようになる。
また、一度もバッド・エンドを見ずにヒロイン全員のグッド・エンドを見ると、主人公とヒロインたちの簡単な後日談を見ることができる。
5名のヒロインはそれぞれ直接的・間接的に事件とオカルト設定に関与していて、誰一人欠けても事件とオカルト設定が成立しない。
つまり無駄な人物が居ないということであり、物語世界として非常にまとまりがいい。
主人公とヒロインの濡れ場も単純に恋愛要素を盛り上げるためだけではなく、シナリオ展開上の必然性がある。
本作はプレイステーション用に移植されているのだが、暴力表現やキスを越える性描写が許されていないプレイステーションでどうやってシナリオ上の辻褄を合わせているのか心配になるほどだ。(調べてみるとやはり評判は芳しくない。移植版で書き直しを担当したと称する人物の blog によると、製作にあたってひと悶着あり納得していないようだ)
ただ、プロットが優れているだけに明かされない謎がいくつかあるのは残念。
ヒロインたちはメイド、巫女、猫耳元気娘、メガネっ娘、無口とそれぞれ「萌え」の記号が与えられてはいるが、それらは前面に出ておらず抑制されている。
一般的な美少女ゲームやアニメのキャラクターのように髪の毛が赤かったり黄色かったり青かったりせず、全員黒髪である。
学園の女子生徒用制服も白いブラウスと黒いサスペンダースカートの組み合わせをアレンジしたもので、奇抜な色彩をしていない。
キャラクターデザインを手がけているのは、ロリコンマンガ雑誌なのにノスタルジックな表紙デザインで知る人ぞ知る「 COMIC LO 」の表紙を描いているたかみち。
背景画の製作はアニメスタジオの J.C.STUDIO で、自社作品のサンプルとして web サイトに展示されている。
総じて地味な田舎という雰囲気を作り出すことに注意が払われていて、それは成功しているように思える。
ちなみに本作の舞台である安曇村は、現実に長野県に存在した安曇村(現在の松本市安曇)とは違うらしい。
背景画は、通学路、学園の校舎、主人公の自宅、商店の建物は奈良県宇陀郡御杖村のものがモデル。
穂村神社は大阪府柏原市の鐸比古鐸比売神社がモデル。
隣町の駅は門司駅の旧駅舎がモデルだそうな。
本作では主人公とヒロインの父親がシナリオ展開に関わっているというのも特徴的だ。
行方不明だったり出稼ぎ中だったりする人物は別にして、父親にもちゃんと立ち絵が用意されている。
逆に母親は排除されていて、学園唯一の教師である女性が生徒たちの母親的な位置づけにあるものの母性はあまり強調されていない。
女性教師以外に大人の女性がほとんど登場せず、悪徳事業家、ヤクザ、警官、男性の村人が立ち絵つきで登場するところを見ると、無力な少年少女たちに対比する形で、「抑圧・権力としての大人」を描くために男性への偏りがあるのだろう。
システム面の特徴は、通常のシーンでは画面が縦に2分割され、左に主人公が見ている人物の立ち絵、右に文章が表示されることである。
これにより、文章を縦書きに表示できる(初期設定では横書き)。
また、文芸的には邪道ではあるが、台詞は発言者によって固有の文字色が設定されており、読みやすさが増している。
ただし画面を縦に分割しているせいで立ち絵を表示するスペースが1人分しかないため、主人公以外に複数の人物がいるシーンでも人物は1人ずつしか表示されず、複数の人物が主人公を取り巻いているという雰囲気が乏しくなっている。
また、一枚絵のシーンでは絵に文章があまり重ならないよう、通常のノベル型アドベンチャーゲーム同様に画面の下部に文章が表示されるので、強制的に横書きになる。
縦書き表示可能な画面の縦分割は面白い試みだが、その後それが普及していない理由はこの辺にあるのだろう( Liar-Soft の『妖刀事件』のように採用例はある)。
画面サイズは800pix*600pixで、2000年という時代を考えると大きめのサイズだと思われる。
オープニング・ムービーの画質が極端に悪いが、当時の主要配布メディアが CD-ROM だったのと、動画・音声の圧縮技術のゲームへの導入が未発達だったことを考えるとやむを得ないだろう。(後日サウンドトラック CD の特典として高画質版がリリースされた。)
既読文章の自動早送り機能がないのは非常に残念だが、「次の選択肢までジャンプ」という機能があるので、プレイ時間の短縮は可能。
この機能は他の作品にも採用して欲しいものだ。
ただしどういうプログラム処理をしているのか、ジャンプする間の文章量が多いとジャンプするのに時間がかかってイライラする。
また、セーブ機能はセーブを行った地点ではなく、それよりも少し遡った地点からのロードになる。
システムとして恐らくシーンの始まりにロード地点の設定がされているのだと思うが、頻繁にセーブとロードを繰り返していると「痒いところに手が届かない」ようなもどかしさを感じる。
読み飛ばしてしまった文章の読み返し(バックログ)機能がないのも、今の時代から見ると少々辛い。
地味ではあるがオタクに媚びていないゲームデザインは、いわゆる美少女ゲームを敬遠する人にも馴染みやすいだろう。
シナリオにテーマの押し付けや説教臭さ、セカイ系的飛躍がないのも万人向けといえる。
伝奇ものとヒロインの虐待が苦手でないなら、アダルトゲーム入門として最適な一作だ。
中古市場でも良心的な価格に落ち着いているが、Vector や DLsite.com のダウンロード販売で購入するのが安くて手っ取り早い。
ちなみに続編と思しき作品『アトリの空と真鍮の月(仮)』が2009年の発売を目指して製作されているようだ。
キャラクターデザインがたかみちではないので、すっかり雰囲気が変わってしまっているが……。
投稿者 Dormeur : 10:23 PM | コメント (0) | トラックバック
novembre 02, 2008
『 Remember11 』時系列一覧表
衝動的に『 Remember11 -the age of infinity- 』の時系列一覧表を作成してみました。
考察の参考になるかもしれません。
記述はグッドエンド編を基にしています。
展開されるデータは MS-Excel 形式です。
一瞬でも見ると重大なネタバレになるので、プレイしていない人は見ない方がいいです。
http://meta-metaphysica.net/etc/remember11.lzh
作っている途中で頭が混乱したので、間違いがあるかもしれません。
再プレイして思ったのですが、実に緻密に作られたシナリオですね。
残された謎を全て説明してくれるエピソードが存在しないのが悔やまれます。
アイツとは何か、セルフとは何か。
計画の目的は何か。
ゆにが錯乱するのは何故か。
悟はオーストラリアに行って何をしようとしていたのか。
沙也香が動機にどう絡んでいるのか。
「私は、確かに『籠女』だったのだ」という独白の意味は何か。
探偵小説で、犯人も犯行手段も明かされたのに犯人の動機と目的が伏されて終わるようなもどかしさ。
結末からどんでん返しを作るとしたら、「沙也香=こころ」だとか「こころが双子を妊娠した」だとかが面白いと思うんですが、どうでしょうか。
投稿者 Dormeur : 09:16 PM | コメント (0) | トラックバック
octobre 25, 2008
『車輪の国、向日葵の少女』
供給過多なため決して景気がいいとは言えないアダルトゲーム業界で、2005年に設立された新興ゲームメーカー、あかべぇそふとつぅ。
馴染みのない珍奇な名前なのでずっと「あがぺぇそふとつぅ」だと思っていたら、ごく最近になって「 AKABEISOFT2 」だということに気づいた。
『車輪の国、向日葵の少女』はそのあかべぇそふとつぅが2005年に発売した、ノベル型アドベンチャーゲームである。
物語の舞台は、現代日本に似た架空の国。
この国には刑務所も死刑も存在しない。
法を犯した者は施設に隔離されるのではなく、その罪に応じて特別な義務を課せられる。
「特別高等人」と呼ばれるエリート役人が受刑者を管理・監督し、更生のための指導を行う。
課せられた義務を履行しない受刑者は強制収容所送りとなる。
更生の見込みがないと判断された受刑者は特別高等人によって命を奪われることもある。
主人公の森田賢一は特別高等人を目指す少年。
彼は最終試験を受けるため、7年ぶりに故郷の田舎町に帰ってくる。
試験官を務める特別高等人、法月に命じられるまま、彼は地元の学園に編入する。
その学園で賢一は、義務を課せられた3人の少女と出会う。
彼女たちに課せられた義務とは、次のようなものである。
- 「1日が12時間しかない義務」:1日のうち12時間は薬物によって強制的に昏睡させられ、残る12時間で食事や睡眠を行わなければならない。博打打ちなど怠惰な者に時間の大切さを教える刑。
- 「大人になれない義務」:親権者への絶対服従義務。子供に対して親権者からの申請に基づき課せられる措置。ただし親権者も子供の管理能力不足を問われる。
- 「恋愛できない義務」:異性への身体的接触の禁止。結婚詐欺師や性的に放蕩な者に対する刑。受刑者に触れた異性も罰せられる。
法月は最終試験として、彼女たちを管理・監督し更生させるよう賢一に命じる。
しかし彼女たちには「義務から解放されたい」という積極的意志がない。
果たして賢一は試験に合格することができるのか。
物語は5章から成る。
第1章では、物語世界の設定が説明される。
第2章から第4章は、各ヒロインの更生の過程が描かれる。
第5章では、物語に仕掛けられたトリックが明かされるとともに、絶体絶命の窮地に陥った主人公たちが難局の打破に挑む。
本作の一番の売りは、技巧に長けた構成のシナリオだと言っていい。
主人公が困難を乗り越えた、と見せかけて窮地に陥いらせる。
主人公が窮地に陥った、と見せかけて困難を乗り越えさせる。
その繰り返し。
一つの章の中だけで二転三転、どころか四転も五転もする展開に、プレイヤーは油断できない。
二転三転するのは物語の展開だけではない。
当初は主人公にとってもプレイヤーにとっても愚かしく思える少女たち。
彼女たちが葛藤に苦しんだ結果、弱い自己を超克したその瞬間は神々しさをも感じさせる。
主人公は未熟な少女たちを指導する立場であったのが、逆に彼女たちによって自己の未熟さを知り成長していく。
主人公が窮地に陥れば、彼女たちは主人公に助言を与え、その行動をもって主人公を鼓舞する。
そして彼女たちの助力を得た主人公は、再度彼女たちを救う。
主人公と少女たちの関係もまた、物語全体の中では逆転に次ぐ逆転を見せるのだ。
展開には随所に伏線が張り巡らされていて、驚かされることが多い。
「刑務所も死刑も存在しない」という基本設定と、一人称小説でよく使われる技法とを組み合わせた叙述トリックは鮮やか。
特別高等人である法月の悪役ぶりも見逃せない。
彼は現実を受け入れてしまった大人の良識、功利主義、権力の象徴であり、圧倒的な壁である。
そしてまた、主人公が取りえるもう一つの可能性でもある。
法月と主人公の衝突・対決は父と子のそれに似ている。
法月の過去はあまり語られていないが、どことなく『スター・ウォーズ』のダース・ベイダーを連想させられる。
若本規夫による冷徹な演技が法月の存在感を引き立てている。
タイトルの「車輪」は、ヘルマン・ヘッセの『車輪の下』を踏まえていることは想像に難くない。
個人を踏み潰す社会の象徴だ。
タイトルの「向日葵の少女」は作中の少女たちのこと。
向日葵は作中で正義の象徴とされ、舞台となる田舎町には向日葵畑が広がっており町の象徴でもある。
かつて戦火により蹂躙されながらも再び咲き誇る向日葵の強さと美しさが、少女たちに重ねられている。
舞台設定は現代における社会制度やエリート主義の風刺ではあるが、社会批判的メッセージは乏しい。
死刑制度の是非や反戦・反ファシズムを問うようなものでもない。
どちらかというと、「強大な社会に対して脆弱な一個人がどう向き合うか」という関係性を扱った物語である。
シナリオは基本的に1本道で、作中の選択肢によって各ヒロインと恋人になるかならないかが決まる。
恋人ができた場合は濡れ場が用意されていて、エピローグが変化する。
二股ができないので、全ヒロインの濡れ場を見たいなら何回もプレイしなければならない。
しかし誰を恋人にしようとも、元のシナリオに濡れ場が挿入されるかエピローグに濡れ場が付け足される程度の変化しかないため、何回もプレイするインセンティブに欠ける。
同様の理由から、ある少女を恋人に選んだ場合辻褄が合わなくなる単純ミスな台詞があること、主人公が逡巡することなく一人の少女をあっさりと恋人に選ぶのが説得力に欠けることも欠点だ。
絵柄はロリコン系寄りだが、癖の少ない今時のアニメ絵。
システム面ではスタッフロールをスキップできないのがリプレイ時に鬱陶しいのでマイナスではあるが、それ以外は特に不満はない。
直近10箇所の選択肢部分で自動的にセーブする機能は親切だ。
演










![メモリーズオフ#5 とぎれたフィルム [恋愛ゲームセレクション]](http://ecx.images-amazon.com/images/I/51FfJiEQ0LL._SL160_.jpg)
