décembre 04, 2008

「 NIRO 400 」で5.1chサラウンド

DVD-VIDEO のパッケージの裏面を見ると、たいてい下の方に表がある。そこには「5.1chサラウンド」「2.0chステレオ」「モノラル」などと書かかれている。これは音声の再生様式を示している。

ステレオとモノラルは知っている人が多いと思う。ステレオは前面2個のスピーカーで左右別々の信号を再生して、立体的な音響を作り出すもの。対してモノラルはスピーカーが1個だけ(厳密にはモノラルと言うのは間違いで、モノフォニックと言う)。

では5.1chサラウンドとは何か。これは聞き手を取り囲むように6個のスピーカーを設置して、それぞれに別々の信号を流し、ステレオよりも更に臨場感を高める仕組みだ。聞き手の前面左右にステレオと同様にフロントスピーカーを置く。そしてその間にセンタースピーカーを置く。聞き手の斜め後ろ左右には、サラウンドスピーカーを置く。映画の場合、センタースピーカーからは主に俳優の台詞が出て、フロントスピーカーからは BGM や環境音が出る。サラウンドスピーカーからはカメラの後方から発せられる音や残響音が出る。「.1」と表記される残りの1個は重低音を専門に担当するサブウーファーと呼ばれるスピーカーで、フロントスピーカーの近辺に置く。こうすることで、映画館のように迫力のある音響を楽しめるのである。この5.1chサラウンドに対応した家庭用音響システムが、電器メーカー各社から発売されている。

一方、液晶ディスプレイやプラズマディスプレイの技術革新で TV の薄型化と大画面化が進行してきた。ところがスピーカーは箱に充分な大きさが取れる方が音がよくなるので、薄型の TV というのはどうしても音が貧弱になる。大画面により映像では迫力が出るのに、音響では迫力がないという状況になった。

音響を解決するには、前述のサラウンドシステムを別途導入すればいい。しかし日本の住宅事情では聞き手まで均等に音が届くようにスピーカーを配置するのは難しいし、サラウンドスピーカーそのものや、サラウンドスピーカーとアンプを接続するコードが掃除や通行の邪魔になって家族の不興を買いがちだ。

そこで、「前面にスピーカーを置くだけで5.1chサラウンドを楽しめたら便利で売れるんじゃないか?」という発想に至り、今では各社が「フロントサラウンドシステム」を商品化している。代表的な方式としては、ステレオと同じフロントスピーカー2個を流用し、マイコンにリアルタイム演算をさせて擬似的なサラウンド音声を生み出すもの、6個分のスピーカーを1個の箱に収め、部屋の壁面に音を反射させてサラウンド音声を生み出すものがある。

NIRO

NIRO はフロントサラウンドシステムを専業とする日本のベンチャー企業。マニア向けの高級オーディオ機器メーカーとして知る人ぞ知る nakamichi の元社長が創業した。少し前まで web での直販のみ、現在でも店頭で販売しているのはビックカメラだけなので、知名度はとても低い。しかしフロントサラウンドシステムの販売では先行している。4年前くらいには、ステレオの流用ではないフロントサラウンドシステムを販売していたのは YAMAHA と NIRO くらいのものだった。

最初は3ch分のスピーカーが1箱に収められたユニットを聞き手の前方真ん中と後方真ん中に置き、サブウーファーを聞き手の前方のどこかに置くという6.1chシステムが始まりだった。次期製品では、5ch分のスピーカーが1箱に収められたユニットを聞き手の前方真ん中に、サブウーファーを聞き手の前方のどこかに置くというフロントサラウンドシステムに移行。現在では3ch分のスピーカーが1箱に収められたユニットを聞き手の前方真ん中下に、2ch分のスピーカーが1箱に収められたユニットを聞き手の前方真ん中上に、そしてサブウーファーを聞き手の前方どこかに置くというフロントサラウンドシステムに移行している。

NIRO 400

「 NIRO 400 」は NIRO のフロントサラウンドシステムの第二世代にあたる製品である。視聴距離に応じて400、600、800、1000とスピーカーのサイズが大きくなり音質が向上したラインナップが用意されており、「 NIRO 400 」はその中で最もサイズが小さく、価格も最も安かった。想定されている使用目的は、PC 用スピーカーや26型以下の TV 用スピーカーだ。

かつて NIRO は製品を期間限定で消費者に貸し出し、消費者が気に入ったら購入してもらうというキャンペーンを行っていた。返品され会社に眠っていた型落ちの中古品が35%オフで売り出されていたのを見つけ、2年前に購入した。定価が54.000円だったところを35,100円。オプションのマウンタと送料を入れて、39,300円だった。中古品とは言ってもほぼ新品同様だ。

NIRO 400 は 5ch分のスピーカーが1箱に収められたサテライトユニット、サブウーファー、その2つに信号を送るデジタルアンプの3つから成る。サテライトユニットは TV の上の真ん中に置く。サブウーファーは、TV と平行の同一面に置く。そしてそれぞれから生えているケーブルをデジタルアンプに繋ぐ。デジタルアンプには、DVD プレイヤーやゲーム機などの音源を光デジタルケーブルなどで繋ぐ。テスト音声を使った配置調整は要らない。設置はとても簡単だ。

サテライトユニットは6角形をしていて、五辺にそれぞれスピーカーがついている。まともに聞き手の方に向いているスピーカーは1つだけで、「これで本当にちゃんと音が聞こえるのか?」と思わされるが、これがミソらしい。真ん中のスピーカーがセンタースピーカー、そっぽを向いている奥の左右のスピーカーがフロントスピーカーを担当し、手前左右のスピーカーがサラウンドスピーカーを担当しているようだ。他社製品とは違い、壁の反射は利用せず、サラウンド音声のみアンプ側で演算調整し擬似再現する、という他に類を見ない方式を取っている。

手持ちのレンズクリーニング用 DVD に付属するテスト用音声で試してみたら、本当にサラウンドになっていた。後ろからはっきり聞こえるか、というとさすがに辛いところだが、180度くらいの範囲で方向を認識できる。

サブウーファーは実際には低音だけではなく中低音まで担当しているようで、音楽を流してサブウーファーの音声レベルをゼロにしてみると、とてもスカスカした音になる。サブウーファーの威力は特に映画で発揮される。『パプリカ』の BD を観ていたら後半の都市破壊シーンでドカドカと低音が響くので、私が床を踏み鳴らしているのかと家人が勘違いしたくらいだ。近所迷惑にもなるので、夜間はサブウーファーのレベルを落とすか、ヘッドフォンを使用するのが賢明だろう。

それでも家人や近隣住民に気兼ねすることなく自然なサラウンドを楽しみたい、というニーズに向けた商品として、MovieMouse というオプションがある。5個の小型スピーカーをA4サイズ程度の薄型の箱に収めたもので、手元に置いて使う1人用のサテライトスピーカーだ。スピーカーがかなり小型な分、音の厚みはなくなるが、サラウンド感は優れている。2万円強と高いのと、NIRO が販売している最新システム「 Q: 」では使えないのがネックではあるが。

NIRO 400 はデスクトップ・シアターを構築するのに良好なシステムだと思うが、後継機種の NIRO 420 を含めて販売が終了している。スピーカーを6個置く必要はあるものの安価なシステムが各社から沢山発売されていて競合するせいか、現在 NIRO から PC 向け・小型 TV 向けの商品は販売されていない。一人暮らしの人や書斎で使いたいという人にはうってつけなんだけどなあ。

5.1ch サラウンドは戦争映画、アクション映画、ミュージカル映画など、音響を重視して製作された映画を観るには素晴らしい力を発揮する。サスペンス映画やホラー映画でも音響を利用して恐怖感を盛り上げる演出は基本なので、活躍の機会があるだろう。その他の映画でも、TV のスピーカーより音がしっかりするので、俳優の声が聞き取りやすくなったり、効果音がより鋭敏に聞こえたりするというメリットがある。

また、Xbox 360 や PLAYSTATION3 のゲームソフトでは 5.1ch サラウンドに対応した作品が多いため、ゲームの臨場感を高めるのにも有効だ。5.1ch サラウンドシステムでは 2ch ステレオをバーチャルにサラウンド化する機能が付属していることも多いので、5.1ch サラウンドに対応していない映画やゲームソフトでも、より一層楽しむことができる。

投稿者 Dormeur : 09:30 PM | コメント (0) | トラックバック

novembre 29, 2008

BD 『 Blade Runner ( Five-Disc Complete Collector's Edition ) 』

Blade Runner ( Five-Disc Complete Collector's Edition )

『 Blade Runner ( Five-Disc Complete Collector's Edition ) 』は、1982年に公開された SF 映画の傑作『ブレードランナー』の北米版 Blu-ray Disc である。

『ブレードランナー』がどんな映画かは、語りだすと長くなるので敢えて説明しない。
傑作だから観て下さい。
以上。

さて、『ブレードランナー』のファンなら既知のことだが、『ブレードランナー』には様々なバージョンがある。

これらを全て収録したのが、『 Blade Runner ( Five-Disc Complete Collector's Edition ) 』なのだ。

何故北米版かというと、5つのバージョンを全て収めた BD は日本で発売されていないからである。
2008年に入ってからようやく日本で発売された BD は、ファイナル・カット版のみの収録となっている。
2007年、5つのバージョンが収録された DVD 版が日本で発売されたが、1万セットの限定生産で、希望小売価格24,800円という高価なものだった。
しかし、北米版 BD は希望小売価格が39.99ドルである。
私は Amazon.com で発売3ヶ月前の2007年9月から予約して北米版 BD を購入したが、本体27.95ドル、送料5.98ドルで計33.93ドルだった。
1ドル120円として計算すると、33.93ドルは4,071円である。
何という安さ!
そして DVD と BD で画質・音質ともにどちらが優れているかといえば、圧倒的に BD だ。
ならば DVD を買う必要はない。
DVD と違って、BD は日本のプレイヤーでも北米版を問題なく再生できる。
メニューや字幕も、ファイナル・カット版のみではあるが、日本語を選べるようになっている。
大体、5つのバージョンを見比べるなんてコアなファンしかやらないし、コアなファンなら字幕なんかなくても人物が何を言ってるか判るんだから全く問題ない。
残念なのは、特典として付属しているメイキング・ドキュメントに日本語字幕がついていないことだが、どうしても日本語字幕で観たければ日本で発売されているファイナル・カット版の BD (5,000円もしない)を買えば済む。

本題に入ろう。
私は国際版の LD とディレクターズ・カット版の DVD を所有していて、その二つの内容は知っている。
まだ観ぬ残りの3バージョンのうち、一番観たかったのはワークプリント版だった。
何故か。
『ブレードランナー』といえばコレ、という有名な台詞「二つで充分ですよ!」。
だが一体何が二つなのか映像にないため、謎だった。
しかしワークプリント版では、その「二つ」の映像がカットされておらず正体を確認できるというのだ。
「流出した海賊版」と称する怪しげなビデオのスチル写真によれば、それは海老だという。
本当なのか。
ついに公然とベールを脱いだ「二つ」とは――
確かに、丼の上に乗っかった茄子のような海老のようなどす黒い物体であった。
こりゃ確かに二つで充分、というか不味そうだから一つでも要らんわ。
胸のつかえが取れたので、これだけで満足。

とはいえ、ファイナル・カット版も素晴らしい。
もともと、『ブレードランナー』の特撮シーンは65mmフィルムで撮影されたのだが、上映時に35mmフィルムにダウンサイジングされている。
しかしファイナルカット版ではオリジナルの65mmネガから直接マスターが作られているので、BD の HD 画質もあいまって、ヨダレが出そうなほど美麗な映像を堪能することができる。
例えば、冒頭のシーンにおいて、タイレル社のビルは圧倒的存在感を持って輝き、部屋に立つ検査官も映っている。
35mmフィルムで撮影されたシーンでも、アップになったハリソン・フォードの胸毛の一本一本やショーン・ヤングの手の産毛の一本一本、女優たちの顔の毛穴まで確認することができる。
映像のリファインのほかにも、いろいろと細かく変更がされていて、台詞とストーリーの矛盾の解消、いくつかのショットと台詞の追加、映像のミスのコンピューター修正などが成されている。
また、特典として、リドリー・スコット監督やスタッフによる音声解説が付属している。
もちろん、日本語字幕つきだ。

残念ながら、本編の日本語字幕の誤訳は相変わらず修正されていない。
一言一言区切って喋ってくれるので、私の拙い英語力でも聞き取れるクライマックスシーン。
ロイが" I watched C-beams glitter in the dark near the Tannhäuser Gate. All those moments will be lost...in time...like...tears...in rain. Time to die. "と語る。
字幕では、「タンホイザー・ゲートのオーロラ そういう思い出もやがて消える 時が来れば―― 涙のように 雨のように その時が来た」となっている。
" C-beams "云々はアドリブの台詞らしいので謎だがオーロラじゃない何かだろうし、「涙や雨のように消える」という比喩はわけが判らない(「雨の中の涙のように」という訳が正しい)。
レプリカントが避けようと拘り続けてきた「死」の場面なのに訳に反映されていないのもよろしくない。

それはともかくとしても、この『 Blade Runner ( Five-Disc Complete Collector's Edition ) 』は『ブレードランナー』のファンなら是非入手しておきたい一品だ。
BD プレイヤーや HD ディスプレイを持っていないなら、この際買ってしまおう。

投稿者 Dormeur : 11:21 PM | コメント (6) | トラックバック

novembre 22, 2008

DVD 『エコール』

エコール

『エコール』( Innocence )は2004年に制作されたフランス映画。
映画館に置かれていたフェティッシュなデザインのチラシを見て「これは当たりかも」と注目していたのだが……映画を観てみたら、児童ポルノに片足を突っ込んだような作品だった。

題名が原題をカナ表記した『イノセンス』でないのは、押井守監督のアニメ映画と被るからだろう。
「エコール」とはフランス語で「学校」という意味。

物語は、どこからか連れられてきた少女(というより幼女)が棺桶から目覚めるところから始まる。
目覚めた場所は、人里から離れた森の奥にある学校。
生徒は思春期前の少女ばかり。
大人は女性教師と老いた女中だけ。
男がいない。
授業内容は生物とダンスだけ。
冒頭の少女は学校の新入生として生活を始める。
そして少女たちの生活模様や脱走事件なんかが描かれていき、終盤に学校の目的が判るという粗筋になっている。

少女の無垢性、神秘性とともに、肉体の成長に伴う心の変化を描いていることはすぐ判るのだが、首を傾げたくなる描写が目立つ。
例えば冒頭の少女の目覚めのシーン。
少女はパンツ一丁で、体を隠そうともしない(それくらい幼い)ので裸体が露骨に映し出される。
裸イコール生誕のメタファーなんだろうけど、ヨーロッパの国って少女の裸体が映るのには厳しいイメージがあったのによかったのか。
しばらく進むと少女たちの水浴びのシーンがあって、ここでも少女が堂々とパンツ一丁になる。
こうも露骨だと無粋だ。
ミニスカートから伸びる少女の脚が強調されてて、少女が地面に倒れても下着が見えそうで見えない……ってカットがあるから、監督も線引きを判ってるはずなんだが。
「少女の裸体が映っただけで反応する奴はロリコンだバーカバーカ」ってな感じで皮肉を込めているのか、女優の濡れ場のように興行的な意図があるのか。
あるいは、男性の目が存在しないために、自らの肉体が性的な意味を持っている(あるいはこれから持ち始める)ということに無頓着で過ごしている少女の有り方を描こうとしたのかもしれない。

白で統一された少女たちの衣服、森の緑、リボンの色のアクセントといった色彩感覚。
そして閉ざされた森の中にある19世紀風の洋館というミステリアスな雰囲気は好ましい。
ギムナジウムものの少女マンガの少年を幼女・少女に入れ換えたような感がある。
しかし、裸体を抜きにしても少女たちは肉体の生々しさが終始表現されている。
女性監督だけに、少女性に過剰な幻想を与えず現実的な感覚を保っているからだろうか。

観客にダンスを披露する際、蝶の羽を身につけるところを見ると棺桶は卵、学校生活は幼虫、ダンスの披露は羽化のメタファーということになろう。
卒業を迎えた少女が地下道を通って外に出るのは出産のメタファーで、外に出た少女が遭遇する噴水と少年は性交のメタファーだろう。
象徴性を散りばめているけど、安直というか、判りやすいというか……。

少女の裸体とか官能性に反応してしまうのは私が男性だからで、女性が観れば抵抗なく受け入れられる程度のものなのかもしれない。
とはいえ、少なくとも私にとっては、耽美的な作品と捉えるには中途半端だと思った。

投稿者 Dormeur : 10:43 PM | コメント (0) | トラックバック

「ヤシガニ」10周年

10周年、といえば「ヤシガニ」事件からも10周年なんですね。

「ヤシガニ」事件とは、1998年に放送されていた TV アニメ番組『ロスト・ユニバース』の第4話「ヤシガニ屠る」で、放送に耐えない劣悪な質の映像が放送されてしまったという事件です。
以降、TV アニメ番組における劣悪な作画の代名詞として「ヤシガニ」という語が使われるようになりました。
詳細は「ヤシガニ屠る」で Web 検索すれば初回放送時の画像写真や動画記事を見ることができます。

どのように劣悪なのか簡単に紹介すると、

といった感じ。

視聴者の多い18時半からの放送だったことと、Web の普及が進んでいった時期だったことが災いして大きな事件として記憶されることになったんでしょう。
私も『ロスト・ユニバース』を本放送で観たことは1度もなく、Web サイトで知った口です。

何でこんなことになったのかというと、ただでさえ劣悪だったアニメ制作の現場環境が、『エヴァ』ブーム後のアニメ制作バブルの影響で更に悪化し、制作スケジュールが破綻を来たしたからと言われています。
フルデジタル制作による効率向上と外注先の海外アニメスタジオが力をつけたことで、業界は騙し騙し存続しているようなんですが。

ところで、「ヤシガニ」事件の翌年である1999年には『ガンドレス』( GUNDRESS )が業界とアニメファンを震撼させました。

『ガンドレス』は東映系で全国劇場公開の SF アニメ映画だったのですが、制作が上映に間に合わず、未完成な絵が散りばめられた状態で上映されるという椿事になったのです。

デッサンの崩壊自体はほとんどないんですが、

などという始末。
制作サイドは入場者のうち、希望者に完成品のビデオテープを無料送付するという形で対処したのでした。

後に DVD に収録された『ガンドレス』の特典として未完成バージョンが添付され、それが Web に流出し今なおこうして語り継がれるに至っています。
私も上映当時は『ガンドレス』の存在すら知らず、事件のことを知ったのは数年後。
最近になって未完成版を観ましたが、あまりの酷さに「コメディ映画でもこれだけ笑わないぞ」というくらい笑ってしまいました。
制作サイドからすれば、この未完成版に至るのですら悲惨な努力があって、笑うどころではないのでしょうけど。

『ガンドレス』において切ないのは、絵がちゃんと出来上がっていたとしてもつまらない凡作だったというところ。
近未来の都市で、美女5人がパワードスーツに身を包み、テロリストに立ち向かう――という新鮮味のない設定。
その美女5人がどいつもこいつも魅力に乏しい。
『 GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊』の4年後の作品なのにチープな電脳世界の描写。
ストーリー展開も盛り上がりに欠ける。
そりゃ未完成での上映という失態をネタに売るしかないよな、と納得しました。

詳細は「これがガンドレスだ」「伝説の未完成映画」を参照して下さい。

作画崩壊アニメの系譜については、「同人用語の基礎知識」の「ヤシガニアニメ/ヤシガニ屠る/ウニメ」が詳しいです。

投稿者 Dormeur : 10:38 PM | コメント (0) | トラックバック

novembre 20, 2008

ホラー映画の記憶

ちょこちょこと映画を観てきて DVD も沢山溜め込んできた我が人生だけど、やはり苦手なジャンルってのがある。
例えばアングラなスナッフ・フィルムとかスカトロものとか。
想像するだけで気持ち悪すぎて観ようとも思わない。
それはまだしも、一般向け作品でもなかなか観ないジャンルがある。
それはホラー。

本質的に臆病なもので、「明らかにこれから怖いシーンが来ますよー」って空気に耐えられないんだな。
サスペンスものやミステリーものは平気なんだけど。
そういうわけで、女の子とホラー映画を観に行って、怖さのあまり女の子が手を握ってきたり抱きついてきたり……というラブコメでありがちなシーンとは、とんと無縁なのであった。

で、今まで全編通して観たことのある数少ないホラー映画の記憶を辿ってみた。

『バタリアン』

バタリアン

1985年のゾンビもの映画。
B 級臭いけど、タイトルをもじった『オバタリアン』なんてマンガがヒットしたくらいだから興行成績はよかったんだろうか。
コメディっぽさもあってあまり怖くない。
しかし物語途中で復活するコールタールまみれのゾンビは幼心に印象に残った。
ラストシーンの影響で、火葬場に行くたびに「自分が生きたままこの中に入ったら……」って考えてしまうし。

『シャイニング』

シャイニング 特別版 コンチネンタル・バージョン

1980年の映画。
スタンリー・キューブリック監督作品。
ホラーというよりサイコスリラーかな。
不気味なシーンがいっぱいあるのに怖いとは思わなかった。
キューブリックの映像美を味わう作品のような気がする。
ジャック・ニコルソンはハマリ役だったな。
ちなみに、この作品で撮影されたカットが『ブレードランナー』で流用されている。

『ジョーズ』

ジョーズ

1975年の映画。
サメが船にまで乗り上げてきてそのツラを拝んでみたら、意外と可愛かった。
実際に現場に居合わせたらそんなこと言えないんだろうけど。
そのサメに人間が食いちぎられるグロいシーンがあるし……。

『鳥』

鳥

1963年の映画。
アルフレッド・ヒッチコック監督作品で観たことがあるのはこれだけ。
物語としては、鳥が大量に集まって人間を襲うだけだったような記憶が。
鳥の異変の理由が結局判らずじまいなのが不気味。

『アタック・オブ・ザ・キラートマト』

アタック・オブ・ザ・キラー・トマト スペシャル・コレクターズ・エディション

1978年の映画。
カルトなバカ映画としてある意味有名。
『鳥』を引用してホラー映画の体裁を採ってるけど、実際はギャグだろう。
トマトが大量に集まって人間を襲うという筋書き。
しかし特撮なんてものは一切なく、トマトが実際に人間を食らうところは画面に映らない。
登場人物がトマトを見て勝手に怯えたり叫んだりしているだけ。
動くトマトは単純に転がってるだけだったり、トマトを動かしている台車が映り込んでいたり、倒れてる人間に投げやりなコマ撮りでトマトを乗せているだけだったりとチープさ満点。
怖さではなく、下らなさすぎて最後まで観るのが苦痛になる。
さすがに続編の『リターン・オブ・ザ・キラートマト』は途中で観るのを断念した。

そういえば映画ではないけど、今から20年ほど前、夏休みに読売テレビのお昼のワイドショー内のコーナーとして放送されていた短編ドラマ「あなたの知らない世界」が怖かった。
実際にあった心霊現象、怪奇現象の再現ドラマって触れ込みの作品で、兄が好んで観ていて一緒に観る羽目になったんだっけ。

ホラーを意図して作られていたわけじゃないだろうけど、その近辺で放送されていた蒸発者の公開捜査コーナーも怖かったな。
解像度の低いモノクロのスナップ写真が、巨大に引き伸ばされて背景になってて……。
ナレーションも無機質で不気味さを引き立てていた覚えがある。
同様の雰囲気があるからか、古い左翼系テロリストの指名手配写真も苦手。
近年の公開捜査番組にはあの怖さがなくて、ちょっと寂しい。

投稿者 Dormeur : 11:42 PM | コメント (4) | トラックバック

novembre 19, 2008

DVD 『スティング』

スティング

1973年のアカデミー賞作品賞受賞作、『スティング』( The Sting )。
有名な映画だけど、ギャングの抗争と刑事の捕り物的な話だと何故か誤解してて、長い間観てなかった。
いつだったか、観終わったとき、もっと早く観ておくべきだったと後悔したのを覚えている。

物語の舞台は第二次世界大戦前くらいのアメリカの都市。
詐欺で生計を立てている若者が主人公で、ある日彼が詐欺の師匠と共に路上で男を騙して所持金を奪い取るのだが、その金はマフィアの売上金だった。
そのことがマフィアのボスの逆鱗に触れて、主人公の師匠は殺されてしまう。
復讐に燃える主人公は、今は落ちぶれているが伝説の詐欺師と呼ばれている男を尋ねる。
そして彼らはコンビを組み、復讐のためマフィアのボスに一世一代の大イカサマを仕掛ける、というお話。

イカサマがいつバレるのか、ハラハラドキドキの連続で観客を飽きさせることがないうえ、最後に大きなどんでん返しを起こし、観客すらも騙していたことを明かす。
マフィアが絡んでも暗さがなく、観終わった後の後味は爽やか。
派手さはないのに、「映画は娯楽の王様」という言葉が良く似合う、痛快で見事な娯楽映画だ。
メインテーマ曲「ジ・エンターテイナー」の軽快なメロディーがまた映画にマッチしている。
映画がヒットしたおかげでリバイバルヒットした、という話も納得できる。

ユニバーサル映画が製作した作品ということもあって、本作に登場するイカサマ賭博場の建物を再現したセットが USJ にあるのだけど、USJ に行った後で映画を観たので、知ってる場所がロケ地に使われているかのようでちょっと嬉しかった。
横丁といった感じで、何も知らなきゃ素通りしがちな地味なところ。
確かニューヨーク・エリアのあたりにある。

それはさておき。
『スティング』は幅広い人が楽しめる、まさに不朽の名作だ。
「詐欺師がハッピーになるなんて許せない」なんて堅物な人じゃない限り、満足できるはず。

投稿者 Dormeur : 09:02 PM | コメント (2) | トラックバック

novembre 18, 2008

紀伊国屋書店、『ビクトル・エリセ DVD-BOX 』発売予定

ビクトル・エリセ DVD-BOX

紀伊国屋書店からビクトル・エリセの『ミツバチのささやき』と『エル・スール』、さらにデビュー作の短編『挑戦』を収めた DVD-BOX が2008年12月に発売されます。

監督本人が監修した HD ニュー・リマスターだそうな。
だったら Blu-ray で出してくれよと思うんだけど……。
それに、中古価格で3万円とかアホみたいな値段がついてて容易に手を出せない『マルメロの陽光』も収録して欲しかった。

しかし従来の東北新社版『ミツバチのささやき』は別物のように画質が劣悪らしいので、画質の向上という点では期待できそうだ。
それに版元が紀伊国屋書店だから、急いで買わなくても在庫切れによるプレミアム化の心配がなさそう。

参考

ビクトル・エリセ『ミツバチのささやき』DVD画質比較 完全版

投稿者 Dormeur : 09:45 PM | コメント (0) | トラックバック

DVD 『ピクニック』

ピクニック

19世紀後半に活躍したフランスの画家ルノワールは有名だけど、その息子が映画監督だということはどれだけの人が知ってるだろう。
今年、ルノワール親子の作品を併置した展覧会が東京や京都で開かれていたので、それで初めて知ったという人も多いかもしれない。

『ピクニック』( Une Partie de Campagne )は映画監督のジャン・ルノワールが1936年に監督を務めた映画。
天候に恵まれず撮影できないシーンが残ったままでフィルムが放置されていたのだが、映画プロデューサーが発見し、編集して1946年に完成させたといういわくつきの作品だ。
舞台は19世紀のフランス。
パリに住む一家がピクニックを楽しむため、馬車に乗って川の流れる田舎までやってくる。
一家の娘の婚約者も同行しているのだが、娘はその地で男と出会い、二人は恋に落ちる。だが雨に邪魔されてしまい、娘は帰ってしまう。
数年後、男は再び娘に出会うのだが、娘は既に結婚していて、男は恋が実らなかったことを知る――という40分弱の短編。
中断・再会・完結、という点で奇しくも男女の恋と映画作品そのものが合致していて、因縁めいている。

自然風景の美しさや恋の喜びを満喫する若い女の描写が見もので、物語よりも映像を味わうための作品だと思う。
DVD のパッケージのスチル写真にもあるように、娘がブランコに興じるシーンがあり、父ピエール=オーギュスト・ルノワールの代表的な作品「ぶらんこ」へのオマージュを感じさせる。

映画マニアなら押さえておくべきだろう一品。

投稿者 Dormeur : 08:46 PM | コメント (0) | トラックバック

novembre 17, 2008

『 serial experiments lain 』10周年 (3)

雑誌連載版『 serial experiments lain 』

lain‐安倍吉俊画集 yoshitoshi ABe lain illustrations

アニメ雑誌の「 AX 」にTV アニメの放送に先駆けて1998年の3月から連載が始まり、同年11月に連載が終了した企画。キャラクター原案や『 lain 』各商品のパッケージイラストを手がけたイラストレーター安倍吉俊がイラストを担当し、アニメ版の脚本家小中千昭がテキストを担当。アニメ版の世界観を伝えると共に、PS 版との橋渡し的な意図も込められている。

安倍吉俊のイラストは精密な描写とアニメチックでない重厚な色彩感覚が素晴らしい。私の個人的なお気に入りは、アニメ版本編で描写が簡略化された紅茶のシーン。最終回で孤独になった玲音が、幻想の中で父の幻影(=神?)に紅茶とマドレーヌを振舞われ、その優しさに嬉し涙を流し、現実世界への愛情を見出す。記憶を巡る物語である Marcel Proust の『 A la recherche du temps perdu 』に対するベタベタなオマージュである。

1998年に出版された公式画集『 an omnipresence in wired 』と2005年に出版されたその復刻版『 yoshitoshi ABe lain illustrations 』に収録されている。

安倍吉俊の絵に魅せられたなら、彼自身が原作・キャラクターデザイン・脚本を務めたアニメーション作品『灰羽連盟』(2002年)をオススメする。2007年に廉価版 DVD-BOX が発売されて、入手しやすくなった。生と死の狭間の世界に、人でも天使でもない「灰羽」という存在として生まれ変わった少女たち。そんな彼女たちの出会いと別れを描いた、珠玉の物語だ。

灰羽連盟 TV-BOX

10年経って

この10年でも PC やネットワークの構造、ユーザーインターフェースなんかは根本的な変化がないので、10年前の作品といっても SF 描写に古びた感じが全然しない。目に付くのは CRT モニタやアクセラの設定(ベース・クロックが 100MHz )くらいのものだ。逆に、小中学生が電子メールやネットワークゲームを日常的に利用しているという設定は、1998年当時としては新鮮味があっただろうが、現在では SF ではない日常の風景と化している。CG の活用も、現在の製作環境では物珍しくない。

作風でいうと、アニメの世界では虚実の境界を曖昧に、という点やメタフィクション的演出では今敏の仕事が思い浮かぶ。コンピュータ・ネットワークに宿る幻想をモチーフにしている物語だと、PC ゲームの『最果てのイマ』あたりだろうか(未プレイなので噂話程度にしか知らない)。

PS 版『 lain 』と同様のシステムを持ったゲーム作品は聞かない。サスペンスやホラーといったジャンルには親和性の高いシステムだと思うが、ゲーム性が低い上にマルチエンディングによるボリュームの増大ができないので追随できないのかもしれない。ノベル型作品だが、『ひぐらしのなく頃に』の TIPS システムや「カケラつむぎ」のように、情報の断片化と統合という面で演出の一環として補助的に使用している例はある。

投稿者 Dormeur : 09:32 PM | コメント (0) | トラックバック

novembre 16, 2008

『 serial experiments lain 』10周年 (2)

PS 版『 serial experiments lain 』

serial experiments lain

TV アニメ版『 serial experiments lain 』の首都圏での放送が終了した1998年11月、プレイステーション( PS )用ゲームソフト『 serial experiments lain 』が発売された。ただしゲーム版の企画・シナリオにも参加している小中千昭によれば、PS 版の製作は TV アニメ版よりも先行して着手されており、TV アニメ版が製作されるかどうかは確定的でなかったという。

TV アニメ版とゲーム版で題名は同じ。岩倉玲音という名の少女が登場し、彼女を清水香里が演じているのも同じだが、玲音以外の TV アニメ版の登場人物はほとんど登場しない。一つのシークエンスとして明確に描写される物語も存在しない。

そもそもこの作品がゲームソフトなのか、という疑義も存在する。インタラクティブ・コンテンツと言うべきかもしれないが、ノベル型アドベンチャーゲームがゲームと呼べるなら、この作品もゲームなのだろう。版元のパイオニア LDC は本作のジャンルを「アタッチメント・ソフトウェア」と称しており、同種の名称が冠されたソフトウェア作品に同社の『 Noël 』シリーズがある(但しゲームシステムもテーマもかなり異なる)。

プレイヤーが自分の名前を入力してゲームを始めると、縦の円筒状の空間に、数百個のデータの断片が配置されている。プレイヤーが架空のオペレーション・システムを操って、コンピュータ・ネットワーク上のデータを再生(プレイ)する、という設定だ。データの再生の順序は任意だが、特定のデータが再生済みでないと再生できなかったり、本作を結末まで何度かプレイしないと再生できなかったりする。プレイ状況次第で新たに出現するデータもある。説明書によれば、円柱の下層ほど過去に近く、上層ほど現在に近いデータであるとされている(しかしそれが正しいかどうかは保証の限りではない)。何も操作せずに放置していると再生されるデータというものも20種類ほど存在する(これがまた、トラウマになりそうなほど不気味だ)。

それらのデータの内容とは、主に次のようなものである。

その他、システムのアップデートプログラム、柊子と玲音の友人の会話(音声のみ)や警察の捜査記録(音声のみ)、記者会見の記録(音声のみ)といったものがある。

プレイヤーがゲーム内でできるのは、セーブやゲームの終了といったメタ操作を除けば、データの断片を再生していくこと、ただそれだけ。自ずと作品の全体像の把握が目標となるだろう。

上記でしつこく「音声のみ」と書いているように、この作品では一般的なアドベンチャーゲームとは違って会話や叙述は文章として表示されることがない。プレイヤーが内容を理解しようと思えば、音声をスキップすることなく耳を傾けざるを得ない。

だが、プレイヤーが内容を理解しようとデータの断片を記憶・整理・再生すればするほど、細部が明瞭になっていくのに反して全体像が曖昧になっていく。当初はプレイヤーはこう思うはずだ――幻覚・幻聴に悩む内気な少女が、何かの研究所でカウンセリング療法を受けている、と。しかし少女はハッキングと精神医学の知識をメキメキと身につけ、逆にカウンセラーの精神はどんどん脆くなっていく。カウンセリング結果レポートは二人の音声が交錯するようになり、カウンセラーが少女の治療を行っているのか、少女がカウンセラーの治療を行っているのか判然としなくなる。二人の日記の記述と会話の内容に矛盾が生じ始め、虚実が入り混じる。二人の日記に登場する人物は果たして実在したのか? アニメ版と同様に、客観的な正しさは存在しない。あらゆる結論はプレイヤーに委ねられている。

特定のデータを再生すると、再生したことのあるアニメ動画が1本に連結されて再生される。そして玲音の最後の行動を記録したアニメ動画が続き、本作は一応の結末を迎える。条件が満たされていれば、画面に玲音の顔が浮かび上がり、プレイヤーの名前を呼んで語りかけてくる。その言葉と、アニメ動画での玲音の行動を重ね合わせれば、こう考えることができるだろう――玲音はプレイヤーの脳内にダウンロードされ、プレイヤーの記憶として存在し続けるのだと。「記憶とは記録に過ぎず、自我とは記録されたデータの集積の一側面に過ぎない」という論理がそこにはある。データとしてフラット化した玲音は、もはや物事の虚実や自我の同一性・単一性に悩まされることがない。

重要なのは、アニメを視聴する場合とは違って、ゲームでは「プレイヤーによる操作」という能動的かつ積極的な行動が求められていることである。だからこそ、プレイヤーはより作品世界に接近し、境界を侵犯し、作品世界に結合する。あたかも、神秘主義の宗教のように。プレイヤーの精神の安定は揺さぶられ、単調な BGM がそれを加速させる。それゆえに「精神を病むゲーム」とも称される。

本作に物語があるのだとすれば、それはプレイヤーが参画し、データの断片からプレイヤー自身の意識の中に作り上げた物語だ。物語の主人公は玲音ではなく、プレイヤー自身である。小説でも映画でも表現できない、コンピュータ・ソフトウェアでのみ実現できる物語だ。

残念なことに、本作は TV アニメ版とは違ってもはや中古市場でしか流通していない。私が何年も前に入手したときは、5800円の新品定価に対し、中古ソフト店で8000円程度の価格がつけられていたと思うが、今や概ね1万円から2万円程度の範囲内で取引されているようだ。版元がゲームソフト事業から撤退しているのと、CERO による倫理審査前に発売された作品で現在の倫理審査をパスできるのか不明瞭なことから、PlayStationStore によるダウンロード販売も望み薄である。

ロシアの『 lain 』ファンサイトに CD-ROM のイメージファイルらしきものがアップロードされているようだが、権利者の許諾を得ているかどうかは極めて怪しい。なお、正規にイメージ化した ROM は PS エミュレータ「 ePSXe 」では動作させることができなかったが、「 XEBRA 」では動作した。本作の動画・音声データはデータ形式が特殊らしく、「 PSxMC 」では未だにリッピングできない。

参考リンク

[game]PS版 serial experiments lain
http://materia.jp/blog/20051107.html#p02
悪夢のダウンロード~「serial experiments lain」がプレイヤーに与えるもの
http://homepage1.nifty.com/sawaduki/game/sawa/lain.html

投稿者 Dormeur : 10:32 PM | コメント (0) | トラックバック

novembre 15, 2008

『 serial experiments lain 』10周年 (1)

そういえば、『 serial experiments lain 』が世に出てから今年は10周年にあたる。

『 serial experiments lain 』とは何かというと、TV アニメ・ゲームソフト・雑誌連載を連動させたメディアミックス企画で、その名の通り「連続」( serial )的で「実験」( experiments )的な作品だ。

その内容を敢えてジャンル分けするなら、近未来 SF とサイコサスペンスとファンタジーの混合物とでも言おうか。

作中に登場する企業ロゴをこのサイトのアイコンに使わせてもらってるほど好きな作品で、DVD (北米版を含む)や音楽 CD 、公式画集やシナリオ本といった関連商品を買いあさったものだ。10周年という節目に語ることは私にとって最低限の義務かもしれない。

『 lain 』のテキストや脚本を手がけた小中千昭によると、企画が動き出したのは1996年の末頃のこと。その前年には阪神淡路大震災と地下鉄サリン事件が起き、TV アニメ『新世紀エヴァンゲリオン』の放送が始まった。1996年は『エヴァンゲリオン』の放送が終了し、マスコミを巻き込んで「エヴァ・ブーム」が起ころうとしていた。閉塞的な雰囲気が漂っていた社会状況で生まれたそれらの事件から、精神世界への関心が高まりを見せていた。その一方で、携帯電話、 PC、Internet 、マルチメディアゲーム機といった情報機器が急速に普及し始めていた。そんな時代だからこそ『 lain 』の企画が生まれ、商業展開に至ったと思われる。

情報技術の発達に伴う社会と個人のボーダーレス化、経済のグローバル化という時代の変化をなぞるように、あるいは変化を予告するかのように、『 lain 』は「境界の破壊と結合」という実験を行った。

TV アニメ『 serial experiments lain 』

serial experiments lain TV-BOX

TV アニメ版の『 serial experiments lain 』は1998年の夏から秋にかけて深夜に放送された(私の住んでいた大阪では放送が翌年にずれ込んでいたと思う)。

1998年というのは、『エヴァンゲリオン』のヒットを受けてアニメブームが起き、 TV アニメ作品のビジネスモデルが大きく変わり始めた年だ。ロボットアニメや魔女っ子アニメのように、おもちゃ会社が作品に関連して制作するおもちゃの売上げによってアニメ作品の製作資金を回収するのではなく、作品を収録したビデオテープや DVD の売上げを中心としてアニメ作品の製作資金を回収する。それと併せて作品のマンガ化やゲーム化、グッズ化を進め利益を得る。マンガ作品やゲーム作品がアニメ制作の出発点であることも多い。そのために放送権料が安い深夜の時間帯にアニメ作品を TV 放送し、一連のコンテンツを宣伝するのだ。深夜放送ゆえの表現規制の緩さもあいまって、性表現、暴力表現、難解な物語性、難解な映像表現などを有したマニア向けの作品が多く作られるようになる。同時に、マンガ作品のアニメ化が安易に展開され、アニメ作品の粗製濫造が進んでいく。TV アニメ版の『 lain 』は、現在に至るまで続くその流れの初期に生まれた作品である。

物語の舞台は、コンピュータ・ネットワークによる情報流通が発達した近未来の東京。しかし現代の東京と比べても大して変わりはない。自動車が空を飛ぶこともないし、人間そっくりのロボットが現れることもない。この作品の世界では、コンピュータ・ネットワークは「インターネット」ではなく「ワイヤード」と呼ばれ、ネットワーク端末は「パソコン」でも「ケータイ」でもなく「 NAVI 」(ナビ)と呼ばれている。

主人公は岩倉玲音(いわくら れいん)という名の私立中学2年生の少女。年齢に反して子供っぽく、内気な性格をしている。人間関係が乏しく、ほとんど友人がいない。そんな彼女と同じ学年で顔見知りの少女、千砂(ちさ)が飛び降り自殺を遂げるところから物語は始まる。死んだはずの千砂から学校の生徒に電子メールが届き始め、ついに玲音の下にも届く。そのメールの内容は、「自分は肉体を捨てただけで生きている。ここには神様がいる」というものだった。関心を抱いた玲音は、父親に新しい NAVI をせがむ。時を同じくして、玲音は日常生活の中で幻聴や幻覚を体験し始める。

玲音の友人たちは、遊びに出かけた渋谷のクラブ「サイベリア」で、玲音に似ているが性格がまるで違う人物を目撃したと玲音に語る。友人たちにサイベリアに呼び出された玲音は、ドラッグを摂取した少年による銃撃事件に遭遇する。少年は玲音の姿を見て怯え出し、「何故自分にこんなことをさせるのか。ワイヤードはリアル・ワールドに干渉してはならない」と玲音に向かって叫ぶ。玲音は突然人格が豹変し、「どこにいたって、人は繋がっているのよ」と言い放つ。その直後、少年は銃で自殺を遂げる。

警察に保護される玲音だったが、家族の反応は奇妙なものであった。父親に与えられた最新型の NAVI を使い、玲音はワイヤードへのアクセスを深めていく。何者かから NAVI の性能を飛躍的に向上させる部品を与えられ、NAVI を改造してワイヤードを縦横無尽に巡る。ワイヤード内での玲音は、内気な少女ではなくサイベリアの玲音のように攻撃的な性格をしている。

一方、世間ではネットワークゲームのプレイ経験がある少年が少女に追われて自殺したり、追いかけてきた少女を殺害したりする事件が起こっていた。玲音の姉、美香(みか)は自動車が往来する渋谷の路上に立ち尽くす玲音の姿や、街頭の TV 画面に玲音の顔が現れるのを目撃する。玲音は雲間から現れた玲音の幻影を崇める子供たちの姿を目撃する。岩倉家の前には謎の黒服の男たちが現れ、玲音の監視を始めている。美香の前に「預言を実行せよ」というメッセージが現れ、時制の異なる二人の美香が邂逅し、美香は自我を失う。数々の事件には、謎のハッカー集団「ナイツ」の関与がほのめかされる。部屋いっぱいに改造と拡張を重ねた NAVI で玲音はワイヤードにアクセスし、事件の真相を追う。

物語の時制は曖昧になり、一人の人間としての玲音の同一性も曖昧になっていく。画面に現れる映像は現実なのか、玲音の精神世界なのか、ワイヤード内の仮想現実なのか。新たに人格の異なる玲音が現れ、友人たちや学校の生徒たちが抱える秘密をワイヤードに暴露したことで玲音は孤立する。玲音の家族はその虚構性を露わにして崩壊する。玲音の前にワイヤードの「神」を名乗る男、英利(えいり)の幻影が現れ、事件の真相や玲音の正体について語るが、その内容が事実かどうかすら定かではない。

ワイヤードと現実世界と玲音の意識が混濁するうち、玲音は現実世界を自分の都合のいいように改変することを決意する。物語の始めから玲音を気遣い続けてきた友人、ありすに対して、「人格の異なる自分が行った罪をなかったことにする」と玲音は伝えた。そして世界は改変される。ありすだけが元の世界の記憶を保っていた。ありすは岩倉家にいる玲音を訪ねるが、玲音と英利の問答に巻き込まれ、放心してしまう。掛け替えのない友人の心を狂わせてしまったことを悔やんだ玲音は、ある決断を実行する。「記憶なんてただの記録。記録なんて書き換えてしまえばいい」と。

この物語では、『トロン』『ニューロマンサー』『マトリックス』といった SF 作品とは違い、「コンピュータ・ネットワークが現実世界を模倣している」のではなく、「現実世界こそがコンピュータ・ネットワークの模倣である」という可能性が示唆される。コンピュータ・ネットワークの情報が現実世界を侵食し、人々の認識と意識がコンピュータ・ネットワークのように結合される。「人間の記憶は記録に過ぎない」というドグマのもと、コンピュータに保存されたデータを書き換えるように、人々の記憶や歴史が書き換えられる。

演出面においても、作品と視聴者の分断を破り、視聴者を作品世界に接続しようという意図が端々に見られる。客観的な正しさが保証されない作品世界を前にして、視聴者は混乱を来たし、真相を求めて作品に接近せざるを得ない。視聴者が虚実の入り混じった作品世界に接することで、視聴者の玲音に対する認識は頻繁に書き換えられ、視聴者それぞれの「玲音」像が生まれる。あたかも作中内で表明される「玲音は遍在する」というドグマのように。最終話において、玲音は画面上にぼんやりと現れ、視聴者に語りかけるかのように、画面の外側へ自分の居場所と正体を問いかけてくる。その姿を見て、視聴者は玲音と自らが接続されていることを否応無く意識させられる。

本作の奇跡として、玲音を演じた清水香里のことも触れておきたい。清水香里は当時子役あがりの中学生で、玲音の存在感にひどく生々しさを感じさせる。その演技は初め棒読みスレスレに思えるが、実際には彼女は玲音の持つ多面性を演じ分けることに成功している。次回予告では物語の内容の説明はされず、清水香里のフェティッシュな実写映像が流され、本編での無機質な世界観と対比を成している。

1998年は TV アニメの製作現場にコンピュータが導入された端緒期にあたり、コンピュータ・ネットワークの世界という本作の題材もあいまって、CG やデジタル処理された映像が随所に用いられている。制作スタッフにコンピュータ・マニアが多くいたことから、コンピュータ・マニアな視聴者を惹きつける、先進的かつ混沌とした独特な感覚の映像表現が多用されている。

本作は第二回文化庁メディア芸術祭アニメーション部門優秀賞を受賞しているが、星雲賞は受賞していない。知名度の低さが災いしたのだろうか。

廉価版 DVD-BOX が現在でも販売されており、入手は容易。海外での人気も根強いようで、YouTube のような動画投稿サイトに本編が丸ごとアップロードされているのを見かける。ただし廉価版 DVD-BOX には次回予告や、「ウェザーブレイク」という画像(本放送時、次の番組が天気予報だったので橋渡し的な意味で放送された)が収録されていない。

投稿者 Dormeur : 10:04 PM | コメント (0) | トラックバック

octobre 11, 2008

安楽椅子探偵と忘却の岬(解答編)

2008年のプロ野球セントラルリーグの優勝者は10月10日にやっと決まった。
優勝特別番組で『安楽椅子探偵』の放送が潰れなくてよかった。
放送局が朝日放送だけに、タイガースが優勝してたら潰れてたかもしれない。

登場人物の誰でも犯行が可能に思われるので、どうやって犯人を絞っていくのか楽しみだったのだけど、解答編で示された解答はツッコミどころ満載だった。
以下、犯人の氏名は名指ししないもののネタバレ注意。

まず、潮野卓也が犯人ではない理由として、「右手に巻いていた包帯が汚れておらず、右手の包帯を一人で巻きなおすことは困難だから」とされている。
しかし右手の包帯を左手で巻くこと自体は、左手で箸を使うことに比べれば易しいレベルだと思う。
おまけに潮野卓也を演じている津田寛治は左利きである。

社長の息子が犯人ではない理由は「2007年なのでトンネルが開通していないから」。
しかし公共の道路として完成していないだけで、貫通さえしていれば、工事関係者一人が通ることは不可能でない。
犯行当日の時間的に厳しそうではあるが、彼の居る事務所から村までどれくらいかかるかはっきり示されていないはず。

本作の時間軸が2008年ではない証拠の一つとして、新聞に載っていた地震が実際に起こっていたことが示されている。
社長の邸宅は免震構造になっていたので、卓也は気づかなかったという。
いくら免震構造でも、船に揺られるようなゆったりとした揺れはあるはずだが……卓也は鈍感だったということにしておこう。
しかし卒塔婆が倒れていることが地震の証拠だと言っても、倒れているのは潮野家の墓のものだけで、奥の方の墓にある卒塔婆は倒れていない。
ロケ地の墓を荒らす訳にはいかなかったのだろうけど、何とか辻褄を合わせて欲しかったところだ。

犯行現場は「忘却の座」ではなく、遺体は外出用の車椅子で「忘却の座」まで運搬された。
これは予想通りだった。
卓也の仕業でも外部の人物の仕業でもなく、医師が死亡推定時刻を偽っていないとすると、話が進まないから。
解剖もせずに法医学者でない町医者が1時間単位で死亡推定時刻を割り出せるというのも無茶だけど。

犯行再現シーンによると、「忘却の座」への一本道で卓也とすれ違ったカメラマンは、卓也が指名手配犯であることに気づき、急いで携帯電話で110番通報を試みた。
携帯電話が不通だったので、一番近い社長の邸宅に電話を借りに来た。
邸宅の庭で犯人に出くわし、110番通報されると困る犯人は突発的にカメラマンを殺害。
窮した犯人は、物置の引き戸の衣装ケースを人形ケースの上に置いてシーツをかぶせ、引き戸の中の椅子にカメラマンの遺体を座らせて隠した。
その結果、座った形に遺体が硬直した。

しかし何日だか前に「招かれざる客が来ている」と指摘して追い返された社長の邸宅にわざわざ電話を借りに行ったらまた追い返される、とカメラマンは考えないだろうか。
それに寄り道せずに社長宅に向かったとすると、庭では運転手が作業をしているので、犯行が目撃されているはずだ。
運転手のいない時刻までカメラマンが現れなかったとすると、急いでいるはずのカメラマンが1時間近く時間を浪費していることになるし、真犯人が殺人から遺体の隠蔽まで可能な時間が極めて短くなってしまい不自然である。
そもそも撲殺に用いたブロックに指の形がついていたから、手についた血を洗い流す時間も犯人には必要だ。
力自慢ではない一般人が成人男性の遺体を汚さずにすばやく運搬するためには、老人介護の要領で体を遺体に密着させないと困難である。
その際に犯人の体や服に血がつく可能性が高いので、体をチェックしたり服を着替えたりする時間も必要だと思う。

安楽椅子探偵の推理では、犯人が物置のソファではなく、引き戸の中の椅子にわざわざ遺体を隠したことから、犯人候補は卓也とマキが物置にストーブを取りに来ることを知っている人物に絞り込まれる。
しかし卓也たちは物置のどこにストーブがあるのか教えられていないので、うっかり引き戸を開けてしまう可能性は低くないはず。
それでもあえて物置に遺体を隠した犯人は無謀だ。
成人男性の遺体を引き戸の中に入れたり、引き戸から取り出したりする力があるなら、ソファーをどかせてストーブを判りやすく手前に出しておき、引き戸に注意を向けないようにするくらいの対策があってしかるべきだと思う。

社長は歩けず2階に行けないので犯人ではないとされているが、邸宅は改築されたばかりである。
携帯電話が普及している時代設定なんだし、改築前から社長が歩けないのならば金持ちなのだから家庭用エレベーターくらい設置するだろう。
足が不自由な状態で撲殺から遺体の隠蔽・運搬まで単独で行うのは無理があるから犯人ではないという理由でいいと思う。

安楽椅子探偵は、カメラマンの携帯電話の電源が切られていたことから、カメラマンの携帯電話の呼び出し音が大音量であることを知っている人物が犯人として、犯人を一人に絞り込む。
しかし携帯電話の呼び出し音が大音量であろうとなかろうと、遺体を隠すなら携帯電話の電源を切るのは自然だ。
犯人を特定する根拠とするには厳しすぎる。

これだけツッコミどころがあれば、そりゃ視聴者による投票もバラけるというもの。
コンピュータ・ネットワークによる集合知に対抗するためには、強引な出題は不可避なのかな。
演劇のようなコミカルな解答編のノリが大好きなので、番組自体は続けて欲しいけど。

投稿者 Dormeur : 05:13 PM | コメント (0) | トラックバック

octobre 05, 2008

安楽椅子探偵と忘却の岬(出題編)

犯人当てドラマ『安楽椅子探偵』シリーズの第7弾、『安楽椅子探偵と忘却の岬』。
眠いのを我慢して出題編を観た。
録画はしていない。
一瞬だけ映るショットに決定的証拠がある……という趣向がシリーズの伝統なだけに、1回観ただけで犯人を特定する磐石の推理が出来るわけがない。
というわけで、解答編を楽しむために、自分が気づいた点、疑問に思った点を記しておく。

カメラマンの遺体は「忘却の座」で発見されているが、殺人現場が「忘却の座」である証拠がない。「忘却の座」で撲殺したなら、すぐに崖下に突き落とせば事故で頭を打って死んだ風に見せかけることができる。犯人が別の場所でカメラマンを殺して、遺体発見時までに「忘却の座」へと遺体を運べば、死亡推定時刻に「忘却の座」へと往復できたかという観点で登場人物のアリバイを検討しても無駄である。

わざわざ忘却の座まで運んだ理由は、遺体を隠すときに椅子に座った形をとらせていて、その形に死後硬直してしまったからと推定。猫車は壊れていたし、成人男性の遺体を一人で背負って運ぶのは無理があるので庭の車椅子で運んだと推定。往路ではカメラマンの靴を脱がせて犯人が履き、復路では犯人が車椅子に乗れば泥道に犯人の足跡が残らない。

投稿者 Dormeur : 11:50 AM | コメント (0) | トラックバック

mai 26, 2008

『らき☆すた』を観た

2007年に一世を風靡した TV アニメ作品、『らき☆すた』。
妙なオープニング主題歌と絵柄で敬遠していたけど、ふと勢いがついて一気に全24話を通し観た。

オープニング主題歌、「もってけ!セーラーふく」は『涼宮ハルヒの憂鬱』のエンディングテーマ『ハレ晴レユカイ』のヒットを受け継いで、またへんてこなダンスを繰り広げているなーという印象を受ける。
そもそも知的障害を起こしているのではないかと疑うような支離滅裂で聞き取れない歌詞とハイテンションな合唱が嫌になる。
しかしこれは好意的に受け取れば、女子高生が見せるような、かみ合わないまま唐突な展開で進む会話や喧しさを表現しているのかもしれない。
好き嫌いや理屈はさておいて、こういうキチガイじみたものを意図して作りあげる能力はすごいな、と思う。

本編は『あずまんが大王』のエピゴーネン型の、女子高生の緩い日常生活をとりとめもなく羅列したコメディ。
原作が4コママンガらしく、それを踏襲して特に軸となるストーリーはない。
メインキャラクターは恋愛や部活に打ち込むような現実的な女子高生像とはかけ離れた、萌え4コママンガらしい少女たち。
他の萌え4コママンガと違うのは主人公的な少女、こなたのキャラクターで、女の子だが男性向けのマンガ、アニメ、ゲームが好きなディープなオタクという設定になっている。
彼女を通じたメタ・オタク的な描写が本作の肝だ。
現実に彼女のような人物が存在したとしたら、オタク同士でまとまるかクラスで孤立するかで、本作のように非オタクな同級生といつも仲良くつるんでいるという状況はなかなか存在しないと思われる。
オタクである自分の存在を容認する可愛い女の子に囲まれていたい、という男性オタクの願望を代理する位置に彼女はある。
その願望を支えるため、男性キャラクターはあまり登場しないし、メイン・キャラクターは恋愛をしない。
比較的多く登場する男性キャラクターといえばこなたの父で、それもマンガやゲーム好きで娘と非常に仲良しという設定であり、願望世界を妨げない。

本編ではマンガ、アニメ、ゲームの引用が折々になされ笑いどころとなっている。
ゲストキャラクターとしてアニメ店長や涼宮ハルヒが登場することもある。
三谷幸喜作品でのギャグ「赤い洗面器の男」の話をキャラクターが話しているのには吹いた。
「赤い洗面器の男」と同様のパターンで、キャラクターが「くさい」という話題で同調しあっているが話題が変わってしまい、視聴者には何がくさいのか結局判らない、というギャグが全編に渡って存在する。

各話の終盤は「らっきー☆ちゃんねる」という架空の番組という設定で、中学生少女アイドルという設定のキャラクター小神あきらと、声優自身をキャラクター化したアシスタント白石みのるが登場する。
小神あきらがアイドルの仮面を剥がして白石みのるに突っかかり、傲慢で腹黒い地の姿を見せてくだを巻くという展開になっている。
楽屋ギャグなのだが本編よりこちらの方が面白いような気がする。

さらに独特なのはエンディング。
本作では特定のエンディングテーマソングが存在しないし、特定の映像・音声が毎回繰り返されるということもない。
クール前半はメインキャラクターたちがカラオケに行っているという設定で、カラオケの個室の扉を正面に据えた静止画のショットが映り、彼女らの掛け合いと歌が流れる。
古い特撮ヒーローやアニメのテーマソング、ひと昔・ふた昔前のヒットソングが歌われる。
クール後半は屋外ロケで撮影されており、小神あきらが歌う演歌のプロモーションビデオ(実写)が流れたり、声優の白石稔が自然風景の中、一人でアカペラで自作の歌を歌ったりするなど、前代未聞の様相を呈する。
毎回のエンディングでどんなパフォーマンスが行われるのか、視聴者に期待させ笑わせる仕掛けだ。

結局「らっきー☆ちゃんねる」とエンディングの展開が気になってついつい全24話観てしまうことになった。
日常生活の中でありがちな事柄を掬い上げたネタ(あるあるネタ)も多々あるが、オタク文化やギャグの元ネタであるマンガ・アニメ・ゲームの知識がないと理解できない部分も多いので、マニア向け。
そもそも絵柄の部分で一般人は近づいてこないとは思うけど。
人気作品というだけでなく、作品構成と演出の面で30分アニメ作品として型破りな試みを行ったということでもマニアに記憶される作品となろう。

ところで、本作のヒットによりファンが作品のモデルとなっている神社を訪ねだしてついには本作で町おこしを始めた……という話題がマスコミで報道されたことがある。
メインキャラクターの二人の家業が神社で、そのモデルが現実の神社であるということからだそうだが、作中での神社の存在はかなり希薄だ。
オープニングに1カット神社が映るのと、神社が参詣客で賑わう正月に家業を手伝うエピソードが数分あるくらいで、いわゆる「聖地巡礼」を行う動機を誘うような町並みや自然風景の個性を感じない。
東京都内から東武鉄道1本で行けるので、首都圏のオタクが軽い気持ちで訪問しやすいということから生じたブームということなんだろうか。
あるいは原作のマンガでは結構神社が登場するのかもしれない。
……ちょっと調べてみたら、アニメ雑誌の「 NEW TYPE 」で聖地巡礼の案内が付録されて訪問者が増え、町の商工会が支援してイベントを開催しさらに訪問者が増加、という流れのようだ。

投稿者 Dormeur : 10:06 PM | コメント (0) | トラックバック

février 09, 2008

『秒速5センチメートル』

短編アニメーション作品『ほしのこえ』で一躍「日本アニメーション界の期待の新星」として祭り上げられたアニメーション作家、新海誠。
彼の劇場公開用映画デビュー作である『雲のむこう、約束の場所』では美しい背景映像と失われた青春へのノスタルジアに感心させられた。
その一方で SF 趣味のくどさが目立ち、「新海誠には長編より短編が向いているのではないか」という疑問も抱くことになった。
次回作ではどう打って出てくるのか、楽しみに待ち続けてついに去年公開された劇場公開用映画の第2弾が『秒速5センチメートル』である。

本作は60分程度の中編作品だが、3本の短編が時系列順に連続する構成になっていて、それぞれ主人公の小中学生時代、高校生時代、20歳代後半あたりが描かれる。
ストーリーを簡単に言ってしまえば、小学生時代から一人の少女を恋し求め続けて大人になった暗い男の物語だ。

主人公とヒロインの少女は転校生で内向的な性格である者同士なことから仲良くなり、二人で学校生活を過ごすようになるが、中学校に入学する際に少女は東京から栃木に引っ越してしまう。
離れ離れになった二人は手紙で連絡を取り合うようになるのだが、中学1年生の冬、今度は主人公が東京から種子島に引っ越すことになってしまう。
引っ越す前に彼女に会いたいという思いから、彼は電車に乗り彼女の待つ栃木へ向かうのだが……。
主人公の視点から少年と少女の心の交流が描かれるのがこの第1話の「桜花抄」である。

第2話「コスモナウト」では舞台が種子島に移り、高校生になった主人公に恋した同級生の少女の視点から映画は展開していく。
主人公は彼女に優しく接するが、彼の気持ちは常に海の向こうの少女にあり、同級生に向けられることはない。
それを読み取った彼女は自分の恋が実ることのない恋であることを痛感しつつも、恋心を諦めることができず涙する。
基本的に現代劇であるこの作品で、ささやかながら SF 趣味が現れるエピソードでもあるが、この程度なら微笑ましい。

第3話「秒速5センチメートル」では再び視点が主人公に戻る。
都会の孤独の中で主人公は擦り切れていく。
ここでメインテーマ曲『 One more time, One more chance 』が響き渡り、ヒロインの少女を求め続けて彷徨う主人公の心模様が小刻みなカットのラッシュで描かれる。
まさに圧巻で、第1話、第2話はこのミュージッククリップ部分で叙情を一気に爆発させるための前座に過ぎないと言っていい。

『ほしのこえ』から新海が一貫して描いてきたテーマが「大人になると失われてしまい二度と手にすることのできない純粋さと美しさ」だった。
本作では前作同様に、青春時代の美しい自然風景との対比で強調される「都会暮らしの孤独」が加わる。
映画技法の面では、依然モノローグが多用され、登場人物が自分の心情を饒舌に語る。
叙情は背景音楽の力で一層増幅される。
背景の絵の美しさはより一層高まっている。
新海の追求・発展させてきた方向性が本作において極致に達した、と言っていいと思う。
逆に言うと、これ以上の成長・発展が見えづらいということでもある。
「新海節」と俗に言われるモノローグを守り続けていくのもまた個性なのだけど、折角素晴らしい映像を作る能力があるのだから、言葉ではなく映像の力で語るように洗練されないものか。
新海が詩と映像が不可分であると考えているのなら、サイレント映画のように詩を字幕で現すという方法もある。
あるいは本作のクライマックスで見せたように、歌曲の PV に徹するという方向もあるだろう。

あと、素人目でも気づくのが、背景美術が優れている分、風に揺れる草や打ち寄せる波といったもののアニメーション表現が貧相に見えてしまうこと。
この点は技術的に向上の余地があるはずだ。

新海誠の作品には、かつて文化系クラブ男子であった人が培ってきたであろう美意識と感受性に支えられた青春へのノスタルジーが流れている。
これがオタク男に強い共感をもたらすことになる。
しかし今時の女性から見れば、「キモイ」の一言で全否定されるだけだろう。
ウジウジ悩む男は、女性にもてない。
過去をとことん引きずる主人公に比べて、大人になったヒロインの何と晴れやかで、過去をあっさり流し去ることか。
主人公とヒロインの違いと同様に、観る方もまた、男性と女性では主人公に対する感想が大きく分かれるに違いない。

ところで、これまで新海の作品に共通して使われているモチーフに「鉄道」がある。
本作は恐らく、アニメーション映画史上においてもっとも詳細に鉄道を描いた作品だ。
鉄道車両の外観や内装のみならず、プラットホーム、駅舎、案内設備、保安設備などのディテールの細やかさは感動的である。
この点だけでも本作には唯一無比の価値がある。

私は本作を劇場で2回観て、DVD も初回限定版を予約購入した。
DVD では夜空を飛ぶ鳥のシーンでブロックノイズが見えるし、売り物である高画質がスポイルされてしまうのが不満だ。
しかし先日、4月18日に Blu-ray Disc 版と HD DVD 版が発売されるというニュースが流れた。
諸手を挙げて歓迎したい。

投稿者 Dormeur : 07:00 PM | コメント (0) | トラックバック

février 06, 2008

『 Dear Friends 』

『 Dear Friends 』は去年の2月頃に観た映画。
新聞屋経由らしきタダ券が手に入ったので観に行った作品。
逆に言うと、手に入らなかったら観に行くことはなかったはずで、我ながらハズレを避ける嗅覚が身についているなと感心する。

以下ネタバレあり。

主人公は、夜のクラブ(踊ったり酒を飲んだりする方)で名を上げているビッチな女子高生。
男を誘惑しておいて「私、そんなに安い女じゃないの」なんて言うような奴だ。
そんな彼女が体調が思わしくないので医師の診察を受けたところ、即入院。
実は彼女は癌に侵されていた。
もともとが不遜な人物なので、癌を患って可哀想とも思えないのだが、人道上、可哀想ということにしておこう。
癌の告知はされず薬物療法で療養を続けるが、薬の副作用で頭髪が抜け始める。
病院を抜け出し、薄くなった頭をごまかしてクラブに顔を出すが、はずみで頭髪がボトリと落ちて禿げ頭を衆目に曝してしまい逃げ帰る始末。
と、そこに偶々、彼女が入院していることを知った一人の女子高生が現れる。
主人公は彼女が何者か思い出せないのだが、彼女は主人公のことを知っているらしい。
宗教の勧誘者みたいな気色の悪い雰囲気を漂わせ、少女は主人公のもとに通うようになる。

手術を受けようとしない主人公が、同室の小学生くらいの少女の死に接して手術を決意するとかいうイベントが間に挟まってたような記憶があるが、ともかくなんとか回復して主人公は退院。
夜の街に復帰すると、冒頭でつれなくお断りした男が、再び甘い言葉で愛を囁く。
「こいつならば信じられる」とでも言うように、しおらしく服の前をはだける主人公だが、手術のために胸に大きく刻まれた傷跡を見て男は態度を一変させ、主人公の前から去っていく。
ざまあみろ、とか言ってはいけません。
いけませんとも。
絶望した主人公は飛び降り自殺を図ろうと、建物の屋上に出てフェンスを乗り越える。
と、そこに例の女子高生が登場。
しかし体の動きがぎこちない上に、歯切れよく喋ることができない。
立つことがすらできず地面に這いながら、彼女は主人公に思いとどまるよう訴える。
別に何の伏線があったわけでもないが、しばらく画面に出てこないなと思ったら、いつの間にか彼女は ALS のような病気を患って療養していたらしい。
彼女の必死の叫びに打たれて、主人公は自殺を断念。
改心して看護師になり、自力で動くことも自発呼吸もできない彼女を看護するようになる。
そして彼女の死を看取り映画は終了。
ちなみに死んだ彼女が何故主人公に必死に向き合ってくれたかというと、幼い頃主人公のお誕生会に出席していて、自分だけ貧乏なためにプレゼント交換の際自分のプレゼントによって場が白けたにも関わらず、主人公が助け舟を出してくれたから。
はあ、そうですか。

この映画、登場人物の誰一人として感情移入できず、ストーリーを追っていても薄っぺらい印象しか受けない。
「はあ、若い女の子が病気で可哀想ですね、死んじゃって可哀想ですね、感動させたいんですね、それはどうもお疲れ様です」と斜に構えてしまうのである。
で、エンドロールに原作者が表示されたときに納得した。
ケータイ小説が原作だった。

偏見というものは、こうして裏打ちされていくのである。

投稿者 Dormeur : 10:10 PM | コメント (0) | トラックバック

février 04, 2008

『リトル・ミス・サンシャイン』

去年の2月頃に観たロードムービーにしてコメディな映画。

プルーストの研究者で同性愛者(この設定で早くも笑ってしまう)のオッサンが恋人(もちろん男)と研究成果を同業者に奪われて自殺を図り、妹一家のもとに引き取られるところから物語は始まる。
この妹一家と言うのが曲者ぞろいだった。

妹の夫は勝者になるための自己啓発法を出版して一財産築こうと野心を燃やしているが、どう見ても負け組です本当にありがとうざいました、な人物。
何かと一言多く、通俗心理学をひけらかして場を白けさせるオヤジである。
息子はニーチェにかぶれ、空軍のパイロットになるまで沈黙するという誓いを立てているので、会話は筆談で行う。
自分の家族にはうんざりしているが、妹のことは愛している。
その妹はティーンエイジにも満たない感じの小太りのメガネっ子。
可愛いことは可愛いのだが、赤ちゃん体型で美少女コンテストに出場しようというのは無理がある。
その祖父はドラッグに溺れ色欲魔なため、老人ホームを追い出された不良ジジイ。
下品な発言ばかりするが、孫のメガネっ子とは意気投合している。
妹が一番まともに見えるが、こんな一家で頭がおかしくならないのはやはり変わり者かもしれない。

序盤の食事シーンで見事にキャラクターを観客の心に刻んだところで、物語は次のステップへ向かう。
美少女コンテスト「リトル・ミス・サンシャイン」の本選に出場するはずだった子が出場できなくなったため、次点であるメガネっ子が繰り上がりで出場できることになったと知らせが入る。
会場は隣の州。
今から車を飛ばせばギリギリコンテストの開始時刻に間に合う。
ということで取る物も取り敢えず、一家はオンボロのフォルクスワーゲンのマイクロバスに乗って会場へ向かう旅に出発するのである。

しかしこんな濃いメンバーでの旅が順調に進むはずもない。
そしてコンテスト会場で披露するダンスは不良ジジイが指導したというのが、何となくオチを予感させる。
お約束どおり紆余曲折があり、お約束どおり予感は的中する。
だが、そこで再生した家族の絆を見せられ、エンドロールが流れ始めたときには何となく爽快で希望のある気分にさせられる。

ロードムービーとコメディ、両方のお手本のような作品。
アカデミー賞脚本賞を受賞したのも納得である。

投稿者 Dormeur : 01:16 AM | コメント (0) | トラックバック

『善き人のためのソナタ』

ドイツ映画というと古典的作品くらいしか観たことがなかったのだけど、現代ドイツ映画で初めて観たのがこれ、『善き人のためのソナタ』。
去年の2月くらいに映画館にて鑑賞。

現代ドイツと言っても、映画の舞台は少し時代が下って、1980年代の東ドイツだ。
東ドイツの秘密警察である「シュタージ」の役人が主人公で、監視国家での市民生活の実態とシュタージの活動が描かれている。

主人公の無表情の堅物で、妻子も無く、シュタージの仕事と国家に忠誠を捧げているロボットのような人物。
盗聴などの国民生活の監視業務の指導教官も勤め、管理職への出世を好まず、現場での実務に力を注いでいる。
ある日、彼は舞台脚本家に反体制の疑いを持ち、脚本家とその同棲相手の舞台女優の監視を開始する。
脚本家が家を留守にしている間にチームで家に立ち入り、家中に盗聴器を仕込み、盗聴を行う。
しかし盗聴を続けているうちに、彼の心の中で何か変化が生じていく。

東ドイツ消滅後、シュタージの監視活動の記録を監視対象であった本人が閲覧できるようになった。
自分の記録を閲覧した脚本家は、自分が盗聴されていたこと、密告者が居たこと、そしてそれにもかかわらず、自分を見逃した人物の存在を知るのである。

映画なりの脚色はあるだろうけど、あまり見聞きすることがなかった東ドイツのおぞましさを垣間見れてとても興味深かった。
同時に、「自分の信頼していた人物が実は密告者だった」と記録によって判明することが、東ドイツ出身のドイツ人にとって大きな心の傷になっているという現実も見えてくる。
ナチスのトラウマに加えて東ドイツのトラウマまで抱えさせられて、ドイツ人は気の毒だなと思わされてた作品だった。

投稿者 Dormeur : 12:09 AM | コメント (0) | トラックバック

mai 23, 2007

『 DEATH NOTE デスノート the Last name 』を観た

もう半年経って DVD が既に発売されていますが、前編に続いて映画館で鑑賞。

名前を書くと書かれた人物が死ぬという死神のノート「デスノート」を手に入れた大学生、夜神月が、法で裁かれない犯罪者たちを正義の代行者「キラ」として次々と殺していく。
謎の探偵、「 L 」の推理により「キラ」の容疑者として特定された月だったが、自らの正義を貫くために犯罪者でない者も殺めて「キラ」の被害者側になりすまし、ついに「 L 」と警察の合同捜査本部に接触することに成功する……というのが前編のあらすじ。

後編では、「 L 」の疑いを晴らして「 L 」を暗殺しようとする月と「 L 」の攻防が描かれる。
もう一人の死神ともう一つの「デスノート」の登場という予想外の事態にも、これを生かして「 L 」を撹乱し追い詰める月。
見事勝利を収めるかと思いきや、「 L 」の仕掛けた罠が待ち受けているのだった。

まあ殺人者が最後に勝っては、娯楽作品としてはいろいろ世間の風当たりも強いでしょうから月が負けるのは想定の範囲内。
困難な状況を主人公が突破していく緊張感と爽快感があり、最後にどんでん返しも用意されているということで十分に楽しいストーリー展開だ。
原作マンガは未読だけど、「マンガを映画化した場合、映画は原作マンガの面白さを越えられない」という経験的法則を当てはめるならば、「映画でこれなら原作はどれだけ面白いのだろうか?」と期待を抱かせる出来であったのは確かです。

投稿者 Dormeur : 11:55 PM | コメント (2) | トラックバック

février 15, 2007

『トンマッコルへようこそ』を観た

北朝鮮の映画は観たことがあるのに韓国の映画は観たことがない、という私が初めて観た韓国映画が『トンマッコルへようこそ』。
朝鮮戦争中の朝鮮を舞台にしたファンタジー映画です。
以下ネタバレあり。

ある日、朝鮮半島の山中に連合軍(韓国・アメリカ)のアメリカ人将校が操縦する一機の飛行機が墜落する。
また別の山中で、連合軍の韓国人脱走兵が自殺を図っている別部隊の脱走兵に出会う。
歩き出した脱走兵の二人は薬草採集に来た民間人と出会い、彼の住む村「トンマッコル」を目指して山を越えていく。
たどり着いたトンマッコルは奥深い山の中にあるため文明の発展から取り残され、近代以前の暮らしが営まれている桃源郷だった。
村人は鉄砲すら見たことがなく、兵士を見ても怯えずに悠々としている。
当然のように朝鮮戦争のことなど知らない。
そのトンマッコルで、墜落した飛行機のアメリカ人将校が骨折の手当てを受けていた。
救援が来たと思い喜ぶ将校だが、来たのは脱走兵でしかも英語が通じないため落胆してしまう。

一方、人民軍(北朝鮮)の一部隊がピョンヤンへ撤退を図り行軍していた。
部隊を率いる人民軍将校が部下の命を守るため、敢えて命令に背いたのだ。
しかし敵襲を受け部隊は壊滅状態になり、わずかに残った部下を連れて彼は行軍を続ける。
断崖絶壁を伝い転落者を出しつつも、森の中を二人の部下を連れて彼は進む。
山中で休んでいると、知的障害を持つ若い女が現れる。
彼女もトンマッコルの村人だった。
彼女の案内で、彼らはトンマッコルへたどり着く。
人民軍兵士と連合軍兵士が鉢合わせ、驚愕した彼らはよそに銃を構えて対峙することになる。
至近距離で発砲も出来ず固まっている兵士たちを訝りつつ、村人たちは暢気に日常生活を続行する。
しかし弾みで転がっていった手榴弾が村の食料庫を吹き飛ばしてしまったため、罰として彼らは休戦して農作業を手伝うことになる。
互いに罵りあっていた彼らだったが、畑を襲った巨大イノシシを協力し合って退治したのをきっかけに打ち解けあう。

村を離れてお互いの国に戻ったところで、脱走兵にも命令違反者にも居場所はない。
村人は温かく彼らに接してくれる。
村人との恋も芽生える。
このままトンマッコルで暮らそうか、と彼らは考える。
しかし彼らは知らなかった。
連合軍は行方不明になったアメリカ人将校が山中で人民軍のゲリラに捕縛されていると勘違いしていたのだ。
トンマッコルのある地域に救援部隊を派遣し、アメリカ人将校救出後に空爆を行う作戦が実行される。
果たしてトンマッコルとトンマッコルに集った南北の兵士たちの運命はどうなるのか……。

作品の前半は、必死に戦争を続けようとする兵士と恐れを知らない村人とのギャップが際立ち、映画はコミカルに描かれる。
中盤になると両軍兵士が心を通わせあい、人情もの、ヒューマンドラマになる。
しかし後半に入り連合軍の救出部隊が現れると映画は一転、リアルな戦争映画になり凄惨な描写が目立つ。
救出部隊を撃退し、何とかしてトンマッコルへの空爆を逸らせようと両軍兵士は奮闘するのだが、画面は銃撃と爆発が乱れ飛び、悲劇的な結末が彼らを迎えることになる。

笑いあり、涙あり、恋あり、歌あり、子供あり、ドンパチあり、とエンターテイメント要素を全部ぶち込んでいるのになぜ結末が「めでたしめでたし」とならないのか、と考えると、やはり韓国人が持つ南北分断、朝鮮戦争への感情が深い影を落としているのだろう。
同じ民族が南北に分かれ殺し合い、戦争以外のドサクサを含めて何百万人も死んだと言われる歴史がある。
完全に架空の存在であるトンマッコルの村人はさておいて、現実の国を背負った兵士たち彼らだけを幸福な生活に住まわせて終われないという屈折があるのではないか。
また、たった一人のアメリカ人を救うために、南北の垣根の