映画の最近のブログ記事

私はプレイしたことがないのだが、2005年発売のアダルトゲームに『 School Days 』という作品がある。
「やるドラ」系のフルアニメーションで物語が進行するタイプらしい。
Web で観た限りでは、予算が足りないせいかアニメというより紙芝居といった方が適切だが。
で、ストーリーは高校を舞台にした恋愛もので、主人公の男と二人の女子高生の三角関係がメインストーリーになっているらしい。
この『 School Days 』を有名にしたのは凄惨なバッド・エンディング。
私の知る限りでは、主人公を寝取られて精神を病んだ片方のヒロインが、もう片方のヒロインを白昼堂々、主人公の目の前で刺殺(頚動脈から血液噴出)。
あるいは、トラウマを植えつけるために主人公ともう片方のヒロインの目の前で頭から飛び降り自殺(地面に激突する直前に二人と目が合う)。
あるいは、妊娠したのに主人公に捨てられたヒロインが主人公を刺殺。
という具合。

そして2007年、無謀にも TV アニメ化された。
最終話はゲーム版の流れを汲んだ強烈かつ猟奇的なバッド・エンドで、放送直前に少女が警察官を殺害する事件が起こった影響から放送局が放送を中止。
ヨーロッパの自然風景を撮影した紀行番組に差し替えられ、アニメファンの間で騒動になってしまう。
ところが日本のアニメ番組のキャプチャー写真を貼り付けつつ情報交換を行っていた海外のアニメファンの掲示板で、差し替え番組のショット(フィヨルドに浮かぶ観光船)に対し「 Nice boat. 」と簡潔にコメントされているのが日本のアニメファンに発見され、大受け。
「 Nice boat. 」は流行語と化した。

アニメ版のストーリーは主人公とヒロインたちが救いようもなく愚劣。
特に主人公が酷い。
交際していたヒロインときちんと別れずにもう一人のヒロインと肉体関係を持つ。
それだけならありがちだが、三角関係がこじれている最中であるにも関わらず、あろうことか恋愛感情も罪悪感も問題意識もなく他に三人の少女と肉体関係を持つ。
果てはヒロインを妊娠させておきながら中絶させて別れようとする。
こんな最低な主人公がハッピー・エンドを迎えるはずがなく、その結末にアニメファンは「こりゃ放送中止になるわ」と納得するとともに大喝采を送った。
ヒロインたちもヒロインたちで、なぜ彼女たちが人間の屑のような主人公と関係を持ちたがり依存するのか視聴者には全く理解できない。
アニメファンの間では、この作品について語る時は主人公の名前(誠)を採って「誠死ね」とコメントするのが慣例となっている。
全国の誠さんにとっては迷惑な話である。

で。
この異常なアニメを二人のインテリなアメリカ人青年に見せて実況コメントを収録した動画が「二人のアメリカ人にスクールデイズを見せてみた」である。
元々はアメリカ版のゲームソフト(アダルトゲームではない)を実況プレイしていた人たちだったらしい。
日本のアニメを結構観ているようだが、「萌え」は好きではないようだ。
彼らは過剰な性描写にツッコミを入れ、ストーリーのあまりの酷さに呆れる。
健全な若者らしく、下ネタも欠かさない。
コメントが続く中でアメリカと日本の文化の違いも見えて来る。
最終話に彼らがどんな反応を見せるのか?
それは動画を観てのお楽しみ。
なお、字幕以外は著作権に配慮して殆ど音声のみなので、本編映像は自分で何とかして用意する必要がある。

動画に登場するメンバーは次のとおり。

Graham

怒りを露わにするタイプ。
途中で登場人物達に対して怒りを通り越して呆れてしまい、やる気がなくなっている。
日本語は読み書きも会話もできない。
アメリカ・フロリダ州在住。
教師をしているらしい。

Matt

哲学的なタイプ。
象徴的・比喩的描写を即座に理解する。
ストーリー展開予想の鋭さは異常。
24歳。
日本語は読み書きも会話もできない。
収録後に日本での短期の仕事を見つけ、2008年8月から東北地方あたりに滞在しているらしい。

Kenny

企画、収録、編集、投稿、和訳担当。
Graham と Matt とは友人。
昔日本に10年住んでいたらしく、デーブ・スペクターを凌駕する日本語力を持つ。
日本の方言やインターネット・スラングを駆使した秀逸な和訳字幕を作成している。
「二人のアメリカ人にスクールデイズを見せてみた」では収録現場に居るものの裏方に徹してほとんど発言していない。
他の投稿動画では英語や日本語で喋っている。
英語経由の外来語までも日本式に発音できるため、声だけだとほぼ日本人と区別がつかない。
アメリカ・フロリダ州在住。

日本滞在中の Matt による投稿ビデオシリーズ「 Matt 君の日本体験日記」は下記にて。

ニコニコ大百科 - 外人ゲームプレイ日記リンク

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ショア [DVD]

クロード・ランズマン監督の映画『ショア』( SHOAH )と『ソビブル、1943年10月14日午後4時』( Sobibór, 14 octobre 1943, 16 heures )を収録した DVD-BOX。

『ショア』

1985年に公開された記録映画で、制作期間は11年にも渡る。
第二次世界大戦時代、ナチス・ドイツが行った大量虐殺のうち、ユダヤ人を対象にして主にポーランドで行われたものを題材としている。

10年遅れて日本に入ってきたため、私が高校生くらいの時に話題になっていた作品だが、一般向けのビデオ販売は行われておらず、観ることができる機会は有志による上映会や図書館での閲覧などに限られていた。
かつて私が観たのは、大学の講義の補助教材として教授だったか助教授だったかが持参したビデオで、限られた講義の時間の中では断片的にしか観ることができなかった。
しかし DVD として一般販売されたおかげで、ゆっくりと自宅で全部を観ることができるようになった。
何ともめでたい。

本作はインタビューで構成されていて、絶滅収容所で生き延びたユダヤ人、絶滅収容所に勤務していたドイツ人、絶滅収容所の地元のポーランド人、歴史学者であるユダヤ人、ユダヤ人の鉄道輸送に携わっていたドイツ人、ワルシャワ・ゲットーを管理していたドイツ人、ポーランド政府の密使として働いていたポーランド人などが登場する。
BGM はなく、音楽はと言えば、インタビューをされている人物が口にする歌くらいのもの。
第二次世界大戦当時に撮影された写真や映画などの刺激的な映像も一切登場しない。
淡々と証言が続き、インタビュー当時、すなわち戦後30年から40年経過した後の収容所近辺や収容所跡地などの映像が時折証言に重ねられるのみである。
恐らく、感動だとか感情移入だとかいうものは拒否しているに違いない。

監督は恐らく次のように言いたいのだろう。
真実の記録は記憶の中にこそあるのであって、記憶は証言を介してしか現れない。
第三者ができるのは、ただそれを受け入れるだけ。
当事者でない者が被害者と心を重ね合わせることなどできやしない、と。
ただ、このやり方は歴史修正主義者の手にかかると「そもそもホロコーストには証拠がないから証言に頼ってるんだ」という風に解釈されてしまうし、観ていて退屈になりがちなので私はベストだとは思わない。

上映時間は9時間にも及ぶ。
あまりにも長くて、一気に観ることなど到底無理。
ホロコーストという余りにも凄惨な出来事を表現するには、2時間や3時間では不可能だと、あるいは、被害者が受けた苦痛を観客も味わえとでも言うような長さだ。

興味深かったのは、歴史学者による解説で、ユダヤ人を絶滅収容所に輸送するのにもナチス・ドイツは鉄道事業者(国鉄)に運賃を支払っていたという話。
団体料金が適用されていて、列車の手配には一般の旅行者と同じ旅行代理店を介していたんだそうだ。
列車が占領国の鉄道を経由する場合は、ちゃんとその国の通貨で支払っていたとか。
さすが律儀さに定評のあるドイツ人!
それだけにホロコーストが単なるナチス首脳部の狂気なのではなく、社会的に、官僚的に、冷静に、粛々と遂行された事業であるということも垣間見えるのだ。

鋭い刃物で心を抉るのではなく、布をこれでもかとばかりに大量に積み重ねて行って、心を重みで潰しにかかるような作品である。

『ソビブル、1943年10月14日午後4時』

2001年に公開された記録映画で、元々は『ショア』のために撮影されたが、『ショア』ではカットされた一つのインタビューを映画作品にしたもの。
1979年に撮影されたインタビュー部分と、2001年に撮影されたワルシャワやソビブルの映像から成る。
強制収容所からの脱走に8回失敗しながらも強制収容所を転々として生き延び、ついにはソビブル絶滅収容所で武装蜂起に成功して脱走を遂げたユダヤ人、イェフダ・レルネルが自らの経験を語っている。
BGM も第二次世界大戦当時の映像もないのは『ショア』と同様である。
結末にはソビブル絶滅収容所への移送実績の日付と人数のリストが延々と読み上げられる。
作品を単なる英雄譚にしない、心憎い嫌らしさが感じられる。
上映時間は1時間38分。

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「空飛ぶモンティ・パイソン」“日本語吹替復活”DVD BOX

『空飛ぶモンティ・パイソン』( Monty Python's Flying Circus )はイギリスのコメディユニットであるモンティ・パイソンによるコント番組で、1969年から1974年にかけてイギリスの TV 局 BBC で放送された。
日本でも編集された上で日本語吹き替えで放送されていて、『空飛ぶモンティ・パイソン "日本語吹替復活" DVD BOX 』は字幕のほかに日本語吹き替え音声も収録したものになっている。
吹き替え音声の収録は当時の日本語放送を観た人にとっては感涙ものらしいのだが、私の産まれる前のことなので私は特に思い入れがないし、日本語放送のために編集でカットされた部分は字幕になってしまうので、結局字幕で観た。

無差別メールが「 SPAM 」と呼ばれる理由、プログラム言語の「 Python 」の名前の由来、あるいは「○ t 」と書かれた錘やハンマーで登場人物にツッコミを入れるギャグ。
これらはみな、モンティ・パイソンの影響だと言われている。
インテリ層に熱狂的な支持を受けているモンティ・パイソンって奴を一度観てみたいとかねがね思っていたのだが、DVD が入手しづらい状況だった。
『空飛ぶモンティ・パイソン "日本語吹替復活" DVD BOX 』の発売によりやや廉価で観れるようになったので、思い切って予約購入。
というわけで初モンティ・パイソン。

メンバーが皆名門大学出身者なだけあって、イギリスの階級社会や時代の情勢を皮肉ってたり、歴史を題材にしたり、言葉遊びをしたりと、知性を求められるギャグが目立つ。
だが全体的にはオチがないナンセンスで不条理なギャグのラッシュだ。
複数のコントは意表を突いたモンタージュ、写真とイラストをコラージュした気持ちの悪いアニメーション、BBC による放送であることを組みこんだメタ的なギャグで繋がれている。
アニメーションを作っているのは今や映画監督として名高いテリー・ギリアムで、頭がおかしいんじゃないかと疑うような、ぶっ飛んだ発想の映像を見せてくれる。

30年以上前にこんな知的で先進的なギャグがあったのかと驚いた。
腹を抱えて笑うと言うよりは、ニヤニヤ笑うことが多い。

一方で、下品なギャグも多い。
有名な「 SPAM 」は実は「 sperm 」(精子)と引っ掛けたギャグなのだが、それ以上に直接的な下ネタが散見される。
公営の TV 局で先鋭的なギャグと下ネタを放送できるイギリスという国の度量の大きさにはびっくりだ。

昨今の日本の若手お笑い芸人にうんざりしている人が観ると面白いかもしれない。
試しに観るにはちょっと高いけど。
YouTube の公式チャンネルでいくつかのコントを観ることが出来ても英語のみだし。

コントのみのベスト版もあるけど、エンディングのスタッフロールにもギャグを仕込んでいることがあるし、コント同士の繋ぎのテクニックも注目点なので、どうせ観るなら番組として丸ごと観たいところだ。

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戦場のピアニスト [HD DVD]

『戦場のピアニスト』( The Pianist )は2002年のポーランド・フランス・ドイツ・イギリス合作映画。
残念ながら 日本でもアメリカでも BD 化されておらず、HD で楽しむには HD DVD で観るしかない。
当方は Xbox 360 のオプションの HD DVD ドライブを所有しているので、HD DVD を観ることができる。
BD プレイヤーも HD DVD プレイヤーも両方あって良かった。

本作の監督はロマン・ポランスキー。
彼の映画は『オリバー・ツイスト』しか観たことがないが、ロンドンの貧民街を再現したセットや陰鬱な雰囲気の映像は未だに印象深い。
彼はポーランド出身で、少年期にはワルシャワ・ゲットーでの暮らしから逃げ延びた経験があるという。
今から思えば、『オリバー・ツイスト』の暗さもその経験が投影されているのかもしれない。
本作はそんな彼のために用意されていたかのような題材だ。

ストーリーはユダヤ系ポーランド人ピアニスト、ウワディスワフ・シュピルマンが1946年に著した体験記がベースになっていて、ポランスキーの体験も織り交ぜられている。
1939年にドイツがポーランドに侵攻。
ワルシャワでそこそこ裕福な暮らしをしていたシュピルマン一家は、当初イギリスとフランスの対ドイツ宣戦布告を知って事態を楽観していたが、ドイツのユダヤ人弾圧は順調に進行し、ゲットーに強制移住させられ追い詰められていく。
シュピルマンは家族と共に絶滅収容所送りになる寸前、一人だけ難を逃れることができた。
そこから彼はは旧友の助力を得ながら、徐々に崩壊していくワルシャワの街でドイツ軍とポーランド市民から身を隠しサバイバル生活を送ることになる。

事実を基にした物語で、下手に脚色するのも憚られる題材だからだろう、物語は淡々と進む。
BGM による演出も、皆無だったのではと思うくらい記憶にない。
その分、主人公によるピアノ演奏が際立つことになる。
そういえば主人公を助けるドイツ人将校の伏線として、かすかにベートーベンの「月光」が流れていたが、空耳なのか BGM なのか伏線なのか最初は判らなかった。
それくらい静かな映画だ。

『戦場のピアニスト』とあるから、従軍して野原や森でドンパチやったピアニストの話とばかり思っていたのだが、シュピルマンはワルシャワから外には出ない。
戦場というのは、ゲットーでの反乱やワルシャワ蜂起が起きたワルシャワの街のことだった。
シュピルマンは銃を取って戦うことはない。
逃げるだけの無力な男であって、英雄ではない。
ただし、蜂起の模様を目撃したり、潜伏先が戦車の砲撃や火炎放射を食らったりとアクション的な見せ場は一応ある。

史実がそうであるように、人々は呆気なく死んでいく。
死者の尊厳などない。
銃撃された途端に車で轢かれたり、道端で積み重ねられて野焼きにされたりする。
かといって、ユダヤ人が一方的に被害者で、ドイツ人が一方的に加害者であるという描き方もしていない。
ユダヤ人にはドイツ人に協力して同胞を弾圧する側に回っている者がいるし、かと思えばそんな悪いユダヤ人やドイツ人将校によってシュピルマンが命を救われるのである。
主人公が運頼みで助かるのは物語としては不恰好だが、どんな物語よりも凄惨で痛々しい現実の出来事の描写を優先しているのだから仕方がない。

『オリバー・ツイスト』で感心した絵づくりは、本作では一層インパクトが強かった。
監督自身も当事者で戦禍の生き残りだけに嘘を描きたくないからか、妥協を許していないように思われる。
ワルシャワの街並みやゲットーの様子など、セットなのか本物なのか区別がつかない。
圧巻は、クライマックスの破壊されつくしたワルシャワにシュピルマンが立ち尽くすシーン。
HD DVD のパッケージの表にも採用されているが、ドイツに存在した古い建物群を実際に破壊して撮影したのだというから恐れ入る。
ディテールの細かさは DVD ではなく、是非 HD 画質で体験するべきだ。

シュピルマン役のエイドリアン・ブロディも素晴らしい。
代役を使わずに実際にピアノを弾いてるようだし、知的さと無力さがよく出ている。
そりゃこの作品でアカデミー主演男優賞も取るわ。
ハリウッド俳優ぽくない、ハンサムではない面構えなのもいい。

間違いなく良作。
BD 版が早く発売されることを望む。
権利を持ってる会社が2008年12月になってようやく 映画 BD のリリースを始めるようなので、期待は持てそうだ。

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カラーで見る第2次大戦 DVD BOX

TV でよく見る第2次世界大戦当時の記録映像はモノクロのものが多い。
しかし、大戦勃発前の1935年には既にイーストマン・コダックによって実用的なカラーフィルムが市販されていて、カラーで撮影された映像が意外と残されている。
『カラーで見る第2次世界大戦』は、イギリスの TV 局カールトン・テレビジョンがそんなカラー映像を編集して製作した1999年の TV 番組を、NHK の子会社が日本語化したもの。
開戦当初から終戦までを各44分、全3巻で描いている。
映像に合わせて解説ナレーションと当時の人々が記した日記や手紙が読み上げられる構成で、『映像の世紀』と同様のスタイルだ。

モノクロ映像だと、どうしても我々が現実に目にしているものとは違う作り物っぽさを感じてしまい、遠い世界の出来事のように思える。
それがカラー映像になると、そこに生きている人が居たという生々しさが一気に迫ってくる。

戦地から離れて暮らす一般市民がいて、時には楽しい休日を過ごしている。
街の中を兵士たちが当たり前のように歩いている。
陸海空の戦場で兵士たちが戦い、死体があちこちにある。
食べ物もなくやせ衰えたユダヤ人の子供がゲットーで寝転がっている。
都市ではパルチザンが銃殺されて血を流し、あるいは絞首刑にされてぶら下がっている。
その模様を人々が平然と見物している。
夜間空襲で街は燃え盛り、一夜明けると道端には黒焦げになった市民の死体が転がっている。
ナチスの強制収容所を解放した連合軍が、地元市民に死体の山を見せている。
全裸で肌の白さが眩しい、積み重ねられたマネキンのような死体の山である。
瓦礫の山となったベルリンで、女性たちが何か作業をしたり、荷物を持って移動している。
すべて俳優でもセットでもない、本物だ。

一番切なかったのは、孤児院でカメラに向かって笑顔を見せるロマの子供たちの映像。
ナチスがロマの社会適応性の研究のために撮影したものと思われる。
その輝かしい笑顔も、ナチスはガス室で消してしまったのである。

日本兵や日本の民間人の映像もあるが、日本側に高価なカラーフィルムを使った映像を残す余裕はないので、連合軍側から撮影された敗残の模様ばかりだ。

最近の TV ニュースでは戦争やテロが起きても死体を映さないので、何人死んだと言われても実感がなく、数値化された記号のように思える。
いくら昨今の映画やゲームソフトがリアルな描写をしていると言っても、やはり本物の迫力には敵わない。
いくら美辞麗句で飾られようと、戦争なんかしない方がいい。
それを後世に伝えるために手っ取り早い手段は、この DVD を子供たちに見せることだ。
校長先生が全校集会で命の大切さを語る暇があったら、この DVD を子供たちに見せるべきだ。
トラウマになるくらい心に響くはずである。

なお、BOX セットで買っても外装の箱がついてくるだけなので、中古で買うならバラ売りのを選んだ方が安くつくと思われる。

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7 décembre 2008

DVD 『カリガリ博士』

『カリガリ博士』( Das Kabinett des Doktor Caligari )は1920年に公開されたドイツ映画。
トーキーが発明される前のものなので、モノクロのサイレント作品だ。
古典的映画の名作として名高いのだけど、ずっと観てなかった。
学生時代、大学図書館に LD があって観ようと思えば観れたのに。
著作権が切れているので近年500円の格安 DVD として商品化されていて、私はそれを買って観た。
ついさっき知ったのだけど、有志の翻訳家が日本語字幕をつけたものが web で公開されているので、買う必要は別になかった……。

この作品はサイコ・サスペンス映画やサイコ・ホラー映画の元祖とされている。
ストーリーは、ある事件に巻き込まれた一人の青年の回想という形で語られる。
青年の故郷の町に祭の巡業がやってきて、その中でカリガリ博士と名乗る男が見世物を開く。
その見世物というのは、カリガリ博士の下僕である夢遊病患者チェザーレを目覚めさせ、観客の未来を予言するというもの。
青年とともに見世物を観に来ていた彼の友人が自分の寿命を尋ねてみると、明日の夜明けに死ぬという。
予言どおり、青年の友人は何者かに殺されて死んでしまう。
その前に町の役人が殺されているのだが、その役人はカリガリ博士の興行申請に対して邪険に応じた男だった。
青年はカリガリ博士が友人を殺した犯人だと断じて、警察に通報するのだが証拠がない。女性を殺そうとした男が警察に捕まるが、連続殺人に便乗した犯行だった。
青年はカリガリ博士の住む家を監視する。
その間に、青年が結婚を申し込んでいた女性をチェザーレが殺そうとするものの、彼女の美しさに魅了されてか、彼女を連れ去って逃げてしまう。
町の人々に追跡されて、チェザーレは道中に女性を置き去りにして逃亡。
女性はチェザーレが犯人だと断ずるが、監視していたのでありえないと青年は思う。
逃げたチェザーレは町外れで死体となって発見される。
警官を連れて青年がカリガリ博士の家を訪ね強引に押し入ると、トリックが判明する。
窮したカリガリ博士が逃げた先は、精神病院だった。
ここで青年はカリガリ博士の正体を知るのだが、最後にどんでん返しがあって映画は終わる。

この作品の一番の特徴は、ドイツ表現主義と評されている背景美術。
恐らく全てがセットと書割の中で撮影されているのだが、シュールレアリスム絵画のように建物がことごとく傾いでいて、歪んだ形をしている。
壁や柱には奇抜な紋様が描かれている。
地面には傾斜がつけられていて、奥行きのある立体的なものになっている。

次に特徴的なのがコントラストの強い画面づくりで、人物の顔は白粉を塗ったように真っ白け。
その中でチェザーレは目の周りを黒く塗り睫毛がパッチリな化粧が施されていて、人ならざる者のような雰囲気を漂わせている。

物語の筋立ては現在の観点からすると取り立てて珍しくもないし、展開が唐突でギクシャクしている。
その一方で物語が二重構造になってたり、時系列が一直線になっていなかったりと、古い映画にしては複雑なのではないかと思う。

この作品を観て強く感じたのは、酩酊感。
体調が悪かったわけじゃないのに、視界がユラユラとして落ち着かない。
歪んだ形の背景美術のせいだろうか。
だとしたら、映画の製作者としては「してやったり」だろう。

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DVD-VIDEO のパッケージの裏面を見ると、たいてい下の方に表がある。そこには「5.1chサラウンド」「2.0chステレオ」「モノラル」などと書かかれている。これは音声の再生様式を示している。

ステレオとモノラルは知っている人が多いと思う。ステレオは前面2個のスピーカーで左右別々の信号を再生して、立体的な音響を作り出すもの。対してモノラルはスピーカーが1個だけ(厳密にはモノラルと言うのは間違いで、モノフォニックと言う)。

では5.1chサラウンドとは何か。これは聞き手を取り囲むように6個のスピーカーを設置して、それぞれに別々の信号を流し、ステレオよりも更に臨場感を高める仕組みだ。聞き手の前面左右にステレオと同様にフロントスピーカーを置く。そしてその間にセンタースピーカーを置く。聞き手の斜め後ろ左右には、サラウンドスピーカーを置く。映画の場合、センタースピーカーからは主に俳優の台詞が出て、フロントスピーカーからは BGM や環境音が出る。サラウンドスピーカーからはカメラの後方から発せられる音や残響音が出る。「.1」と表記される残りの1個は重低音を専門に担当するサブウーファーと呼ばれるスピーカーで、フロントスピーカーの近辺に置く。こうすることで、映画館のように迫力のある音響を楽しめるのである。この5.1chサラウンドに対応した家庭用音響システムが、電器メーカー各社から発売されている。

一方、液晶ディスプレイやプラズマディスプレイの技術革新で TV の薄型化と大画面化が進行してきた。ところがスピーカーは箱に充分な大きさが取れる方が音がよくなるので、薄型の TV というのはどうしても音が貧弱になる。大画面により映像では迫力が出るのに、音響では迫力がないという状況になった。

音響を解決するには、前述のサラウンドシステムを別途導入すればいい。しかし日本の住宅事情では聞き手まで均等に音が届くようにスピーカーを配置するのは難しいし、サラウンドスピーカーそのものや、サラウンドスピーカーとアンプを接続するコードが掃除や通行の邪魔になって家族の不興を買いがちだ。

そこで、「前面にスピーカーを置くだけで5.1chサラウンドを楽しめたら便利で売れるんじゃないか?」という発想に至り、今では各社が「フロントサラウンドシステム」を商品化している。代表的な方式としては、ステレオと同じフロントスピーカー2個を流用し、マイコンにリアルタイム演算をさせて擬似的なサラウンド音声を生み出すもの、6個分のスピーカーを1個の箱に収め、部屋の壁面に音を反射させてサラウンド音声を生み出すものがある。

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Blade Runner ( Five-Disc Complete Collector's Edition )

『 Blade Runner ( Five-Disc Complete Collector's Edition ) 』は、1982年に公開された SF 映画の傑作『ブレードランナー』の北米版 Blu-ray Disc である。

『ブレードランナー』がどんな映画かは、語りだすと長くなるので敢えて説明しない。
傑作だから観て下さい。
以上。

さて、『ブレードランナー』のファンなら既知のことだが、『ブレードランナー』には様々なバージョンがある。

  • ワークプリント版(1982年)……本公開前に観客の反応を見るためのテスト版
  • 初期劇場公開版(1982年)……アメリカで最初に商業上映されたバージョン
  • 国際版(1982年)……ヨーロッパや日本で上映されたバージョン
  • ディレクターズカット版(1992年)……10周年記念バージョン
  • ファイナル・カット版(2007年)……25周年記念バージョン

これらを全て収録したのが、『 Blade Runner ( Five-Disc Complete Collector's Edition ) 』なのだ。

何故北米版かというと、5つのバージョンを全て収めた BD は日本で発売されていないからである。
2008年に入ってからようやく日本で発売された BD は、ファイナル・カット版のみの収録となっている。
2007年、5つのバージョンが収録された DVD 版が日本で発売されたが、1万セットの限定生産で、希望小売価格24,800円という高価なものだった。
しかし、北米版 BD は希望小売価格が39.99ドルである。
私は Amazon.com で発売3ヶ月前の2007年9月から予約して北米版 BD を購入したが、本体27.95ドル、送料5.98ドルで計33.93ドルだった。
1ドル120円として計算すると、33.93ドルは4,071円である。
何という安さ!
そして DVD と BD で画質・音質ともにどちらが優れているかといえば、圧倒的に BD だ。
ならば DVD を買う必要はない。
DVD と違って、BD は日本のプレイヤーでも北米版を問題なく再生できる。
メニューや字幕も、ファイナル・カット版のみではあるが、日本語を選べるようになっている。
大体、5つのバージョンを見比べるなんてコアなファンしかやらないし、コアなファンなら字幕なんかなくても人物が何を言ってるか判るんだから全く問題ない。
残念なのは、特典として付属しているメイキング・ドキュメントに日本語字幕がついていないことだが、どうしても日本語字幕で観たければ日本で発売されているファイナル・カット版の BD (5,000円もしない)を買えば済む。

本題に入ろう。
私は国際版の LD とディレクターズ・カット版の DVD を所有していて、その二つの内容は知っている。
まだ観ぬ残りの3バージョンのうち、一番観たかったのはワークプリント版だった。
何故か。
『ブレードランナー』といえばコレ、という有名な台詞「二つで充分ですよ!」。
だが一体何が二つなのか映像にないため、謎だった。
しかしワークプリント版では、その「二つ」の映像がカットされておらず正体を確認できるというのだ。
「流出した海賊版」と称する怪しげなビデオのスチル写真によれば、それは海老だという。
本当なのか。
ついに公然とベールを脱いだ「二つ」とは――
確かに、丼の上に乗っかった茄子のような海老のようなどす黒い物体であった。
こりゃ確かに二つで充分、というか不味そうだから一つでも要らんわ。
胸のつかえが取れたので、これだけで満足。

とはいえ、ファイナル・カット版も素晴らしい。
もともと、『ブレードランナー』の特撮シーンは65mmフィルムで撮影されたのだが、上映時に35mmフィルムにダウンサイジングされている。
しかしファイナルカット版ではオリジナルの65mmネガから直接マスターが作られているので、BD の HD 画質もあいまって、ヨダレが出そうなほど美麗な映像を堪能することができる。
例えば、冒頭のシーンにおいて、タイレル社のビルは圧倒的存在感を持って輝き、部屋に立つ検査官も映っている。
35mmフィルムで撮影されたシーンでも、アップになったハリソン・フォードの胸毛の一本一本やショーン・ヤングの手の産毛の一本一本、女優たちの顔の毛穴まで確認することができる。
映像のリファインのほかにも、いろいろと細かく変更がされていて、台詞とストーリーの矛盾の解消、いくつかのショットと台詞の追加、映像のミスのコンピューター修正などが成されている。
また、特典として、リドリー・スコット監督やスタッフによる音声解説が付属している。
もちろん、日本語字幕つきだ。

残念ながら、本編の日本語字幕の誤訳は相変わらず修正されていない。
一言一言区切って喋ってくれるので、私の拙い英語力でも聞き取れるクライマックスシーン。
ロイが" I watched C-beams glitter in the dark near the Tannhäuser Gate. All those moments will be lost...in time...like...tears...in rain. Time to die. "と語る。
字幕では、「タンホイザー・ゲートのオーロラ そういう思い出もやがて消える 時が来れば―― 涙のように 雨のように その時が来た」となっている。
" C-beams "云々はアドリブの台詞らしいので謎だがオーロラじゃない何かだろうし、「涙や雨のように消える」という比喩はわけが判らない(「雨の中の涙のように」という訳が正しい)。
レプリカントが避けようと拘り続けてきた「死」の場面なのに訳に反映されていないのもよろしくない。

それはともかくとしても、この『 Blade Runner ( Five-Disc Complete Collector's Edition ) 』は『ブレードランナー』のファンなら是非入手しておきたい一品だ。
BD プレイヤーや HD ディスプレイを持っていないなら、この際買ってしまおう。

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22 novembre 2008

DVD 『エコール』

エコール

『エコール』( Innocence )は2004年に制作されたフランス映画。
映画館に置かれていたフェティッシュなデザインのチラシを見て「これは当たりかも」と注目していたのだが……映画を観てみたら、児童ポルノに片足を突っ込んだような作品だった。

題名が原題をカナ表記した『イノセンス』でないのは、押井守監督のアニメ映画と被るからだろう。
「エコール」とはフランス語で「学校」という意味。

物語は、どこからか連れられてきた少女(というより幼女)が棺桶から目覚めるところから始まる。
目覚めた場所は、人里から離れた森の奥にある学校。
生徒は思春期前の少女ばかり。
大人は女性教師と老いた女中だけ。
男がいない。
授業内容は生物とダンスだけ。
冒頭の少女は学校の新入生として生活を始める。
そして少女たちの生活模様や脱走事件なんかが描かれていき、終盤に学校の目的が判るという粗筋になっている。

少女の無垢性、神秘性とともに、肉体の成長に伴う心の変化を描いていることはすぐ判るのだが、首を傾げたくなる描写が目立つ。
例えば冒頭の少女の目覚めのシーン。
少女はパンツ一丁で、体を隠そうともしない(それくらい幼い)ので裸体が露骨に映し出される。
裸イコール生誕のメタファーなんだろうけど、ヨーロッパの国って少女の裸体が映るのには厳しいイメージがあったのによかったのか。
しばらく進むと少女たちの水浴びのシーンがあって、ここでも少女が堂々とパンツ一丁になる。
こうも露骨だと無粋だ。
ミニスカートから伸びる少女の脚が強調されてて、少女が地面に倒れても下着が見えそうで見えない……ってカットがあるから、監督も線引きを判ってるはずなんだが。
「少女の裸体が映っただけで反応する奴はロリコンだバーカバーカ」ってな感じで皮肉を込めているのか、女優の濡れ場のように興行的な意図があるのか。
あるいは、男性の目が存在しないために、自らの肉体が性的な意味を持っている(あるいはこれから持ち始める)ということに無頓着で過ごしている少女の有り方を描こうとしたのかもしれない。

白で統一された少女たちの衣服、森の緑、リボンの色のアクセントといった色彩感覚。
そして閉ざされた森の中にある19世紀風の洋館というミステリアスな雰囲気は好ましい。
ギムナジウムものの少女マンガの少年を幼女・少女に入れ換えたような感がある。
しかし、裸体を抜きにしても少女たちは肉体の生々しさが終始表現されている。
女性監督だけに、少女性に過剰な幻想を与えず現実的な感覚を保っているからだろうか。

観客にダンスを披露する際、蝶の羽を身につけるところを見ると棺桶は卵、学校生活は幼虫、ダンスの披露は羽化のメタファーということになろう。
卒業を迎えた少女が地下道を通って外に出るのは出産のメタファーで、外に出た少女が遭遇する噴水と少年は性交のメタファーだろう。
象徴性を散りばめているけど、安直というか、判りやすいというか……。

少女の裸体とか官能性に反応してしまうのは私が男性だからで、女性が観れば抵抗なく受け入れられる程度のものなのかもしれない。
とはいえ、少なくとも私にとっては、耽美的な作品と捉えるには中途半端だと思った。

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22 novembre 2008

「ヤシガニ」10周年

10周年、といえば「ヤシガニ」事件からも10周年なんですね。

「ヤシガニ」事件とは、1998年に放送されていた TV アニメ番組『ロスト・ユニバース』の第4話「ヤシガニ屠る」で、放送に耐えない劣悪な質の映像が放送されてしまったという事件です。
以降、TV アニメ番組における劣悪な作画の代名詞として「ヤシガニ」という語が使われるようになりました。
詳細は「ヤシガニ屠る」で Web 検索すれば初回放送時の画像写真や動画記事を見ることができます。

どのように劣悪なのか簡単に紹介すると、

  • キャラクターのデッサンが基本デザインからかけ離れて別人のようになっている
  • 絵の枚数が極端に不足しカクカクしている
  • 描かれるべき人物や物体が描かれていない
  • 絵の陰影が省略されて立体感がない

といった感じ。

視聴者の多い18時半からの放送だったことと、Web の普及が進んでいった時期だったことが災いして大きな事件として記憶されることになったんでしょう。
私も『ロスト・ユニバース』を本放送で観たことは1度もなく、Web サイトで知った口です。

何でこんなことになったのかというと、ただでさえ劣悪だったアニメ制作の現場環境が、『エヴァ』ブーム後のアニメ制作バブルの影響で更に悪化し、制作スケジュールが破綻を来たしたからと言われています。
フルデジタル制作による効率向上と外注先の海外アニメスタジオが力をつけたことで、業界は騙し騙し存続しているようなんですが。

ところで、「ヤシガニ」事件の翌年である1999年には『ガンドレス』( GUNDRESS )が業界とアニメファンを震撼させました。

『ガンドレス』は東映系で全国劇場公開の SF アニメ映画だったのですが、制作が上映に間に合わず、未完成な絵が散りばめられた状態で上映されるという椿事になったのです。

デッサンの崩壊自体はほとんどないんですが、

  • 背景とセルがずれてるカットがある
  • 所々で台詞や効果音と映像がずれている
  • 歩いているはずの人物が動いておらず、平行移動に見えるカットがある
  • 発射されたロケット弾が動いていないのに次のカットでは目標に着弾している
  • 人物や物体が線画に一色で塗っただけのカットが頻発する
  • 絵の枚数が足りず動きがカクカクになるシーンがある
  • カットの露骨な使いまわしがある

などという始末。
制作サイドは入場者のうち、希望者に完成品のビデオテープを無料送付するという形で対処したのでした。

後に DVD に収録された『ガンドレス』の特典として未完成バージョンが添付され、それが Web に流出し今なおこうして語り継がれるに至っています。
私も上映当時は『ガンドレス』の存在すら知らず、事件のことを知ったのは数年後。
最近になって未完成版を観ましたが、あまりの酷さに「コメディ映画でもこれだけ笑わないぞ」というくらい笑ってしまいました。
制作サイドからすれば、この未完成版に至るのですら悲惨な努力があって、笑うどころではないのでしょうけど。

『ガンドレス』において切ないのは、絵がちゃんと出来上がっていたとしてもつまらない凡作だったというところ。
近未来の都市で、美女5人がパワードスーツに身を包み、テロリストに立ち向かう――という新鮮味のない設定。
その美女5人がどいつもこいつも魅力に乏しい。
『 GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊』の4年後の作品なのにチープな電脳世界の描写。
ストーリー展開も盛り上がりに欠ける。
そりゃ未完成での上映という失態をネタに売るしかないよな、と納得しました。

詳細は「これがガンドレスだ」「伝説の未完成映画」を参照して下さい。

作画崩壊アニメの系譜については、「同人用語の基礎知識」の「ヤシガニアニメ/ヤシガニ屠る/ウニメ」が詳しいです。

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20 novembre 2008

ホラー映画の記憶

ちょこちょこと映画を観てきて DVD も沢山溜め込んできた我が人生だけど、やはり苦手なジャンルってのがある。
例えばアングラなスナッフ・フィルムとかスカトロものとか。
想像するだけで気持ち悪すぎて観ようとも思わない。
それはまだしも、一般向け作品でもなかなか観ないジャンルがある。
それはホラー。

本質的に臆病なもので、「明らかにこれから怖いシーンが来ますよー」って空気に耐えられないんだな。
サスペンスものやミステリーものは平気なんだけど。
そういうわけで、女の子とホラー映画を観に行って、怖さのあまり女の子が手を握ってきたり抱きついてきたり……というラブコメでありがちなシーンとは、とんと無縁なのであった。

で、今まで全編通して観たことのある数少ないホラー映画の記憶を辿ってみた。

『バタリアン』

バタリアン

1985年のゾンビもの映画。
B 級臭いけど、タイトルをもじった『オバタリアン』なんてマンガがヒットしたくらいだから興行成績はよかったんだろうか。
コメディっぽさもあってあまり怖くない。
しかし物語途中で復活するコールタールまみれのゾンビは幼心に印象に残った。
ラストシーンの影響で、火葬場に行くたびに「自分が生きたままこの中に入ったら……」って考えてしまうし。

『シャイニング』

シャイニング 特別版 コンチネンタル・バージョン

1980年の映画。
スタンリー・キューブリック監督作品。
ホラーというよりサイコスリラーかな。
不気味なシーンがいっぱいあるのに怖いとは思わなかった。
キューブリックの映像美を味わう作品のような気がする。
ジャック・ニコルソンはハマリ役だったな。
ちなみに、この作品で撮影されたカットが『ブレードランナー』で流用されている。

『ジョーズ』

ジョーズ

1975年の映画。
サメが船にまで乗り上げてきてそのツラを拝んでみたら、意外と可愛かった。
実際に現場に居合わせたらそんなこと言えないんだろうけど。
そのサメに人間が食いちぎられるグロいシーンがあるし……。

『鳥』

鳥

1963年の映画。
アルフレッド・ヒッチコック監督作品で観たことがあるのはこれだけ。
物語としては、鳥が大量に集まって人間を襲うだけだったような記憶が。
鳥の異変の理由が結局判らずじまいなのが不気味。

『アタック・オブ・ザ・キラートマト』

アタック・オブ・ザ・キラー・トマト スペシャル・コレクターズ・エディション

1978年の映画。
カルトなバカ映画としてある意味有名。
『鳥』を引用してホラー映画の体裁を採ってるけど、実際はギャグだろう。
トマトが大量に集まって人間を襲うという筋書き。
しかし特撮なんてものは一切なく、トマトが実際に人間を食らうところは画面に映らない。
登場人物がトマトを見て勝手に怯えたり叫んだりしているだけ。
動くトマトは単純に転がってるだけだったり、トマトを動かしている台車が映り込んでいたり、倒れてる人間に投げやりなコマ撮りでトマトを乗せているだけだったりとチープさ満点。
怖さではなく、下らなさすぎて最後まで観るのが苦痛になる。
さすがに続編の『リターン・オブ・ザ・キラートマト』は途中で観るのを断念した。

そういえば映画ではないけど、今から20年ほど前、夏休みに読売テレビのお昼のワイドショー内のコーナーとして放送されていた短編ドラマ「あなたの知らない世界」が怖かった。
実際にあった心霊現象、怪奇現象の再現ドラマって触れ込みの作品で、兄が好んで観ていて一緒に観る羽目になったんだっけ。

ホラーを意図して作られていたわけじゃないだろうけど、その近辺で放送されていた蒸発者の公開捜査コーナーも怖かったな。
解像度の低いモノクロのスナップ写真が、巨大に引き伸ばされて背景になってて……。
ナレーションも無機質で不気味さを引き立てていた覚えがある。
同様の雰囲気があるからか、古い左翼系テロリストの指名手配写真も苦手。
近年の公開捜査番組にはあの怖さがなくて、ちょっと寂しい。

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19 novembre 2008

DVD 『スティング』

スティング

1973年のアカデミー賞作品賞受賞作、『スティング』( The Sting )。
有名な映画だけど、ギャングの抗争と刑事の捕り物的な話だと何故か誤解してて、長い間観てなかった。
いつだったか、観終わったとき、もっと早く観ておくべきだったと後悔したのを覚えている。

物語の舞台は第二次世界大戦前くらいのアメリカの都市。
詐欺で生計を立てている若者が主人公で、ある日彼が詐欺の師匠と共に路上で男を騙して所持金を奪い取るのだが、その金はマフィアの売上金だった。
そのことがマフィアのボスの逆鱗に触れて、主人公の師匠は殺されてしまう。
復讐に燃える主人公は、今は落ちぶれているが伝説の詐欺師と呼ばれている男を尋ねる。
そして彼らはコンビを組み、復讐のためマフィアのボスに一世一代の大イカサマを仕掛ける、というお話。

イカサマがいつバレるのか、ハラハラドキドキの連続で観客を飽きさせることがないうえ、最後に大きなどんでん返しを起こし、観客すらも騙していたことを明かす。
マフィアが絡んでも暗さがなく、観終わった後の後味は爽やか。
派手さはないのに、「映画は娯楽の王様」という言葉が良く似合う、痛快で見事な娯楽映画だ。
メインテーマ曲「ジ・エンターテイナー」の軽快なメロディーがまた映画にマッチしている。
映画がヒットしたおかげでリバイバルヒットした、という話も納得できる。

ユニバーサル映画が製作した作品ということもあって、本作に登場するイカサマ賭博場の建物を再現したセットが USJ にあるのだけど、USJ に行った後で映画を観たので、知ってる場所がロケ地に使われているかのようでちょっと嬉しかった。
横丁といった感じで、何も知らなきゃ素通りしがちな地味なところ。
確かニューヨーク・エリアのあたりにある。

それはさておき。
『スティング』は幅広い人が楽しめる、まさに不朽の名作だ。
「詐欺師がハッピーになるなんて許せない」なんて堅物な人じゃない限り、満足できるはず。

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ビクトル・エリセ DVD-BOX

紀伊国屋書店からビクトル・エリセの『ミツバチのささやき』と『エル・スール』、さらにデビュー作の短編『挑戦』を収めた DVD-BOX が2008年12月に発売されます。

監督本人が監修した HD ニュー・リマスターだそうな。
だったら Blu-ray で出してくれよと思うんだけど……。
それに、中古価格で3万円とかアホみたいな値段がついてて容易に手を出せない『マルメロの陽光』も収録して欲しかった。

しかし従来の東北新社版『ミツバチのささやき』は別物のように画質が劣悪らしいので、画質の向上という点では期待できそうだ。
それに版元が紀伊国屋書店だから、急いで買わなくても在庫切れによるプレミアム化の心配がなさそう。

参考

ビクトル・エリセ『ミツバチのささやき』DVD画質比較 完全版

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18 novembre 2008

DVD 『ピクニック』

ピクニック

19世紀後半に活躍したフランスの画家ルノワールは有名だけど、その息子が映画監督だということはどれだけの人が知ってるだろう。
今年、ルノワール親子の作品を併置した展覧会が東京や京都で開かれていたので、それで初めて知ったという人も多いかもしれない。

『ピクニック』( Une Partie de Campagne )は映画監督のジャン・ルノワールが1936年に監督を務めた映画。
天候に恵まれず撮影できないシーンが残ったままでフィルムが放置されていたのだが、映画プロデューサーが発見し、編集して1946年に完成させたといういわくつきの作品だ。
舞台は19世紀のフランス。
パリに住む一家がピクニックを楽しむため、馬車に乗って川の流れる田舎までやってくる。
一家の娘の婚約者も同行しているのだが、娘はその地で男と出会い、二人は恋に落ちる。だが雨に邪魔されてしまい、娘は帰ってしまう。
数年後、男は再び娘に出会うのだが、娘は既に結婚していて、男は恋が実らなかったことを知る――という40分弱の短編。
中断・再会・完結、という点で奇しくも男女の恋と映画作品そのものが合致していて、因縁めいている。

自然風景の美しさや恋の喜びを満喫する若い女の描写が見もので、物語よりも映像を味わうための作品だと思う。
DVD のパッケージのスチル写真にもあるように、娘がブランコに興じるシーンがあり、父ピエール=オーギュスト・ルノワールの代表的な作品「ぶらんこ」へのオマージュを感じさせる。

映画マニアなら押さえておくべきだろう一品。

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雑誌連載版『 serial experiments lain 』

lain‐安倍吉俊画集 yoshitoshi ABe lain illustrations

アニメ雑誌の「 AX 」にTV アニメの放送に先駆けて1998年の3月から連載が始まり、同年11月に連載が終了した企画。キャラクター原案や『 lain 』各商品のパッケージイラストを手がけたイラストレーター安倍吉俊がイラストを担当し、アニメ版の脚本家小中千昭がテキストを担当。アニメ版の世界観を伝えると共に、PS 版との橋渡し的な意図も込められている。

安倍吉俊のイラストは精密な描写とアニメチックでない重厚な色彩感覚が素晴らしい。私の個人的なお気に入りは、アニメ版本編で描写が簡略化された紅茶のシーン。最終回で孤独になった玲音が、幻想の中で父の幻影(=神?)に紅茶とマドレーヌを振舞われ、その優しさに嬉し涙を流し、現実世界への愛情を見出す。記憶を巡る物語である Marcel Proust の『 A la recherche du temps perdu 』に対するベタベタなオマージュである。

1998年に出版された公式画集『 an omnipresence in wired 』と2005年に出版されたその復刻版『 yoshitoshi ABe lain illustrations 』に収録されている。

安倍吉俊の絵に魅せられたなら、彼自身が原作・キャラクターデザイン・脚本を務めたアニメーション作品『灰羽連盟』(2002年)をオススメする。2007年に廉価版 DVD-BOX が発売されて、入手しやすくなった。生と死の狭間の世界に、人でも天使でもない「灰羽」という存在として生まれ変わった少女たち。そんな彼女たちの出会いと別れを描いた、珠玉の物語だ。

灰羽連盟 TV-BOX

10年経って

この10年でも PC やネットワークの構造、ユーザーインターフェースなんかは根本的な変化がないので、10年前の作品といっても SF 描写に古びた感じが全然しない。目に付くのは CRT モニタやアクセラの設定(ベース・クロックが 100MHz )くらいのものだ。逆に、小中学生が電子メールやネットワークゲームを日常的に利用しているという設定は、1998年当時としては新鮮味があっただろうが、現在では SF ではない日常の風景と化している。CG の活用も、現在の製作環境では物珍しくない。

作風でいうと、アニメの世界では虚実の境界を曖昧に、という点やメタフィクション的演出では今敏の仕事が思い浮かぶ。コンピュータ・ネットワークに宿る幻想をモチーフにしている物語だと、PC ゲームの『最果てのイマ』あたりだろうか(未プレイなので噂話程度にしか知らない)。

PS 版『 lain 』と同様のシステムを持ったゲーム作品は聞かない。サスペンスやホラーといったジャンルには親和性の高いシステムだと思うが、ゲーム性が低い上にマルチエンディングによるボリュームの増大ができないので追随できないのかもしれない。ノベル型作品だが、『ひぐらしのなく頃に』の TIPS システムや「カケラつむぎ」のように、情報の断片化と統合という面で演出の一環として補助的に使用している例はある。

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PS 版『 serial experiments lain 』

serial experiments lain

TV アニメ版『 serial experiments lain 』の首都圏での放送が終了した1998年11月、プレイステーション( PS )用ゲームソフト『 serial experiments lain 』が発売された。ただしゲーム版の企画・シナリオにも参加している小中千昭によれば、PS 版の製作は TV アニメ版よりも先行して着手されており、TV アニメ版が製作されるかどうかは確定的でなかったという。

TV アニメ版とゲーム版で題名は同じ。岩倉玲音という名の少女が登場し、彼女を清水香里が演じているのも同じだが、玲音以外の TV アニメ版の登場人物はほとんど登場しない。一つのシークエンスとして明確に描写される物語も存在しない。

そもそもこの作品がゲームソフトなのか、という疑義も存在する。インタラクティブ・コンテンツと言うべきかもしれないが、ノベル型アドベンチャーゲームがゲームと呼べるなら、この作品もゲームなのだろう。版元のパイオニア LDC は本作のジャンルを「アタッチメント・ソフトウェア」と称しており、同種の名称が冠されたソフトウェア作品に同社の『 Noël 』シリーズがある(但しゲームシステムもテーマもかなり異なる)。

プレイヤーが自分の名前を入力してゲームを始めると、縦の円筒状の空間に、数百個のデータの断片が配置されている。プレイヤーが架空のオペレーション・システムを操って、コンピュータ・ネットワーク上のデータを再生(プレイ)する、という設定だ。データの再生の順序は任意だが、特定のデータが再生済みでないと再生できなかったり、本作を結末まで何度かプレイしないと再生できなかったりする。プレイ状況次第で新たに出現するデータもある。説明書によれば、円柱の下層ほど過去に近く、上層ほど現在に近いデータであるとされている(しかしそれが正しいかどうかは保証の限りではない)。何も操作せずに放置していると再生されるデータというものも20種類ほど存在する(これがまた、トラウマになりそうなほど不気味だ)。

それらのデータの内容とは、主に次のようなものである。

  • 女子小学生(のち中学生)である岩倉玲音の日記(音声のみ)
  • 研究所の新人女性研究員で精神科医である米良柊子の日記(音声のみ)
  • 玲音と柊子のカウンセリングにおける会話(音声のみ)
  • カウンセリング結果レポート(音声のみ)
  • アニメーション動画(TV アニメ版とは内容や画風が異なる)

その他、システムのアップデートプログラム、柊子と玲音の友人の会話(音声のみ)や警察の捜査記録(音声のみ)、記者会見の記録(音声のみ)といったものがある。

プレイヤーがゲーム内でできるのは、セーブやゲームの終了といったメタ操作を除けば、データの断片を再生していくこと、ただそれだけ。自ずと作品の全体像の把握が目標となるだろう。

上記でしつこく「音声のみ」と書いているように、この作品では一般的なアドベンチャーゲームとは違って会話や叙述は文章として表示されることがない。プレイヤーが内容を理解しようと思えば、音声をスキップすることなく耳を傾けざるを得ない。

だが、プレイヤーが内容を理解しようとデータの断片を記憶・整理・再生すればするほど、細部が明瞭になっていくのに反して全体像が曖昧になっていく。当初はプレイヤーはこう思うはずだ――幻覚・幻聴に悩む内気な少女が、何かの研究所でカウンセリング療法を受けている、と。しかし少女はハッキングと精神医学の知識をメキメキと身につけ、逆にカウンセラーの精神はどんどん脆くなっていく。カウンセリング結果レポートは二人の音声が交錯するようになり、カウンセラーが少女の治療を行っているのか、少女がカウンセラーの治療を行っているのか判然としなくなる。二人の日記の記述と会話の内容に矛盾が生じ始め、虚実が入り混じる。二人の日記に登場する人物は果たして実在したのか? アニメ版と同様に、客観的な正しさは存在しない。あらゆる結論はプレイヤーに委ねられている。

特定のデータを再生すると、再生したことのあるアニメ動画が1本に連結されて再生される。そして玲音の最後の行動を記録したアニメ動画が続き、本作は一応の結末を迎える。条件が満たされていれば、画面に玲音の顔が浮かび上がり、プレイヤーの名前を呼んで語りかけてくる。その言葉と、アニメ動画での玲音の行動を重ね合わせれば、こう考えることができるだろう――玲音はプレイヤーの脳内にダウンロードされ、プレイヤーの記憶として存在し続けるのだと。「記憶とは記録に過ぎず、自我とは記録されたデータの集積の一側面に過ぎない」という論理がそこにはある。データとしてフラット化した玲音は、もはや物事の虚実や自我の同一性・単一性に悩まされることがない。

重要なのは、アニメを視聴する場合とは違って、ゲームでは「プレイヤーによる操作」という能動的かつ積極的な行動が求められていることである。だからこそ、プレイヤーはより作品世界に接近し、境界を侵犯し、作品世界に結合する。あたかも、神秘主義の宗教のように。プレイヤーの精神の安定は揺さぶられ、単調な BGM がそれを加速させる。それゆえに「精神を病むゲーム」とも称される。

本作に物語があるのだとすれば、それはプレイヤーが参画し、データの断片からプレイヤー自身の意識の中に作り上げた物語だ。物語の主人公は玲音ではなく、プレイヤー自身である。小説でも映画でも表現できない、コンピュータ・ソフトウェアでのみ実現できる物語だ。

残念なことに、本作は TV アニメ版とは違ってもはや中古市場でしか流通していない。私が何年も前に入手したときは、5800円の新品定価に対し、中古ソフト店で8000円程度の価格がつけられていたと思うが、今や概ね1万円から2万円程度の範囲内で取引されているようだ。版元がゲームソフト事業から撤退しているのと、CERO による倫理審査前に発売された作品で現在の倫理審査をパスできるのか不明瞭なことから、PlayStationStore によるダウンロード販売も望み薄である。

ロシアの『 lain 』ファンサイトに CD-ROM のイメージファイルらしきものがアップロードされているようだが、権利者の許諾を得ているかどうかは極めて怪しい。なお、正規にイメージ化した ROM は PS エミュレータ「 ePSXe 」では動作させることができなかったが、「 XEBRA 」では動作した。本作の動画・音声データはデータ形式が特殊らしく、「 PSxMC 」では未だにリッピングできない。

参考リンク

[game]PS版 serial experiments lain
http://materia.jp/blog/20051107.html#p02
悪夢のダウンロード~「serial experiments lain」がプレイヤーに与えるもの
http://homepage1.nifty.com/sawaduki/game/sawa/lain.html

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そういえば、『 serial experiments lain 』が世に出てから今年は10周年にあたる。

『 serial experiments lain 』とは何かというと、TV アニメ・ゲームソフト・雑誌連載を連動させたメディアミックス企画で、その名の通り「連続」( serial )的で「実験」( experiments )的な作品だ。

その内容を敢えてジャンル分けするなら、近未来 SF とサイコサスペンスとファンタジーの混合物とでも言おうか。

作中に登場する企業ロゴをこのサイトのアイコンに使わせてもらってるほど好きな作品で、DVD (北米版を含む)や音楽 CD 、公式画集やシナリオ本といった関連商品を買いあさったものだ。10周年という節目に語ることは私にとって最低限の義務かもしれない。

『 lain 』のテキストや脚本を手がけた小中千昭によると、企画が動き出したのは1996年の末頃のこと。その前年には阪神淡路大震災と地下鉄サリン事件が起き、TV アニメ『新世紀エヴァンゲリオン』の放送が始まった。1996年は『エヴァンゲリオン』の放送が終了し、マスコミを巻き込んで「エヴァ・ブーム」が起ころうとしていた。閉塞的な雰囲気が漂っていた社会状況で生まれたそれらの事件から、精神世界への関心が高まりを見せていた。その一方で、携帯電話、 PC、Internet 、マルチメディアゲーム機といった情報機器が急速に普及し始めていた。そんな時代だからこそ『 lain 』の企画が生まれ、商業展開に至ったと思われる。

情報技術の発達に伴う社会と個人のボーダーレス化、経済のグローバル化という時代の変化をなぞるように、あるいは変化を予告するかのように、『 lain 』は「境界の破壊と結合」という実験を行った。

TV アニメ『 serial experiments lain 』

serial experiments lain TV-BOX

TV アニメ版の『 serial experiments lain 』は1998年の夏から秋にかけて深夜に放送された(私の住んでいた大阪では放送が翌年にずれ込んでいたと思う)。

1998年というのは、『エヴァンゲリオン』のヒットを受けてアニメブームが起き、 TV アニメ作品のビジネスモデルが大きく変わり始めた年だ。ロボットアニメや魔女っ子アニメのように、おもちゃ会社が作品に関連して制作するおもちゃの売上げによってアニメ作品の製作資金を回収するのではなく、作品を収録したビデオテープや DVD の売上げを中心としてアニメ作品の製作資金を回収する。それと併せて作品のマンガ化やゲーム化、グッズ化を進め利益を得る。マンガ作品やゲーム作品がアニメ制作の出発点であることも多い。そのために放送権料が安い深夜の時間帯にアニメ作品を TV 放送し、一連のコンテンツを宣伝するのだ。深夜放送ゆえの表現規制の緩さもあいまって、性表現、暴力表現、難解な物語性、難解な映像表現などを有したマニア向けの作品が多く作られるようになる。同時に、マンガ作品のアニメ化が安易に展開され、アニメ作品の粗製濫造が進んでいく。TV アニメ版の『 lain 』は、現在に至るまで続くその流れの初期に生まれた作品である。

物語の舞台は、コンピュータ・ネットワークによる情報流通が発達した近未来の東京。しかし現代の東京と比べても大して変わりはない。自動車が空を飛ぶこともないし、人間そっくりのロボットが現れることもない。この作品の世界では、コンピュータ・ネットワークは「インターネット」ではなく「ワイヤード」と呼ばれ、ネットワーク端末は「パソコン」でも「ケータイ」でもなく「 NAVI 」(ナビ)と呼ばれている。

主人公は岩倉玲音(いわくら れいん)という名の私立中学2年生の少女。年齢に反して子供っぽく、内気な性格をしている。人間関係が乏しく、ほとんど友人がいない。そんな彼女と同じ学年で顔見知りの少女、千砂(ちさ)が飛び降り自殺を遂げるところから物語は始まる。死んだはずの千砂から学校の生徒に電子メールが届き始め、ついに玲音の下にも届く。そのメールの内容は、「自分は肉体を捨てただけで生きている。ここには神様がいる」というものだった。関心を抱いた玲音は、父親に新しい NAVI をせがむ。時を同じくして、玲音は日常生活の中で幻聴や幻覚を体験し始める。

玲音の友人たちは、遊びに出かけた渋谷のクラブ「サイベリア」で、玲音に似ているが性格がまるで違う人物を目撃したと玲音に語る。友人たちにサイベリアに呼び出された玲音は、ドラッグを摂取した少年による銃撃事件に遭遇する。少年は玲音の姿を見て怯え出し、「何故自分にこんなことをさせるのか。ワイヤードはリアル・ワールドに干渉してはならない」と玲音に向かって叫ぶ。玲音は突然人格が豹変し、「どこにいたって、人は繋がっているのよ」と言い放つ。その直後、少年は銃で自殺を遂げる。

警察に保護される玲音だったが、家族の反応は奇妙なものであった。父親に与えられた最新型の NAVI を使い、玲音はワイヤードへのアクセスを深めていく。何者かから NAVI の性能を飛躍的に向上させる部品を与えられ、NAVI を改造してワイヤードを縦横無尽に巡る。ワイヤード内での玲音は、内気な少女ではなくサイベリアの玲音のように攻撃的な性格をしている。

一方、世間ではネットワークゲームのプレイ経験がある少年が少女に追われて自殺したり、追いかけてきた少女を殺害したりする事件が起こっていた。玲音の姉、美香(みか)は自動車が往来する渋谷の路上に立ち尽くす玲音の姿や、街頭の TV 画面に玲音の顔が現れるのを目撃する。玲音は雲間から現れた玲音の幻影を崇める子供たちの姿を目撃する。岩倉家の前には謎の黒服の男たちが現れ、玲音の監視を始めている。美香の前に「預言を実行せよ」というメッセージが現れ、時制の異なる二人の美香が邂逅し、美香は自我を失う。数々の事件には、謎のハッカー集団「ナイツ」の関与がほのめかされる。部屋いっぱいに改造と拡張を重ねた NAVI で玲音はワイヤードにアクセスし、事件の真相を追う。

物語の時制は曖昧になり、一人の人間としての玲音の同一性も曖昧になっていく。画面に現れる映像は現実なのか、玲音の精神世界なのか、ワイヤード内の仮想現実なのか。新たに人格の異なる玲音が現れ、友人たちや学校の生徒たちが抱える秘密をワイヤードに暴露したことで玲音は孤立する。玲音の家族はその虚構性を露わにして崩壊する。玲音の前にワイヤードの「神」を名乗る男、英利(えいり)の幻影が現れ、事件の真相や玲音の正体について語るが、その内容が事実かどうかすら定かではない。

ワイヤードと現実世界と玲音の意識が混濁するうち、玲音は現実世界を自分の都合のいいように改変することを決意する。物語の始めから玲音を気遣い続けてきた友人、ありすに対して、「人格の異なる自分が行った罪をなかったことにする」と玲音は伝えた。そして世界は改変される。ありすだけが元の世界の記憶を保っていた。ありすは岩倉家にいる玲音を訪ねるが、玲音と英利の問答に巻き込まれ、放心してしまう。掛け替えのない友人の心を狂わせてしまったことを悔やんだ玲音は、ある決断を実行する。「記憶なんてただの記録。記録なんて書き換えてしまえばいい」と。

この物語では、『トロン』『ニューロマンサー』『マトリックス』といった SF 作品とは違い、「コンピュータ・ネットワークが現実世界を模倣している」のではなく、「現実世界こそがコンピュータ・ネットワークの模倣である」という可能性が示唆される。コンピュータ・ネットワークの情報が現実世界を侵食し、人々の認識と意識がコンピュータ・ネットワークのように結合される。「人間の記憶は記録に過ぎない」というドグマのもと、コンピュータに保存されたデータを書き換えるように、人々の記憶や歴史が書き換えられる。

演出面においても、作品と視聴者の分断を破り、視聴者を作品世界に接続しようという意図が端々に見られる。客観的な正しさが保証されない作品世界を前にして、視聴者は混乱を来たし、真相を求めて作品に接近せざるを得ない。視聴者が虚実の入り混じった作品世界に接することで、視聴者の玲音に対する認識は頻繁に書き換えられ、視聴者それぞれの「玲音」像が生まれる。あたかも作中内で表明される「玲音は遍在する」というドグマのように。最終話において、玲音は画面上にぼんやりと現れ、視聴者に語りかけるかのように、画面の外側へ自分の居場所と正体を問いかけてくる。その姿を見て、視聴者は玲音と自らが接続されていることを否応無く意識させられる。

本作の奇跡として、玲音を演じた清水香里のことも触れておきたい。清水香里は当時子役あがりの中学生で、玲音の存在感にひどく生々しさを感じさせる。その演技は初め棒読みスレスレに思えるが、実際には彼女は玲音の持つ多面性を演じ分けることに成功している。次回予告では物語の内容の説明はされず、清水香里のフェティッシュな実写映像が流され、本編での無機質な世界観と対比を成している。

1998年は TV アニメの製作現場にコンピュータが導入された端緒期にあたり、コンピュータ・ネットワークの世界という本作の題材もあいまって、CG やデジタル処理された映像が随所に用いられている。制作スタッフにコンピュータ・マニアが多くいたことから、コンピュータ・マニアな視聴者を惹きつける、先進的かつ混沌とした独特な感覚の映像表現が多用されている。

本作は第二回文化庁メディア芸術祭アニメーション部門優秀賞を受賞しているが、星雲賞は受賞していない。知名度の低さが災いしたのだろうか。

廉価版 DVD-BOX が現在でも販売されており、入手は容易。海外での人気も根強いようで、YouTube のような動画投稿サイトに本編が丸ごとアップロードされているのを見かける。ただし廉価版 DVD-BOX には次回予告や、「ウェザーブレイク」という画像(本放送時、次の番組が天気予報だったので橋渡し的な意味で放送された)が収録されていない。

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2008年のプロ野球セントラルリーグの優勝者は10月10日にやっと決まった。
優勝特別番組で『安楽椅子探偵』の放送が潰れなくてよかった。
放送局が朝日放送だけに、タイガースが優勝してたら潰れてたかもしれない。

登場人物の誰でも犯行が可能に思われるので、どうやって犯人を絞っていくのか楽しみだったのだけど、解答編で示された解答はツッコミどころ満載だった。
以下、犯人の氏名は名指ししないもののネタバレ注意。

まず、潮野卓也が犯人ではない理由として、「右手に巻いていた包帯が汚れておらず、右手の包帯を一人で巻きなおすことは困難だから」とされている。
しかし右手の包帯を左手で巻くこと自体は、左手で箸を使うことに比べれば易しいレベルだと思う。
おまけに潮野卓也を演じている津田寛治は左利きである。

社長の息子が犯人ではない理由は「2007年なのでトンネルが開通していないから」。
しかし公共の道路として完成していないだけで、貫通さえしていれば、工事関係者一人が通ることは不可能でない。
犯行当日の時間的に厳しそうではあるが、彼の居る事務所から村までどれくらいかかるかはっきり示されていないはず。

本作の時間軸が2008年ではない証拠の一つとして、新聞に載っていた地震が実際に起こっていたことが示されている。
社長の邸宅は免震構造になっていたので、卓也は気づかなかったという。
いくら免震構造でも、船に揺られるようなゆったりとした揺れはあるはずだが……卓也は鈍感だったということにしておこう。
しかし卒塔婆が倒れていることが地震の証拠だと言っても、倒れているのは潮野家の墓のものだけで、奥の方の墓にある卒塔婆は倒れていない。
ロケ地の墓を荒らす訳にはいかなかったのだろうけど、何とか辻褄を合わせて欲しかったところだ。

犯行現場は「忘却の座」ではなく、遺体は外出用の車椅子で「忘却の座」まで運搬された。
これは予想通りだった。
卓也の仕業でも外部の人物の仕業でもなく、医師が死亡推定時刻を偽っていないとすると、話が進まないから。
解剖もせずに法医学者でない町医者が1時間単位で死亡推定時刻を割り出せるというのも無茶だけど。

犯行再現シーンによると、「忘却の座」への一本道で卓也とすれ違ったカメラマンは、卓也が指名手配犯であることに気づき、急いで携帯電話で110番通報を試みた。
携帯電話が不通だったので、一番近い社長の邸宅に電話を借りに来た。
邸宅の庭で犯人に出くわし、110番通報されると困る犯人は突発的にカメラマンを殺害。
窮した犯人は、物置の引き戸の衣装ケースを人形ケースの上に置いてシーツをかぶせ、引き戸の中の椅子にカメラマンの遺体を座らせて隠した。
その結果、座った形に遺体が硬直した。

しかし何日だか前に「招かれざる客が来ている」と指摘して追い返された社長の邸宅にわざわざ電話を借りに行ったらまた追い返される、とカメラマンは考えないだろうか。
それに寄り道せずに社長宅に向かったとすると、庭では運転手が作業をしているので、犯行が目撃されているはずだ。
運転手のいない時刻までカメラマンが現れなかったとすると、急いでいるはずのカメラマンが1時間近く時間を浪費していることになるし、真犯人が殺人から遺体の隠蔽まで可能な時間が極めて短くなってしまい不自然である。
そもそも撲殺に用いたブロックに指の形がついていたから、手についた血を洗い流す時間も犯人には必要だ。
力自慢ではない一般人が成人男性の遺体を汚さずにすばやく運搬するためには、老人介護の要領で体を遺体に密着させないと困難である。
その際に犯人の体や服に血がつく可能性が高いので、体をチェックしたり服を着替えたりする時間も必要だと思う。

安楽椅子探偵の推理では、犯人が物置のソファではなく、引き戸の中の椅子にわざわざ遺体を隠したことから、犯人候補は卓也とマキが物置にストーブを取りに来ることを知っている人物に絞り込まれる。
しかし卓也たちは物置のどこにストーブがあるのか教えられていないので、うっかり引き戸を開けてしまう可能性は低くないはず。
それでもあえて物置に遺体を隠した犯人は無謀だ。
成人男性の遺体を引き戸の中に入れたり、引き戸から取り出したりする力があるなら、ソファーをどかせてストーブを判りやすく手前に出しておき、引き戸に注意を向けないようにするくらいの対策があってしかるべきだと思う。

社長は歩けず2階に行けないので犯人ではないとされているが、邸宅は改築されたばかりである。
携帯電話が普及している時代設定なんだし、改築前から社長が歩けないのならば金持ちなのだから家庭用エレベーターくらい設置するだろう。
足が不自由な状態で撲殺から遺体の隠蔽・運搬まで単独で行うのは無理があるから犯人ではないという理由でいいと思う。

安楽椅子探偵は、カメラマンの携帯電話の電源が切られていたことから、カメラマンの携帯電話の呼び出し音が大音量であることを知っている人物が犯人として、犯人を一人に絞り込む。
しかし携帯電話の呼び出し音が大音量であろうとなかろうと、遺体を隠すなら携帯電話の電源を切るのは自然だ。
犯人を特定する根拠とするには厳しすぎる。

これだけツッコミどころがあれば、そりゃ視聴者による投票もバラけるというもの。
コンピュータ・ネットワークによる集合知に対抗するためには、強引な出題は不可避なのかな。
演劇のようなコミカルな解答編のノリが大好きなので、番組自体は続けて欲しいけど。

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犯人当てドラマ『安楽椅子探偵』シリーズの第7弾、『安楽椅子探偵と忘却の岬』。
眠いのを我慢して出題編を観た。
録画はしていない。
一瞬だけ映るショットに決定的証拠がある……という趣向がシリーズの伝統なだけに、1回観ただけで犯人を特定する磐石の推理が出来るわけがない。
というわけで、解答編を楽しむために、自分が気づいた点、疑問に思った点を記しておく。

カメラマンの遺体は「忘却の座」で発見されているが、殺人現場が「忘却の座」である証拠がない。「忘却の座」で撲殺したなら、すぐに崖下に突き落とせば事故で頭を打って死んだ風に見せかけることができる。犯人が別の場所でカメラマンを殺して、遺体発見時までに「忘却の座」へと遺体を運べば、死亡推定時刻に「忘却の座」へと往復できたかという観点で登場人物のアリバイを検討しても無駄である。

わざわざ忘却の座まで運んだ理由は、遺体を隠すときに椅子に座った形をとらせていて、その形に死後硬直してしまったからと推定。猫車は壊れていたし、成人男性の遺体を一人で背負って運ぶのは無理があるので庭の車椅子で運んだと推定。往路ではカメラマンの靴を脱がせて犯人が履き、復路では犯人が車椅子に乗れば泥道に犯人の足跡が残らない。

  • 海馬地区にやってきた主人公の目的は? → 主人公は指名手配犯?父親殺しの真犯人を察知して、時効までに真犯人を捕まえるために戻ってきた?
  • 主人公が指名手配犯だとすると、住民が警察に通報しない理由は? → 真犯人を暴かれるとまずいので隠匿?
  • 主人公は本当に潮野タクヤなのか? → 指名手配のポスターには名前が映っていなかったはず。双子の兄弟はさすがにアンフェア?
  • TV 好きな社長。しかし TV を隠し使用人には TV の音量を注意。主人公は TV を観る事ができない。 → 主人公に TV を観られると都合が悪い?
  • やたらとカップヌードルやコーラが映る → スポンサー?
  • 海馬地区から出て行こうとする社長夫人。もう少しの辛抱と慰留される。 → 時効成立まで我慢?ただの田舎嫌い?
  • 夜に冷蔵庫を開けようとした主人公を咎める社長夫人。 → 主人公に見られるとまずいものが冷蔵庫に入っている?ただの礼儀?
  • 言いつけを守っているかと医師に確認される社長夫人。言いつけとは? → 主人公の隠匿?治療上の事柄?
  • 主人公の部屋の窓に鍵がかかっているのは何故? → 窓の鍵が差し込み式なのは不自然
  • 「思い出せ」のメッセージの花 → 出題者によれば、メッセージを置いた人物とカメラマン殺害犯は同一人物。メッセージの相手は本当に主人公なのか?相手が主人公ならば、置いたのは主人公の部屋を正確に知っている人物で、主人公に思い出して欲しい事柄がある?
  • カメラマンが探りに来た「招かれざる客」とは? → 主人公だと明示されていない
  • 社長の息子がカメラマンの来訪の有無を電話で確認 → 息子が犯人とミスリード?相手が親ならなぜカメラマンが来ていないと嘘をつく?
  • 6月なのにストーブを出さなければいけないほど寒い → 遺体をストーブで暖めて死亡推定時刻を偽装?
  • 2007年のカレンダーが主人公の部屋に張られているが、北京オリンピック特集番組の音声が聞こえてきた → 2007年のシーンと2008年のシーンが混在した叙述トリック?村ぐるみで主人公に2007年と思い込ませようとしていた?
  • 死亡したカメラマンが残した携帯電話の電源が切られている → 遺体隠匿時に着信すると遺体の場所がばれるから犯人が切った?
  • 携帯電話が不通なのにカメラマンの携帯電話に110番の発信履歴 → 田舎だから電波が不安定とカメラマンは思っていて、携帯電話のアンテナががけ崩れで故障しているのを知らなかった?
  • 前田愛と女使用人の足跡が映らなかった。 → 映ると不都合がある?
  • 轍の数が明示されていない → 明示するとトリックが容易に特定されるから?
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2007年に一世を風靡した TV アニメ作品、『らき☆すた』。
妙なオープニング主題歌と絵柄で敬遠していたけど、ふと勢いがついて一気に全24話を通し観た。

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短編アニメーション作品『ほしのこえ』で一躍「日本アニメーション界の期待の新星」として祭り上げられたアニメーション作家、新海誠。
彼の劇場公開用映画デビュー作である『雲のむこう、約束の場所』では美しい背景映像と失われた青春へのノスタルジアに感心させられた。
その一方で SF 趣味のくどさが目立ち、「新海誠には長編より短編が向いているのではないか」という疑問も抱くことになった。
次回作ではどう打って出てくるのか、楽しみに待ち続けてついに去年公開された劇場公開用映画の第2弾が『秒速5センチメートル』である。

本作は60分程度の中編作品だが、3本の短編が時系列順に連続する構成になっていて、それぞれ主人公の小中学生時代、高校生時代、20歳代後半あたりが描かれる。
ストーリーを簡単に言ってしまえば、小学生時代から一人の少女を恋し求め続けて大人になった暗い男の物語だ。

主人公とヒロインの少女は転校生で内向的な性格である者同士なことから仲良くなり、二人で学校生活を過ごすようになるが、中学校に入学する際に少女は東京から栃木に引っ越してしまう。
離れ離れになった二人は手紙で連絡を取り合うようになるのだが、中学1年生の冬、今度は主人公が東京から種子島に引っ越すことになってしまう。
引っ越す前に彼女に会いたいという思いから、彼は電車に乗り彼女の待つ栃木へ向かうのだが……。
主人公の視点から少年と少女の心の交流が描かれるのがこの第1話の「桜花抄」である。

第2話「コスモナウト」では舞台が種子島に移り、高校生になった主人公に恋した同級生の少女の視点から映画は展開していく。
主人公は彼女に優しく接するが、彼の気持ちは常に海の向こうの少女にあり、同級生に向けられることはない。
それを読み取った彼女は自分の恋が実ることのない恋であることを痛感しつつも、恋心を諦めることができず涙する。
基本的に現代劇であるこの作品で、ささやかながら SF 趣味が現れるエピソードでもあるが、この程度なら微笑ましい。

第3話「秒速5センチメートル」では再び視点が主人公に戻る。
都会の孤独の中で主人公は擦り切れていく。
ここでメインテーマ曲『 One more time, One more chance 』が響き渡り、ヒロインの少女を求め続けて彷徨う主人公の心模様が小刻みなカットのラッシュで描かれる。
まさに圧巻で、第1話、第2話はこのミュージッククリップ部分で叙情を一気に爆発させるための前座に過ぎないと言っていい。

『ほしのこえ』から新海が一貫して描いてきたテーマが「大人になると失われてしまい二度と手にすることのできない純粋さと美しさ」だった。
本作では前作同様に、青春時代の美しい自然風景との対比で強調される「都会暮らしの孤独」が加わる。
映画技法の面では、依然モノローグが多用され、登場人物が自分の心情を饒舌に語る。
叙情は背景音楽の力で一層増幅される。
背景の絵の美しさはより一層高まっている。
新海の追求・発展させてきた方向性が本作において極致に達した、と言っていいと思う。
逆に言うと、これ以上の成長・発展が見えづらいということでもある。
「新海節」と俗に言われるモノローグを守り続けていくのもまた個性なのだけど、折角素晴らしい映像を作る能力があるのだから、言葉ではなく映像の力で語るように洗練されないものか。
新海が詩と映像が不可分であると考えているのなら、サイレント映画のように詩を字幕で現すという方法もある。
あるいは本作のクライマックスで見せたように、歌曲の PV に徹するという方向もあるだろう。

あと、素人目でも気づくのが、背景美術が優れている分、風に揺れる草や打ち寄せる波といったもののアニメーション表現が貧相に見えてしまうこと。
この点は技術的に向上の余地があるはずだ。

新海誠の作品には、かつて文化系クラブ男子であった人が培ってきたであろう美意識と感受性に支えられた青春へのノスタルジーが流れている。
これがオタク男に強い共感をもたらすことになる。
しかし今時の女性から見れば、「キモイ」の一言で全否定されるだけだろう。
ウジウジ悩む男は、女性にもてない。
過去をとことん引きずる主人公に比べて、大人になったヒロインの何と晴れやかで、過去をあっさり流し去ることか。
主人公とヒロインの違いと同様に、観る方もまた、男性と女性では主人公に対する感想が大きく分かれるに違いない。

ところで、これまで新海の作品に共通して使われているモチーフに「鉄道」がある。
本作は恐らく、アニメーション映画史上においてもっとも詳細に鉄道を描いた作品だ。
鉄道車両の外観や内装のみならず、プラットホーム、駅舎、案内設備、保安設備などのディテールの細やかさは感動的である。
この点だけでも本作には唯一無比の価値がある。

私は本作を劇場で2回観て、DVD も初回限定版を予約購入した。
DVD では夜空を飛ぶ鳥のシーンでブロックノイズが見えるし、売り物である高画質がスポイルされてしまうのが不満だ。
しかし先日、4月18日に Blu-ray Disc 版と HD DVD 版が発売されるというニュースが流れた。
諸手を挙げて歓迎したい。

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6 février 2008

『 Dear Friends 』

『 Dear Friends 』は去年の2月頃に観た映画。
新聞屋経由らしきタダ券が手に入ったので観に行った作品。
逆に言うと、手に入らなかったら観に行くことはなかったはずで、我ながらハズレを避ける嗅覚が身についているなと感心する。

以下ネタバレあり。

主人公は、夜のクラブ(踊ったり酒を飲んだりする方)で名を上げているビッチな女子高生。
男を誘惑しておいて「私、そんなに安い女じゃないの」なんて言うような奴だ。
そんな彼女が体調が思わしくないので医師の診察を受けたところ、即入院。
実は彼女は癌に侵されていた。
もともとが不遜な人物なので、癌を患って可哀想とも思えないのだが、人道上、可哀想ということにしておこう。
癌の告知はされず薬物療法で療養を続けるが、薬の副作用で頭髪が抜け始める。
病院を抜け出し、薄くなった頭をごまかしてクラブに顔を出すが、はずみで頭髪がボトリと落ちて禿げ頭を衆目に曝してしまい逃げ帰る始末。
と、そこに偶々、彼女が入院していることを知った一人の女子高生が現れる。
主人公は彼女が何者か思い出せないのだが、彼女は主人公のことを知っているらしい。
宗教の勧誘者みたいな気色の悪い雰囲気を漂わせ、少女は主人公のもとに通うようになる。

手術を受けようとしない主人公が、同室の小学生くらいの少女の死に接して手術を決意するとかいうイベントが間に挟まってたような記憶があるが、ともかくなんとか回復して主人公は退院。
夜の街に復帰すると、冒頭でつれなくお断りした男が、再び甘い言葉で愛を囁く。
「こいつならば信じられる」とでも言うように、しおらしく服の前をはだける主人公だが、手術のために胸に大きく刻まれた傷跡を見て男は態度を一変させ、主人公の前から去っていく。
ざまあみろ、とか言ってはいけません。
いけませんとも。
絶望した主人公は飛び降り自殺を図ろうと、建物の屋上に出てフェンスを乗り越える。
と、そこに例の女子高生が登場。
しかし体の動きがぎこちない上に、歯切れよく喋ることができない。
立つことがすらできず地面に這いながら、彼女は主人公に思いとどまるよう訴える。
別に何の伏線があったわけでもないが、しばらく画面に出てこないなと思ったら、いつの間にか彼女は ALS のような病気を患って療養していたらしい。
彼女の必死の叫びに打たれて、主人公は自殺を断念。
改心して看護師になり、自力で動くことも自発呼吸もできない彼女を看護するようになる。
そして彼女の死を看取り映画は終了。
ちなみに死んだ彼女が何故主人公に必死に向き合ってくれたかというと、幼い頃主人公のお誕生会に出席していて、自分だけ貧乏なためにプレゼント交換の際自分のプレゼントによって場が白けたにも関わらず、主人公が助け舟を出してくれたから。
はあ、そうですか。

この映画、登場人物の誰一人として感情移入できず、ストーリーを追っていても薄っぺらい印象しか受けない。
「はあ、若い女の子が病気で可哀想ですね、死んじゃって可哀想ですね、感動させたいんですね、それはどうもお疲れ様です」と斜に構えてしまうのである。
で、エンドロールに原作者が表示されたときに納得した。
ケータイ小説が原作だった。

偏見というものは、こうして裏打ちされていくのである。

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去年の2月頃に観たロードムービーにしてコメディな映画。

プルーストの研究者で同性愛者(この設定で早くも笑ってしまう)のオッサンが恋人(もちろん男)と研究成果を同業者に奪われて自殺を図り、妹一家のもとに引き取られるところから物語は始まる。
この妹一家と言うのが曲者ぞろいだった。

妹の夫は勝者になるための自己啓発法を出版して一財産築こうと野心を燃やしているが、どう見ても負け組です本当にありがとうざいました、な人物。
何かと一言多く、通俗心理学をひけらかして場を白けさせるオヤジである。
息子はニーチェにかぶれ、空軍のパイロットになるまで沈黙するという誓いを立てているので、会話は筆談で行う。
自分の家族にはうんざりしているが、妹のことは愛している。
その妹はティーンエイジにも満たない感じの小太りのメガネっ子。
可愛いことは可愛いのだが、赤ちゃん体型で美少女コンテストに出場しようというのは無理がある。
その祖父はドラッグに溺れ色欲魔なため、老人ホームを追い出された不良ジジイ。
下品な発言ばかりするが、孫のメガネっ子とは意気投合している。
妹が一番まともに見えるが、こんな一家で頭がおかしくならないのはやはり変わり者かもしれない。

序盤の食事シーンで見事にキャラクターを観客の心に刻んだところで、物語は次のステップへ向かう。
美少女コンテスト「リトル・ミス・サンシャイン」の本選に出場するはずだった子が出場できなくなったため、次点であるメガネっ子が繰り上がりで出場できることになったと知らせが入る。
会場は隣の州。
今から車を飛ばせばギリギリコンテストの開始時刻に間に合う。
ということで取る物も取り敢えず、一家はオンボロのフォルクスワーゲンのマイクロバスに乗って会場へ向かう旅に出発するのである。

しかしこんな濃いメンバーでの旅が順調に進むはずもない。
そしてコンテスト会場で披露するダンスは不良ジジイが指導したというのが、何となくオチを予感させる。
お約束どおり紆余曲折があり、お約束どおり予感は的中する。
だが、そこで再生した家族の絆を見せられ、エンドロールが流れ始めたときには何となく爽快で希望のある気分にさせられる。

ロードムービーとコメディ、両方のお手本のような作品。
アカデミー賞脚本賞を受賞したのも納得である。

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ドイツ映画というと古典的作品くらいしか観たことがなかったのだけど、現代ドイツ映画で初めて観たのがこれ、『善き人のためのソナタ』。
去年の2月くらいに映画館にて鑑賞。

現代ドイツと言っても、映画の舞台は少し時代が下って、1980年代の東ドイツだ。
東ドイツの秘密警察である「シュタージ」の役人が主人公で、監視国家での市民生活の実態とシュタージの活動が描かれている。

主人公の無表情の堅物で、妻子も無く、シュタージの仕事と国家に忠誠を捧げているロボットのような人物。
盗聴などの国民生活の監視業務の指導教官も勤め、管理職への出世を好まず、現場での実務に力を注いでいる。
ある日、彼は舞台脚本家に反体制の疑いを持ち、脚本家とその同棲相手の舞台女優の監視を開始する。
脚本家が家を留守にしている間にチームで家に立ち入り、家中に盗聴器を仕込み、盗聴を行う。
しかし盗聴を続けているうちに、彼の心の中で何か変化が生じていく。

東ドイツ消滅後、シュタージの監視活動の記録を監視対象であった本人が閲覧できるようになった。
自分の記録を閲覧した脚本家は、自分が盗聴されていたこと、密告者が居たこと、そしてそれにもかかわらず、自分を見逃した人物の存在を知るのである。

映画なりの脚色はあるだろうけど、あまり見聞きすることがなかった東ドイツのおぞましさを垣間見れてとても興味深かった。
同時に、「自分の信頼していた人物が実は密告者だった」と記録によって判明することが、東ドイツ出身のドイツ人にとって大きな心の傷になっているという現実も見えてくる。
ナチスのトラウマに加えて東ドイツのトラウマまで抱えさせられて、ドイツ人は気の毒だなと思わされてた作品だった。

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もう半年経って DVD が既に発売されていますが、前編に続いて映画館で鑑賞。

名前を書くと書かれた人物が死ぬという死神のノート「デスノート」を手に入れた大学生、夜神月が、法で裁かれない犯罪者たちを正義の代行者「キラ」として次々と殺していく。
謎の探偵、「 L 」の推理により「キラ」の容疑者として特定された月だったが、自らの正義を貫くために犯罪者でない者も殺めて「キラ」の被害者側になりすまし、ついに「 L 」と警察の合同捜査本部に接触することに成功する……というのが前編のあらすじ。

後編では、「 L 」の疑いを晴らして「 L 」を暗殺しようとする月と「 L 」の攻防が描かれる。
もう一人の死神ともう一つの「デスノート」の登場という予想外の事態にも、これを生かして「 L 」を撹乱し追い詰める月。
見事勝利を収めるかと思いきや、「 L 」の仕掛けた罠が待ち受けているのだった。

まあ殺人者が最後に勝っては、娯楽作品としてはいろいろ世間の風当たりも強いでしょうから月が負けるのは想定の範囲内。
困難な状況を主人公が突破していく緊張感と爽快感があり、最後にどんでん返しも用意されているということで十分に楽しいストーリー展開だ。
原作マンガは未読だけど、「マンガを映画化した場合、映画は原作マンガの面白さを越えられない」という経験的法則を当てはめるならば、「映画でこれなら原作はどれだけ面白いのだろうか?」と期待を抱かせる出来であったのは確かです。

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北朝鮮の映画は観たことがあるのに韓国の映画は観たことがない、という私が初めて観た韓国映画が『トンマッコルへようこそ』。
朝鮮戦争中の朝鮮を舞台にしたファンタジー映画です。
以下ネタバレあり。

ある日、朝鮮半島の山中に連合軍(韓国・アメリカ)のアメリカ人将校が操縦する一機の飛行機が墜落する。
また別の山中で、連合軍の韓国人脱走兵が自殺を図っている別部隊の脱走兵に出会う。
歩き出した脱走兵の二人は薬草採集に来た民間人と出会い、彼の住む村「トンマッコル」を目指して山を越えていく。
たどり着いたトンマッコルは奥深い山の中にあるため文明の発展から取り残され、近代以前の暮らしが営まれている桃源郷だった。
村人は鉄砲すら見たことがなく、兵士を見ても怯えずに悠々としている。
当然のように朝鮮戦争のことなど知らない。
そのトンマッコルで、墜落した飛行機のアメリカ人将校が骨折の手当てを受けていた。
救援が来たと思い喜ぶ将校だが、来たのは脱走兵でしかも英語が通じないため落胆してしまう。

一方、人民軍(北朝鮮)の一部隊がピョンヤンへ撤退を図り行軍していた。
部隊を率いる人民軍将校が部下の命を守るため、敢えて命令に背いたのだ。
しかし敵襲を受け部隊は壊滅状態になり、わずかに残った部下を連れて彼は行軍を続ける。
断崖絶壁を伝い転落者を出しつつも、森の中を二人の部下を連れて彼は進む。
山中で休んでいると、知的障害を持つ若い女が現れる。
彼女もトンマッコルの村人だった。
彼女の案内で、彼らはトンマッコルへたどり着く。
人民軍兵士と連合軍兵士が鉢合わせ、驚愕した彼らはよそに銃を構えて対峙することになる。
至近距離で発砲も出来ず固まっている兵士たちを訝りつつ、村人たちは暢気に日常生活を続行する。
しかし弾みで転がっていった手榴弾が村の食料庫を吹き飛ばしてしまったため、罰として彼らは休戦して農作業を手伝うことになる。
互いに罵りあっていた彼らだったが、畑を襲った巨大イノシシを協力し合って退治したのをきっかけに打ち解けあう。

村を離れてお互いの国に戻ったところで、脱走兵にも命令違反者にも居場所はない。
村人は温かく彼らに接してくれる。
村人との恋も芽生える。
このままトンマッコルで暮らそうか、と彼らは考える。
しかし彼らは知らなかった。
連合軍は行方不明になったアメリカ人将校が山中で人民軍のゲリラに捕縛されていると勘違いしていたのだ。
トンマッコルのある地域に救援部隊を派遣し、アメリカ人将校救出後に空爆を行う作戦が実行される。
果たしてトンマッコルとトンマッコルに集った南北の兵士たちの運命はどうなるのか……。

作品の前半は、必死に戦争を続けようとする兵士と恐れを知らない村人とのギャップが際立ち、映画はコミカルに描かれる。
中盤になると両軍兵士が心を通わせあい、人情もの、ヒューマンドラマになる。
しかし後半に入り連合軍の救出部隊が現れると映画は一転、リアルな戦争映画になり凄惨な描写が目立つ。
救出部隊を撃退し、何とかしてトンマッコルへの空爆を逸らせようと両軍兵士は奮闘するのだが、画面は銃撃と爆発が乱れ飛び、悲劇的な結末が彼らを迎えることになる。

笑いあり、涙あり、恋あり、歌あり、子供あり、ドンパチあり、とエンターテイメント要素を全部ぶち込んでいるのになぜ結末が「めでたしめでたし」とならないのか、と考えると、やはり韓国人が持つ南北分断、朝鮮戦争への感情が深い影を落としているのだろう。
同じ民族が南北に分かれ殺し合い、戦争以外のドサクサを含めて何百万人も死んだと言われる歴史がある。
完全に架空の存在であるトンマッコルの村人はさておいて、現実の国を背負った兵士たち彼らだけを幸福な生活に住まわせて終われないという屈折があるのではないか。
また、たった一人のアメリカ人を救うために、南北の垣根のない理想郷が米軍側の判断で破滅の危機に陥るし、トンマッコルの両軍兵士たちはアメリカ人将校を逃がして朝鮮人だけで連合軍の襲撃に立ち向かう。
その危機的状況において彼らは初めて統一朝鮮の出現を確認し合い、真の和解が描かれるのだが、束の間の統一は米軍の飛行機が落とす爆弾で哀れにも消えてしまう。
ここには根深い反米感情が見えてならない。
そういった感情を破って一歩踏み込み、理性的解決を示せないものかなとも思うけど、まだまだ韓国人には限界があるのかもしれない。

雪山の中を花火のように落ちてくる爆弾の中、笑顔で立ち尽くす南北兵士の様子はいかにも感動させにかかっているという感があるけれど、ファンタジックで美しく、つい心を許してしまう。
さらにラストシーンでは時間が遡り、夢想的な幸福な情景の中で作中の伏線が解き明かされて駄目押しの一撃が加わる。
お見事。

難を挙げるとすれば、政治的メッセージの強さに好き嫌いが分かれること、政治性に捕われて限界を破れていないこと、空を飛ぶ飛行機がすぐにCGと判ってしまうほど安っぽいこと、イノシシに襲われるシーンがスローモーションで描かれていて、『スウィングガールズ』の一シーンのパクリと言わざるをえないこと、といったところ。
そうは言っても総じて満足度は高く、観てよかったと思わされる一作だったと思います。

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『ただ、君を愛してる』は市川拓司が執筆した小説『恋愛寫眞 もうひとつの物語』を映画化したものらしい。
そしてその小説は数年前に公開された映画『恋愛寫眞』のコラボレーション企画として書かれたものなのだそうだ。
『恋愛寫眞』も『恋愛寫眞 もうひとつの物語』も知らないが、市川拓司といえば映画『いま、会いに行きます』の原作者ってことで知っている。
ということで『いま、会いに行きます』、それから恋愛映画ということで『虹の女神』と対比しつつ観ることになったのでありました。
以下ネタばれあり。

主人公の青年、マコトは腹部にかゆみを生じる病気持ちで、かゆみ止めの膏薬の匂いで他人に臭いと思われているのではないか、と強迫的な思い込みがある。
そのせいで大学入学式の日も式には出席せず、一人で大学前の道を歩いていたが、そこで同じく入学式に出席しなかった少女、シズルと出会う。
シズルは大学生の割に子供っぽい容姿で、良く言えば奔放、悪く言えば痛い少女だったが、人付き合いを避けているマコトでも何故か無理なく接することができた。
マコトの趣味は写真撮影で、大学近くの立ち入り禁止の森に忍び込んでは撮影していた。
シズルも写真撮影に興味を持ち、マコトに教わりながら森で写真を撮るようになる。
シズルがマコトに対し恋心を抱いているのは明白だが、マコトは同級生のミユキのことが好きで、シズルのことは女性として意識していない。
同級生たちからの誘いで友達づきあいを始めたマコトは次第にシズルと疎遠になる。
だがある日、家出をして大学で寝泊りしようとするシズルに偶然出くわす。
相変わらずシズルを女性として意識していないマコトは、一人暮らしをしている自分の家に住まわせることにする。
久しぶりに訪れた森で、シズルは自分とキスをしているところの写真を撮って欲しい、とマコトに頼む。
そして撮影を終えた次の日、シズルは書置きを残して姿を消す。
数年後、マコトのもとにニューヨークから手紙が届く。
差出人はシズルだった。
シズルに会いにマコトはニューヨークに向かうが、そこで思わぬ真相を知ることになる。
というのが本編のあらすじ。

「ヒロインが姿を消す」→「頼りない主人公が残される」→「ヒロインが隠していた秘密を主人公が知る」という展開は『いま、会いにいきます』と同じパターンだ。
『虹の女神』とも展開が類似している。
導入部はニューヨークに着いたマコト、つまり現在時間を描き、続いてマコトとシズルの出会いに遡って彼らの学生生活を描き、再び現在時間に戻る。
そして愚かな主人公は、自分に向けられた恋心を思い知らされるが、それに応えるには全てが遅すぎてただ涙
を流すことしかできないのだ。
しかし『虹の女神』と『ただ、君を愛してる』の大きな違いは、現実感だ。
『虹の女神』の主人公は大学卒業後すぐに就職できず、やっと就職したらしたで現場スタッフに怒られてばかり。
『ただ、君を愛してる』の主人公は大学卒業後数年にしてカメラマンとして独り立ちしているし、学生時代の友人たちも何の伏線もなく政府機関や国際機関に就職が決まっている。
一体お前ら何者なんだとツッコミを入れてしまう。
そもそも「悪役」や「悪意」自体が存在せず、砂糖菓子のように大甘な世界なのだ。
シズルが失踪した理由もご都合主義の感が否めない。
ラストシーンも洒落っ気はあるが呑気すぎる。
そんな世界に辛うじてついていけるのは、シズルを演じる宮崎あおいの演技力に尽きる。
メガネ姿の宮崎あおいも可愛いが、キスシーンでメガネを外した宮崎あおいも不本意ながら可愛い。
メガネという小道具はあるが、子供っぽさが残った少女から大人の女性への変化を如実に感じさせる。
宮崎あおいがヒロインでなかったら、駄作と言われても仕方ない。
コンタクトレンズの「アイシティ」の宣伝ポスターで初めて見たときは素人さんか売れないモデルかと思ったくらい微妙な線だったけど、この人は静止した写真よりも動いている映像の方が可愛さがよく出るんだろう。
(2年ほど経った今でも「アイシティ」のポスターに起用されているが、相変わらずイマイチだと思う。)

一方、マコト役の玉木宏はというと、悪くはないのだけど19歳の大学生を演じるにはちょっと年取り過ぎだし、「コンプレックス持ちの頼りない青年」を演じるにはちょっとイケメン俳優のイメージが強い気がする。
やはり市原隼人くらいの感じがちょうどいい。

映画館では、映画がクライマックスに差し掛かったあたりで周囲からすすり泣きの音が聞こえた。
私にはそこまで感情移入できなかったし、心に迫ってくるものを感じなかった。
この映画は感動作というよりも、宮崎あおいの可愛さを堪能するための映画といった方が適切だと思う。

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『虹の女神 Rainbow Song』は岩井俊二主宰のプロジェクト「 playworks 」の第一弾映画。
青春恋愛ものです。

小さな映像製作会社の下っ端社員として働く青年、智也が主人公。
要領が悪く上司に怒られてばかりの彼はある日、会社を辞めてアメリカに飛び立った同僚の女性、あおいがアメリカ行きの飛行機の事故に遭い死んだことを知る。
上司とともにあおいの実家に弔問に訪れた智也は、一家を空港まで送り届ける。
映画は二人の出会いまで時間を遡り、彼らの過ごした日々を描いていく。

出会いのきっかけは大学時代、智也があおいのバイト先の同僚の女性にストーキングを働いていたことだった。
大学の映画サークルで自主制作映画を作っているあおいは、フィルム代欲しさに智也から1万円を受け取り、同僚との食事の場をセッティングすることを約束してしまう。
結局これは失敗に終わるが、このことをきっかけに智也は映画サークルに引き入れられ、あおいが監督する映画『 THE END OF WORLD 』の主演男優として出演することになる。
今度は主演女優に対し色気を出す智也だったが、主演女優が智也とのキスシーンを嫌がりまたも失恋に終わる。
結局あおいが主演を兼任して撮影をやり直し、映画は無事クランクアップした。
大学卒業後、あおいは映像製作会社に就職する。
上司が酒の席で発した激励を真に受けた彼女は、映像製作をより学ぶためアメリカ行きを決意。
欠員の穴埋めのため、卒業後定職に就いていなかった智也を会社に引き入れた。
智也は撮影の一環で参加した見合いパーティーで知り合った女性と同棲生活を始めるが、彼女が智也を騙していたことが判り破局を迎える。
その後智也はあおいが会社を辞めるつもりであることを知る。
智也はあおいを引き止めなかった。
そしてあおいは事故で死んだ。
弔問のためにかつての映画サークルの仲間たちがあおいの実家に集う。
彼らの前で『 THE END OF WORLD 』が上映される。
そしてあおいの部屋に足を踏み入れた智也は、彼女が自分に恋心を抱き続けていたことに初めて気づくのである。

智也の何と愚かなこと。
そのどうしようもないダメ男っぷりを市原隼人が好演している。
一方、あおいを演じるのは上野樹里。
今が旬とばかりにあちこち出演しまくりではあるけど、本作の「表向きは恋愛感情を出さずに映画制作に打ち込むクールなお姉ちゃん」という役柄にはちょっと違和感がある。
『スウィングガールズ』や『のだめカンタービレ』みたいにコミカルなヒロインの方が生きるような気がする。
白眉はあおいの妹で盲目の少女を演じる蒼井優。
一種の神々しさすら感じます。
この人は妹キャラ、ロリキャラがハマリ過ぎ。
「萩原聖人=頼りない兄ちゃんキャラ」みたいに固定化してしまうかもしれない。

映画の進行テンポはゆったりしていて、間延び感のある一方で大学生活の幸福なモラトリアム感がよく出ていた。
大学時代に自主制作映画を作っていた人には共感できる部分が大きいのではないかと思う。
ただ、クライマックスで『 THE END OF WORLD 』を全編上映するのは長すぎる。
いかにも学生制作のしょぼいシナリオと映像を再現しているのでちょっと苦痛を覚えた。
智也とあおいの二人が映画の中でしか恋人同士になれなかったこと。
『 THE END OF WORLD 』の結末があおいの運命と奇妙に一致していたこと。
その切なさを訴える意図は判るだけに惜しい。

全編通じて一番の問題は、智也のダメっぷりを間近で知っているのにそれでもあおいが智也に魅かれたというその理由を私が理解できないことだ。
女心は不思議、ということで済ましておけばいいのかなあ。

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blogや掲示板でとかく燃え上がりやすい話題がある。
タバコだ。
そこではルサンチマンと憎しみが何の屈託もなく、惜しみなく晒けだされる。
タバコは絶対的悪であり、タバコを攻撃することは絶対的正義の顕現である。
タバコを擁護することは許されない。
あたかもファシズム体制や社会主義一党独裁体制の政党集会のような奇妙な空間が現れるのである。
とかく複雑な利害がぶつかり合い様々な価値観が乱立する現代社会にあって、安全に自分の感情を露出できる数少ない機会だからだろうか。
タバコは喫煙者のみならず周囲の人間の健康も害する、医療費の無駄遣いを招く、依存性がある、臭い、匂いが染み付く、ヤニで物が汚れる、火が危ない、吸殻が汚い……なるほど。
しかし、そんなに害のある代物をなぜ堂々と流通させているのだろう。
食品に有害物質が含まれていたら即座に流通を止められるし、煤煙や排水中は浄化した上で排出するよう規制がかけられるのに。
なぜタバコの非合法化を訴えないのだろう。
大麻や覚醒剤のように製造・販売・所持を禁止すればいいじゃないか。
密輸が横行しようが、密売でヤクザが太ろうが、税収が減ろうが、タバコ農家やタバコ販売店が生活に困ろうが、国民が健康になればいいじゃないか。
なんとも不思議なことだ。

そんな議論はさておいて。
『サンキュー・スモーキング』はタバコをテーマにしたコメディ映画である。
当然最近の潮流に逆らわず、タバコを擁護することはない。
オープニングは「タバコを吸う奴は死んでしまえ」という歌詞をバックに、主要スタッフの名前がタバコのパッケージをあしらってクレジットされる。
なかなかお洒落。

物語の主人公はタバコ会社の肝いりで「タバコに害はない」ということを研究するタバコ研究アカデミーの広報部長、ネイラー。
巧みな弁舌でタバコ業界へのバッシングを反らせるのが彼の仕事である。
TV番組に出演してタバコ業界の努力をアピールしたり、反タバコ法成立を目指す上院議員をTV討論でやり込めたり、タバコ会社への訴訟を考えている原告のもとへ訴訟取り下げの工作活動をしたりする。
一方で、ハリウッド映画に喫煙シーンを登場させてタバコの売り上げを伸ばそうともする。
世間の風当たりの強さや上司からの圧力にも負けず仕事に励むネイラー。
ただ住宅ローン返済のためと割り切って彼は働く。
彼を憎む敵は多いが、別れた妻との一人息子だけはネイラーの仕事振りを見て彼に尊敬の念を抱くようになる。
しかし、ネイラーを取材に来た女性新聞記者と私的な関係を結んだことをきっかけに、彼の運命が狂って行く……というお話。

タバコ業界やタバコ会社への皮肉に満ちているが、反タバコ側に対する皮肉も見え隠れする。
ネイラーの辿る運命もまた皮肉で、苦笑を禁じえない。
女性新聞記者の罠にはまり「何でこんなことをしたんだ?」と問い詰めるネイラーに、彼女が「あなたと同じ。ローンのためよ」とサラリと言ってのけるシーンは屈指の名場面だろう。
単なる反タバコに留まらないバランス感覚、ユーモア、批判的精神を備えた秀作だ。
父と息子の心の交流を絡めた展開も絶妙。
ちなみにタバコをテーマにしながら、喫煙シーンは一切登場しないというおまけもついている。

ところで、タバコ政策の現実的な落としどころとしては、喫煙免許制の導入、紙巻タバコの製造・輸入・販売・紙巻作業代行の禁止を行うのがよいと思う。
免許制により喫煙者の行動をコントロールしやすくなるうえ、官僚の天下り先も確保できる。
紙巻でない喫煙法は手間がかかるので喫煙人口は自ずと減るし歩行喫煙もしづらい。
タバコそのものの禁止ではないので税収がゼロにはならないし闇流通の旨みも少ない。

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『ブラック・ダリア』は1947年にアメリカで起きた未解決の殺人事件をモチーフに作られたサスペンス映画。
10月22日にアポロシネマ8で観た。

1940年代末のロサンゼルスに、元ボクサーの二人の警察官がいた。
彼らは市の慈善試合イベントで対戦しイベントを成功させる。
その功績からロサンゼルス市警の第一線に異動し、「ミスター・ファイア」と「ミスター・アイス」のあだ名で呼ばれるコンビとして犯罪捜査に当たっていた。
どっちがどっちだったか忘れたが、片方が主人公で、もう片方が恋人持ち。
恋人を間に挟んで、微妙な三角関係のなか二人は友情を深めていく。
そんなある日、彼らが容疑者を追跡中、全裸の女性死体が遺棄されている現場に居合わせることになる。
その死体は腰の位置で二つに切断され、口は耳まで切り裂かれていた。
死体の身元は女優志願の若い女性で、その異常な死体の状況とともに事件はマスコミの格好のネタとなった。
彼女は「ブラック・ダリア」とあだ名されセンセーションを巻き起こす。
刑事の片割れは今抱えている事件を放り出して「ブラック・ダリア事件」の捜査に没頭する。
もう片方は相方を強く諌めるが、やむなく捜査に協力することになる。
そして捜査中に彼は富豪の娘と出会い、相方の恋人への感情を断ち切るように彼女と情事を重ねる。
「ブラック・ダリア」事件をきっかけに狂いだす彼らの運命と事件の真相はいかに……というお話。

私の頭が悪いだけかもしれないけど、登場人物の名前が覚えられなくて結構混乱させられた。
上に挙げた人物は区別がつくにしても、彼らに関係している人物の名前を台詞に出されても誰が誰なのかよく判らない。
疑問を抱えたまま映画はクライマックスを迎え、犯人が明らかにされるのだが、特にインパクトがあるということもなく流れのままに結末にたどり着いたような気分だ。
悪い映画とは思わなかったけど少々収まりの悪い気持ちが残った。

ちなみに実際の「ブラック・ダリア事件」については「殺人博物館」の「ブラック・ダリア事件」を参照のこと(死体写真があるので注意)。

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日本各地で行われている『チェコアニメ映画祭2006』。
10月8日、全4プログラムのうち日程の都合で一つだけだけど観てきた。

チェコは日本みたいなマンガ的作品ではないもののアニメ作りが盛んで、児童向けの絵本的なお話とか、児童文学のアニメ化のみならず大人向けのアートでハードな短編も作られている。
プログラムもそういった諸作品織り交ぜて構成されていた。

『カバのティリーネック』

絵本的な鮮やかな色彩と、紙のような動きのキャラクターが特徴的な一作。
自分の容貌の醜さを気にするカバの少年が、魔法の花に頼んで様々な生き物に変身させてもらう。
しかし散々な目に遭って自分がカバであることの良さを痛感し満足を得るという教訓話。

『くじらのらじく』

パペット・アニメ。
学校のテストのことを教わろうと、4人の少年たちが不思議な森の中に入り込んで物知りのクジラに会いに行く。
ようやく会えたクジラは確かに物知りだったが、知識が偏っていて少年たちには何の役にも立たないというお話。

『おじいさんは40人』

おばあさんと二人暮しのおじいさんがある時魔法の壷を発見する。
物を入れるといくつも同じものを取り出せるという壷だ。
その壷におじいさんが落ちてしまったため、おじいさんが40人に増えてしまった。
しかもそのおじいさんが皆同じ行動をとってしまうので、生活のあらゆる面で困難を来たすという騒動を描いた台詞なしの作品。

『反復』

クロッキー風の絵で描かれた作品。
犬を連れて歩く男、自殺しようとしては失敗する男、妻に食事を与えられる男などが繰り返し描かれる。
だがある時犬が逃げてしまい、繰り返される内容の組み合わせがずれてしまう。
それでもずれたまま、生活は繰り返される、という内容の台詞のない一編。

『カフェ』

モノクロの実写で映し出されるカフェの人々。
若い男女やおばさんグループが談笑している。
何事もなさそうな彼らが実際に考えているスケベ心や人物評価などがアニメーションの絵による比喩で毒気豊かに描かれるコミカルな作品。

『共存』

結婚した男女。
幸せなはずの結婚生活だが、レース編みに没頭する妻に夫はうんざりしてしまう。
夫は息詰まる生活から逃げ出そうとするが、妻の編むレースが次々と彼の行く手を阻み囲い込んでしまう。
レースをアニメーションに使うという珍しさと、結婚生活を皮肉った展開にニヤリとさせられる一作。

『ある粉屋の話』

戦争に出かけた息子が、10年ぶりだか20年ぶりだかに帰ってくる。
兵士姿ですっかり見た目が変わった彼だが妹はすぐに兄だと気づく。
いたずら心で両親には正体を隠して家に一泊させるが、正体に気づかない両親は所持金に目がくらんで息子を殺し川に捨ててしまう。
娘から真相を告げられた両親は悲嘆にくれて死ぬ。
実写の怪人が登場して話を読み上げるという構成の教訓話なんだけど、不気味で暗い色調やクローズ・アップが子供たちのトラウマになること必至だ。

『郵便屋さんの話』

郵便局で居眠りをしてそのまま夜を迎えた郵便配達の男が目を覚ますと、郵便局に住む妖精たちが仕事をしていた。
封を開けずに中身を知ることが出来る妖精たちが、あて先も差出人の住所も判らない恋文を見つける。
男はその手紙を届けるため各地を歩き回り、ついに手紙を届けるというお話。
妖精が出てきたところでカレル・チャペックの童話集『長い長いお医者さんの話』にある一編ってことに気づいた。
キャラクターもヨセフ・チャペックによる挿絵のデザインをそのまま使っている。

こんな感じで、なかなかお目にかかれないものを観ることが出来て興味深かった。
他の3プログラムではどんな作品が上映されたのか、気になるところ。

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8 octobre 2006

『ゆれる』を観た


観たのは8月のことですが。

東京で写真家として成功し奔放に暮らしている主人公のタケルは母の一周忌で山梨へ帰郷する。
その道すがら、給油のために実家のガソリン屋に立ち寄ると、幼馴染のチエコが働いていた。
タケルは父親と折り合いが悪く、親族同士の会食の際も口論になってしまうが、温和で気配り屋の兄、ミノルの取り成しでその場を収められる。
ミノルはタケルと違いガソリン屋を継ぎ、父と二人暮しをしていた。
その日東京へ帰る途中、忘れ物を取りに再び実家のガソリン屋に立ち寄ったタケルは、チエコを彼女のアパートまで送り届け、彼女と肉体関係を持ってしまう。
夜が更けたためミノルは東京へ帰らずに実家へ戻るが、そこではミノルが一人で洗濯物を畳んでいた。
翌日、タケル、ミノル、チエコの三人は連れ立って渓谷へ向かった。
幼い頃両親に連れて来てもらったという場所に来て、ミノルは一人はしゃぐ。
二人きりになりチエコはタケルと一緒に東京へ出たいと言うが、タケルはそれをはぐらかし、吊橋を渡って一人で写真を撮りに行ってしまう。
しばらくしてチエコはタケルを追いかけ吊橋を渡ろうとする。
ミノルもチエコを追いかけ吊橋を渡ろうとする。
揺れる吊橋が怖いミノルはチエコにしがみつくが、チエコに「触らないで!」と強く拒絶されてしまう。
吊橋の上で揉めている二人の様子を、タケルは地上から見ていた。
カメラはクローズ・アップでタケルの顔を映し続ける。
次にカメラが吊橋を映し出したとき、そこにチエコの姿はなく、ミノルだけが水面を見つめ呆然としていた。
すぐにタケルは兄のもとへ駆けつけ警察を呼ぶ。
警察の取調べに対しタケルは、なぜか「自分はチエコが落ちた瞬間を見ていない」と証言する。
チエコは水死体で発見され、一旦は転落事故として処理される。
しかしミノルが給油中の客に暴行を働き警察の取調べを受け、そこで「チエコを突き落とした」と自白してしまう。
逮捕されたミノルを助け出すため、タケルは弁護士をしている叔父を大金を払って雇う。そして接見と裁判の過程で、タケルとミノルの秘めていた確執が徐々に明らかになっていく。

ミノルは本当にチエコを突き落としたのか?
タケルはミノルが無罪であることを知っていて弁護活動をしているのか?
その疑問が物語の軸となり、真相を巡って文字通り「ゆれる」兄弟の心模様が描かれる。
ミステリーのような緊張感で観客の心を繋ぎとめつつ、人物の心理を浮きだたせる展開が上手い。
そして何より、タケルを演じるオダギリジョー、ミノルを演じる香川照之両名の演技がお見事。
特に香川照之には怖さを覚えるくらい。
さらに検察官役で木村祐一が登場。
上手いのか下手なのかよく判らないが存在感だけは強い怪演を見せているのも面白い。
評判がいいのも頷ける良作でした。

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川原泉といえば、私が最も敬愛するマンガ家の一人。
そんな川原泉の代表的作品『笑う大天使』が発表から10年以上経った今頃になって何故か映画化されるという。
しかも実写。
理由はともあれ、出来に期待せずとも一応観ておくのがファンというもの。
なお、前売券の先着特典である「ダミアンストラップ」を目当てに前売券を買い求めたが早々になくなっており入手できず。
残念。

ここで原作の『笑う大天使』について触れておく。

母が亡くなり孤独の身となった少女、史緒は生き別れの兄に再会する。
史緒は実は大金持ちの家系の令嬢であった。
兄の勧めで、彼女はバリバリのお嬢様学校である聖ミカエル学園に転入させられる。
しかし根っからの庶民である彼女は家では食事が口に合わず、学園でも猫をかぶって暮らさざるを得ず、息の詰まるような毎日を送っていた。
我慢が限界に達した史緒は、ある日学園の片隅でアジの開きを焼いて食べるという行動に及ぶ。
その現場を同級生の柚子、和音が目撃。
実は柚子は食堂からレストランチェーンに急成長した会社の娘で庶民の育ち。
和音も資産家の娘であるが父親は成り上がり者で、ガサツな性格な持ち主であった。
お互いに猫かぶり同士であることを知った三人は意気投合して親友となる。
そんな彼女たちはある日、ふとしたことから怪力を備えた体質になってしまう。
さらに、彼女たちが学園で交流のあった生徒が相次いで誘拐されるという事件に遭遇することになる。
事件の目撃者ということで史緒、柚子、和音の三人も誘拐されてしまうが、怪力を生かし犯人グループを壊滅させ誘拐された生徒たちを救出する。

というのが、『笑う大天使』本編のストーリー。それに加えて、史緒、柚子、和音を主人公にした外伝的ストーリー3編がある。

映画の『笑う大天使』ストーリーはマンガの本編と、史緒を主人公にした短編『夢だっていいじゃない』を組み合わせた形だ。
原作のあるものを映画化するなら原作をそのままなぞってもつまらない、という思想があるが、映画『笑う大天使』もそれに倣ってか原作から数々の変更が見られる。
史緒役に上野樹里を据えて、関西弁丸出しの少女に。
柚子はメガネっ子に。
和音は長髪の武道少女に。
聖ミカエル学園の制服はブラウスがなくドレス風に。
アジの開きはチキンラーメンに。
圧巻は誘拐犯とのバトルである。
香港映画かハリウッド映画かとばかりに CG とワイヤーフレームアクションを多用、無駄に力の入ったカンフー・アクションが展開される。
そのアクションの締めくくりには意表を突かれ唖然としたり失笑したり。
別にここまでしなくても……。

作中に挿入される神話のエピソードは銅版画風のアニメーションで表現され、これはなかなか良いアイデアだと思った。
史緒の兄の職業もうまく伏線としてストーリーに織り込み、物語の山場を作り上げている。
しかし聖ミカエル学園や町のシーンが明らかにハウステンボスでのロケだと判って安っぽいのが気になる。
作中の人物の行動に対してナレーションがツッコミを入れる演出も多用されるが、ツッコミの「間」が悪い上に音声が小さくて聞き取りづらく、ギャグが滑ってしまうのは誰もが気づくマイナス点だ。
さらに、原作でいい味を出していた孤高の野良犬、ダミアンのキャラクターがすっかり様変わりしていたのも原作ファンとしては悲しい。
(ちなみにダミアンはフル CG で描かれている。)

監督は原作の大ファンらしいのだが、原作の持ち味を生かしファンも喜べる映画化かというと、素直に首肯できないところ。
しかし、アクション映画を標榜していないにも関わらず、アクションシーンではっちゃけまくっているのは日本映画としては珍しい。
期待ハズレではあるが、カルト映画の称号を与えるのもやぶさかではない、珍妙な作品が世に出てしまった。
そんな感慨が胸に湧いて出てくる帰り道だった。

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『ハチミツとクローバー』といえば今更説明不要、と言いながら説明すると、美術大学を舞台に若者たちの青春と恋模様をコミカルかつ叙情的に描いたマンガ作品である。
人気が昂じてアニメドラマ化に続き実写映画化。
ファンとしては一応チェックしておかなければと思い観てきたわけですが。

2時間ほどの映画作品にするには原作は長すぎるので、物語はかなり整理されている。
とはいえ、いちいち説明するには込み入ってて難しい。
原作を知っている人向けに乱暴に言うと、
ある時いつものメンバーで海へ行く
→森田がはぐにキスする
→動揺したはぐは逃亡、スランプに陥る
→スランプの原因を知っている竹本は、自分では何もできないので森田を焚き付けてはぐを助けようとする
→森田が行動を起こし、はぐ復活
→竹本は自転車に乗ってひたすら走る
→一晩野宿して自分のすべきことを悟った竹本ははぐのもとへ向かう
という具合。

細かい設定が変えられているのはまあ仕方ないのだけど、不可解なのは森田の人物が変わってしまっていることだ。
原作の森田は芸術の才能を無駄遣いし、子供のような無邪気さと奔放さで場を引っ掻き回すコミカルなキャラクター。
しかし映画版では、ボヘミアン的な天才肌の兄ちゃんになっている。
そのせいで作品のコミカルな部分が減少し、残されたコミカルな部分が浮いてしまっているように思えた。
他の人物の造形は原作に沿っているのに、何で森田だけなのやら。
あと、クライマックスの炎上シーンで火災報知器が鳴動しないのも同様に不可解。

一方で、はぐを演じる蒼井優はなかなかよかった。
はぐを実写化するには子役を使うか CG を駆使するしかなかろうと思っていたし、映画の予告編でのはぐのスチル写真を観る限りでは苦しそうだったが、実際に蒼井優が演じているのを観ると子役も CG も必要なかったと言える。
最後のシーンは「メリークリスマス、ミスターローレンス」と心の中で呟いてしまったけど。

もともと本作は上映館が少ない予定だった。
しかし試写の段階でヒットを確信した映画会社の人が上映館を急遽拡大したという。
それほどの出来かと言うと首を傾げるが、美術大学の雰囲気を覗いてみたい、とか出演している若手の役者をチェックしたい、とかいう人にはいいかもしれない。

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『時をかける少女』と聞くと原田知世の顔が浮かんでしまう私は、そろそろオッサンと呼ばれるお年頃に足を踏み入れつつある。
今年リメイクされたアニメーション映画『時をかける少女』はそんなお年頃によく効く青春物語だった。

主人公の少女、マコトは学業の成績は振るわないが、明朗快活な高校生。
同級生のチアキやコウスケと一緒に野球遊びを楽しみ、自転車に二人乗りで乗せてもらう時には足を広げて跨るようなお転婆娘(死語)だ。
ある日、学校の実験室で昏倒した彼女は、帰り道に自転車のブレーキが壊れて止まれず、列車の通過する踏切に突っ込んでしまう。
しかし気がつくとマコトは踏切事故の直前に戻っていた。
走ってジャンプすると過去に戻るという能力を獲得した彼女は、それを生かして楽しむようになる。
取っておいたのに妹に食べられてしまったプリンを食べたり、テストを受けなおして高得点を取ったり、カラオケの制限時間終了直前から開始時に戻って何度もカラオケを楽しんだり。
上機嫌のマコトだったが、やがてチアキやコウスケとの友人関係が変わってしまう出来事が起こるようになる。
そのたびにマコトは過去に戻り、友人関係を維持しようと奮闘するのだが、状況はどんどん厄介になっていく……。

自分が楽しみを得ようとすれば、その分損をする人がいるかもしれない。
他人の気持ちを「なかったこと」にしてはいけない。
破滅的な出来事を経験したマコトはそのことに気づかされる。
そして映画は冒頭のシーンを反復する。
今やそこにはある人物が姿を消してはいるが、新たな仲間が加わった。
もうマコトはかつてのマコトではない。
彼女の目はしっかりと未来を見据えているのだ。

コミカルさとシリアスさ双方にメリハリがあり、テンポよく物語が進行する。
主人公とともに夏の日を駆け抜けて、観た後の心地は実に爽やか。
ノスタルジーを感じさせつつも、前向きに、今を大切に生きていこうと思わせる作品だ。
大林宣彦監督の1983年版と比べるとキャラクターもストーリーも大幅に変わってはいるが、「坂道」や主人公の住む家の和洋折衷な造りにはオマージュを感じる。
何より、時間跳躍について相談するマコトに対し、「年頃の女の子にはよくあること」とあっさり肯定する叔母さんの名は和子――原作の主人公の名と同じなのだ。
となると、本作は「続編」と言えるかもしれない。

ただ、気になる点も二つある。
一つは、ストーリー上のある重要人物の設定の不自然さ。
まあ、こればっかりは原作からの設定でストーリーの根本を成しているから、改変するわけには行かない。
もう一つはキャスティング。
恐らく高校生とほぼ同年代の人物を起用していると思われるが、演技の幅が狭くて素人臭さが否めない。
特にチアキを演じている人の声は耳に心地よくない。
逆にそれが今時の高校生というリアリティに転化している可能性も感じられるので、一概に悪いとは決め付けられないのだけども。

そうは言っても、全体的には秀逸な出来。
上映している映画館の少なさが残念に思える。
DVD が出たら買っちゃいますね、これは。

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先頃、とあるマンガ専門書店に足を運んだところ、『 DEATH NOTE 』各巻が1平方メートルほどにわたり平積みにされており、「○巻は品切れ中です」などという札もあった。
実写映画化されて売れに売れているようだ。
かく言う私は未読。
週刊少年ジャンプのマンガ作品は基本的にスルーしているからだ。
例外的に『 DEATH NOTE 』については購入候補に入っているのだけど、いつ買うかは未定。
とはいえ今月がマンガ原作映画のロードショウ月間なので、この機会に映画の方を先に観ておくことにした。

物語は「努力・友情・勝利」をモットーとする週刊少年ジャンプの作品らしくなく、ピカレスク・ロマン的だ。

世界中で犯罪者や犯罪の容疑者が次々と突然死するという事件が発生する。
人々の中にはそれを救世主「キラ」の手によるものとし、彼を信奉する者が現れるようになった。
事件の犯人は、検事を目指し大学生にして司法試験に合格した頭脳明晰な青年、ライトであった。
彼はある日、死神リュークの落とした「デスノート」を拾う。
そのノートにある人物の顔を思い浮かべながらその名前を書くと、名前を書かれた人物は死んでしまう。
ライトはそのノートを使い、犯罪者のいない社会を作ろうとしていたのだ。

「キラ」の存在を察知した ICPO は、顔や素性が一切不明の名探偵「 L 」に捜査協力を依頼。
L は日本の関東地方に「キラ」が居ることを特定し、日本に捜査本部を設置する。
そして巧みな推理を展開し、ついに「キラ」の容疑者としてライトを特定する。
一方、ライトもまた知略を駆使して捜査の手を撹乱し、犯罪者の粛清を続けていく。
このライト対 L の知的勝負がこの作品の見所だ。

容疑者としてマークされたライトだが、幾度もの危険な局面を「デスノート」の特性を活用して巧みに切り抜けていく。
その展開が非常にスリリングで退屈しない。
作品の設定についても、主人公が大量殺人犯人であるにも関わらず、犯罪者への量刑について人々が抱いている感情的な不満を掬い上げて主人公への共感を誘うところが上手い。
その主人公が捜査の手を逃れるために、ついに罪のない人間も殺めるようになる。
少年マンガ雑誌に掲載される作品が殺人を肯定する訳にはいかないだろうから、映画が原作に忠実に作られるならばライトが敗北を迎えることは間違いないだろうが、果たしてライトの迎える運命がどのように描かれるのか、先が楽しみだ。

あえて難を言うならば、ライトと L のキャラクターが現実感に乏しいところが気になる。
しかし「デスノート」という小道具自体が明らかに非現実的な存在である以上、そこを突付くのは野暮というものだろう。

「マンガ原作の実写映画は原作を越えられない」の経験則に従えば、原作は非常に面白いに違いない。
いつか原作を読む日が来るのも楽しみにしている。

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今月はマンガ原作の映画がたくさん上映されるが、『ラブ★コン』もそうした作品の一つ。
一般にマンガ原作の映画というと原作以上の魅力を持つような秀作は少なくて、ガッカリ感を味わう方が多い。
しかし『ラブ★コン』については、たまたま Web で好意的な感想文を目にしたのと、原作を読んでいない分、自分の中に全く対比するようなイメージがないこともあって、思い切って映画館まで足を運んでみた。

物語は、大阪の高校を舞台にした、徹底したラブコメディ。
170cmという背の高さから失恋した経験を持つ少女、小泉と、159cmという背の低さから失恋した経験を持つ少年、大谷。
同じクラスで机を並べる二人は、漫才さながらの憎まれ口の叩きあいが絶えず、「学園のオール阪神巨人」という異名を持つ。
なんとか自分より背の高い彼氏を作りたいと願う小泉だったが、ある出来事をきっかけに、大谷に恋心を抱いてしまう。
しかし自分が大谷より身長が高いことと、大谷との楽しい関係が恋の告白とともに消え去ってしまうリスクを気にしてしまい、思い悩むことになる。
果たして小泉の恋の行方は、というお話。

CG を多用した過剰な演出はスベリかけギリギリではあるが、マンガ的な楽しさを持った空間を作り上げている。
TV 番組制作出身者のセンスだなあと思ったが、やはり監督は TV 番組制作出身者だった。
ポップな色調のセットやファッションも観ていて楽しい。
何よりよかったのは、舞台が大阪で、主人公たちが関西弁を話すこと。
私自身大阪人なので、関西弁の方が親近感が湧くし感情移入しやすい。
コミカルな雰囲気も増幅される。
小泉と大谷を演じる二人も関西出身なので、インチキ関西弁ではないのが素晴らしい(香川出身の小泉の方はたまに怪しい発音があるが)。
ヴィジュアル面でも、コミカルさ・可愛さ・格好よさを満たした子をうまく選んだな、と思う。

「あとに何か残る」タイプではないけれど、娯楽作としては十分及第点を与えられる映画作品だ。

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brave という英単語を見て、まず頭に浮かぶのは阪急ブレーブスだ。
志村や麻原という名前に特定の有名人を思い浮かべるのと同様、これはどうにもならない呪縛である。
映画『ブレイブ ストーリー』の宣伝ポスターを見るたびに、阪急ブレーブス末期のユニフォームが思い起こされ郷愁を誘われる。

そういうわけで、映画の中身にはあまり関心を覚えなかったのだけど『ブレイブ ストーリー』を観てきた。
本作は宮部みゆきの小説『ブレイブ・ストーリー』が原作のアニメーション映画だ。

ごく普通の小学5年生の少年、ワタルは「幽霊が出る」という噂の廃ビルに忍び込み、そこで不思議な少年が空中の扉の中へ入っていく姿を目撃する。
翌日登校したワタルは、不思議な少年が転校生のミツルであることを知る。
そして帰宅したワタルは、父が離婚し別の女性の下へ去っていこうとするところに出くわす。
家を飛び出し父を追うが見つからない。
廃ビルに向かったワタルはミツルが上級生にリンチを受けているところを目撃する。
ワタルの助けを得てミツルは魔法で上級生を撃退するのだった。
ワタルが帰宅すると、母がガス中毒で倒れていた。
1日のうちに平穏な日常を失ったワタルは、自身に降りかかってきた運命を変えるため、廃ビルに出現した「運命を変える扉」を開く。
その扉の向こうは異形の生き物たちが暮らす、剣と魔法の世界、「ヴィジョン」。
「ヴィジョン」で5つの宝玉を集めれば運命の女神に願いを一つだけ叶えてもらえるのだという。
そこにはミツルが一足早く訪れていて、宝玉集めを始めていた。
家族を取り戻すため、剣士となったワタルはミツルを探しつつ宝玉集めの冒険を始める。

原作は未読だが、文庫で上・中・下巻に分かれている大作を2時間映画にまとめているからだろうか、ワタルが「ヴィジョン」に至る過程や、「ヴィジョン」での冒険の過程はかなり省略されているのが見て取れる。
物語は、仲間とともに冒険を進めるワタルと「目的のためなら『ヴィジョン』の人々が犠牲になっても構わない」とするミツルの対立が軸となる。
オーソドックスな少年の成長物語として作られているので、どちらが勝利するかは推して知るべし。
ワタルはミツルの行為を非難するが、明確に論駁することができない。
「ダメなものはダメ」で押し切ろうとする大人の説教臭さを感じてしまい、私はワタルに感情移入できなかった。

一番感情移入できたのはワタルの父親だ。
ワタルを罠にかけようとする魔法使いがワタルに父の幻影を見せる。
その幻影は言う。
「我慢して働いて、自分は欲しいものを買うこともできない。そんなのはもううんざりなんだ!」
アニメの冒険映画ということで、映画館には家族連れが多かったが、お父さん方も共感したのではないだろうか。

以下ネタバレになるが、無事に冒険から帰還したワタルは母親との平穏な暮らしだけは確保する。
『ヴィジョン』で死んだはずのミツルも何故か願いが叶って死んだはずの妹と暮らしている。
しかしワタルの父の姿だけがそこにはない。

ワタルは運命を変えることを願いながら、他者を犠牲にすることはできない。
運命の女神を打倒し、自らが『ヴィジョン』の支配者になることも拒否する。
その結果、自分の願いを叶えることはできなかった。
一方、自分の欲求を満たすために家族を犠牲にした父は作品世界から消されてしまった。
つまり本作は、諦めて運命を受け入れ、家族と言う極々狭い範囲の共同体での充足に留まることを称揚している。
社会運動や革命なき時代を象徴しているような気がする。

ストーリー以外の面に着目すると、デジタルアニメーションを得意とする GONZO らしく、CG で描かれた巨像や魔法は滑らかで綺麗。
ただ、メインはセルアニメーションなので、画面全体が動くシーンならばあまり気にならないが、カメラ固定の中を CG のキャラクターが動くとやはり違和感がある。
制作にあたっては GONZO・ワーナー・フジテレビが組んでいて、スタジオジブリ・日本テレビのラインに対抗する意図は見え見えだが、スタジオジブリ作品を真似て主だったキャラクターの声を専門の声優に任せないのはいただけない。
ワタルを演じる松たか子は演技は悪くないけど声があまり少年っぽくないし、ウエンツ瑛士は明らかに下手。
唯一、大泉洋はキャラクターにマッチしていた気がする。
声優はみんな普段安いギャラで頑張ってるんだから、たまには予算の多い映画で雇ってやれよと思った。

原作は結構売れていて人気があるようだが、原作ファンにはつらい映画だろうなとお察しする。

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『インサイド・マン』。
直訳すると「内側男」。
いや、直訳しなくていい。

ある日マンハッタン信託銀行で、客を人質に取り武装グループが立てこもり事件を起こす。
武装グループは警察に対し、人質を乗せるバスと飛行機を要求する。
彼らは警察が突入しても区別されないように、人質の衣服を脱がせ自分たちと同じ服装、同じ覆面を被せる。
事件を解決すべく様々な手を打つ警察だが、武装グループは常に警察より上手を取り、警察を翻弄する。
一方、マンハッタン信託銀行の会長は、占拠された店舗の貸金庫に誰にも触れられたくないものを保管していた。
その秘密を守るため、彼は女弁護士を雇い武装グループと接触を図ろうとする。
果たして会長の秘密とは何か。
武装グループの真の目的は何か。
彼らはどうやって包囲された状況から脱出してみせようというのか。
……というお話の映画である。

映画の冒頭、いきなり主犯が素顔を出して観客に語りかける。
さらに本編中、展開する事件のシーンに、解放された人質を警察が取り調べるシーンが挿入されていく。
どうやら警察は事件が終わっても、誰が人質で誰が犯人の一味か区別できていないようだ。
練り上げられた筋書きを犯人が遂行していくさまに、観客は引き込まれていかざるを得ない。
完璧な犯行計画とともに脚本の構成の上手さにも感心させられる。

一つどうしても判らないのは、犯人グループは○○の××をどうやって知ったのか、ということ。
これだけがスッキリしない。
それでも、『フライトプラン』よりは満足度が段違い。
楽しませてもらいました。

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TVで現在放送中の『ひぐらしのなく頃に』のアニメ版
今のアニメ業界は粗製濫造だから、1クール13話、出題編だけで終わりだろうな、と思ったら2クールとは。
しかしアニメ版を見ているとダイジェストのようで物足りない。
で、ここで気づいたのだけど、原作ゲームにおける「 TIPS 」というのが意外と作品に重要な力を果たしているんじゃなかろうかと。

「 TIPS 」とは何か、を説明するのは難しい。
『ひぐらしのなく頃に』は一本道の小説だが、場面転換の際に TVCM が入るようにインターミッションが頻繁に入る。
そのたびに「 TIPS 」が追加され、読めるようになる。
それは本編に関係した短文で、文庫本の1ページから2ページ程度。
本編と同時に進行している別場面だったり、何者かの手による手記だったり、公文書だったりする。
読まずに先に進んでもいい。
で、この「 TIPS 」が作品世界を補う役割を果たしていて、時に物語の謎を推理する手がかりとなっている。

私はせっかちだから、「 TIPS 」が追加されるごとに逐一読んでいた。
だけど、放送であるTV アニメではこれは再現できない。
マウスをクリックすることすらなく、ただ画面を眺めるだけ。
作品を受容するリズム感の違いとともに、作品世界へ引き込まれる強度が違う。

「TIPS」を読んでいくことは、大塚英志がビックリマンシールの流行に見た、「大きな物語」へのアクセスという行為にも似ている。
「 TIPS 」のある原作とないアニメ版とでは、作品に対して受け手に許されたアプローチの仕方に差異があるのだ。
そもそも『ひぐらしのなく頃に』という作品自体、同じ物語設定の各編で異なる惨劇を発生させ、惨劇の原因である隠された共通の真相=「大きな物語」へ受け手の関心を促す構造になっている。
関心にサービスしてくれる原作と、してくれないアニメ版。
リズムの差異に加えてアクセシビリティの差異がアニメ版の物足りなさに繋がっているのではないか。

この原作とアニメ版の差異は、アニメ版を DVD 化すれば克服可能ではある。
DVD の機能を使って間に TIPSに相当する映像を見るかどうか、視聴者に選択を迫ることができる。
そこまで原作に忠実にあるなら、アニメーションドラマ作品としては画期的な存在になると思う。
ただ、映像作品においてその手法が正解かどうかは判らない。

いやまあ、アニメ版が物足りないのは単純に心理描写やエピソードを削りすぎてるからだろ、と言われればそうとも言えるんですけどね。

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切ない映画ややるせない映画や考えさせられる映画ばかり観てるので、頭を使わなくてもいいバカバカしい映画も観とこう、というのでロードショウ作品リストを眺めていたところ、目を付けたのが『ピンクパンサー』。
かつてのヒット作のリメイクですな。
私は元祖を観たことはないけど。

舞台はフランス。
あるスタジアムで、フランス対中国のサッカーの国際試合が行われていた。
試合はサドンデスによりフランスが勝利。
スタジアムが歓喜に沸く中、フランスチームのコーチが毒矢に刺されて死んでしまう。
おまけに彼が身につけていた筈の巨大な宝石の指輪「ピンクパンサー」が彼の指から消えうせてしまっていた。
フランス警察のドレフュス警視は、田舎で働いていたドジで間抜けな警官、クルーゾーを警部に昇進させ捜査に当たらせる。
無能な警部に事件の捜査を担当させ、マスコミが警部に振り回されている間に自分が事件を解決しようというのだ。
ドレフュス警視の目論見も知らず、勘違いしたクルーゾー警部は張り切って捜査を開始。
行く先々で騒動を巻き起こすが、ドタバタの果てに見事に事件を解決してしまう……というストーリーだ。

2、3分に1回かという頻度でクルーゾー警部は間抜けな行動を繰り出してくる。
「ああ、ここでギャグが出るな」と見え見えで失笑してしまうが、次第に流れに身を任せてバカバカしさの川に流されていく。
クルーゾー警部の助手となる刑事、実はドレフュス警視によって宛がわれた監視役……という役どころを演じるのはジャン・レノ(髭なし)。
クルーゾー警部の行動に接して呆れ顔を連発するのもレアだが、クライマックス付近でクルーゾー警部に付き合わされて全身タイツで登場の上、奇妙な踊りを踊る姿はレアな上に爆笑必至。
いやもう、「ちょいワルオヤジ」なんて言ってる場合じゃないですよ。
広末涼子が安来節を踊るくらいあり得ない。
あり得ないと言えば、事件の種明かしもあり得ない。
誰がどうやって被害者を殺し、「ピンクパンサー」を盗んだのか、というミステリーもストーリーの要素であるわけだが、謎解きに至るプロセスがすさまじい。
コメディ映画だから出来る力技で、驚きと同時に笑いも起こる。
真面目なミステリー作品なら糾弾されるだろうけど、コメディ映画であれば優れたシナリオといえるだろうと思います。
現実に即して深く考えたら観客の負けだし、どんなご都合主義だって許してもらえるから。

映画館でこんだけ笑ったのは『少林サッカー』以来かな。
一日で映画三本観て三本とも当たり、という稀有な経験でありました。

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日本映画もやりゃできるやん、というのが『嫌われ松子の一生』を観終わっての一言。

福岡を出て、東京で一人暮らしをしている青年の元に、父親が訪ねてくる。
30年間失踪していた伯母、川尻松子が殺され、荼毘に付されたというのだ。
父親に命じられて青年は荒れ果てた伯母のアパートの掃除をする。
訪ねてきた警察官の話では、松子は学校の教師だったという。
そこから映画は松子の人生をたどり始める。
川尻松子、昭和22年生まれ。
修学旅行先で旅館の金が盗まれた事件をきっかけに、松子の人生は転落していった。
教職を辞し、遁走。
同棲していた男には日常的に暴力を振るわれ、その挙句自殺される。
妻子ある男と不倫関係になるもつかの間、捨てられる。
トルコ嬢となり店の稼ぎ頭になるが落ち目に。
貢いだ男に捨てられ彼を刺殺。
玉川上水で自殺しようとしていたところ理髪店の主人に声をかけられ意気投合、彼と家庭を持つ決心をするが逮捕され服役、出所すると彼は別の女性と家庭を築いていた。
ヤクザになっていたかつての教え子と再会し同棲を始めるが、組の金を使い込んだ彼は組に命を狙われ挙句に収監される。
出所を待ち続けるが出所した彼は松子を拒絶し逃走。
といった感じで、ひたすら愛を求めながらも報われない人生が描かれていく。

ストーリーだけ辿れば、湿っぽくて悲惨。
しかし画面がチープでキッチュな CG やエフェクトで鮮やかに彩られるとともに、時にミュージカル風に歌あり踊りありでテンポよく展開する。
コメディチックな演出により、しばしば笑いの起こる娯楽作品に仕立て上げられている。
のみならず、一人の聖女の物語として、しんみりともさせられるのだ。

私は原作の小説を読んでいないが、原作を読んだお連れ様の話によると、原作はもっと暗くて「光 GENJI 」のエピソードもないのだとか。
映画は娯楽よりにシフトしているらしい。
映画を観る限りではその試みは成功しているように思う。
空撮も使われていて制作費用はそれなりにかかっていそうだが、客の入りは良好、反応もよし。
十分回収できるのではないだろうか。

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スケジュールの都合で、久しぶりに映画三本ハシゴを敢行。
まず、『グッドナイト&グッドラック』から。

アメリカにおける1953年といえば、マッカーシー上院議員に端を発する「赤狩り」の嵐が吹き荒れていた頃。
テレビ局 CBS の専属ジャーナリスト、エドワード・R・マローは自身がホストを務めるドキュメンタリー番組で、軍や CBS 上層部からの圧力を跳ね除けて公然とマッカーシーを批判、「赤狩り」の終焉に貢献した。
このエピソードを映画化したのが『グッドナイト&グッドラック』だ。

特徴的なのは、違和感なく当時の状況を再現するにあたって実際の記録映像を織り交ぜ、全編モノクロ画面で作られていること。
そして屋外のシーンが存在せず、全編室内シーンで展開されていること。

ドラマチックな派手さの乏しい本作においての山場はマッカーシー批判を展開する番組本番のシーンである。
マローという人物を強調し、言葉に説得力を与えるためにクローズ・アップが多用される。
テレビカメラに向かって語りかけるマロー。
彼の視線は、番組の締めくくりにあたって映画のカメラと合致する。
作中のマローは当時の視聴者に語りかけているが、同時に我々観客にも語りかけているのだ。
マローの批判的言辞を通じて、50年以上経った現在のテレビ放送のあり方やジャーナリズムに再考を促そうというわけである。
ベタな手法とはいえ、ついつい引き込まれてしまう。
マロー役の男優(誰か知らんけど)もクールで渋い演技を見せ、鋭敏なジャーナリストのカリスマ性、ヒーロー性をうまく表現している。
お見事。

ちなみにタイトルの「グッドナイト&グッドラック」というのは、番組の締めくくりにマローが言う決まり文句。
淀川長治の「サヨナラ、サヨナラ、サヨナラ」みたいなもんである。

ところで本作でどうしても気になってしまったのが、登場人物が場所を問わずやたらとタバコを吸っていること。
マロー自身、本番中カメラに映っているというのにタバコを指に挟んでいるくらいだ。
成人男子の殆どが喫煙者だった時代とはいえ、とかく映画における喫煙シーンが問題視されたり、オフィスや公共の場における喫煙が禁じられている当世からすると目だって仕方がなかった。

マッカーシーが没落し対決に勝ったマローだったが、経費のかかるドキュメンタリー番組よりも、経費が安く済んで人気を取れるクイズ番組を放送するという会社の方針で、マローの番組は別の時間帯に移動させられてしまう。
報道番組が娯楽番組に敗北するのは50年以上経っても変わらないが、喫煙という習慣を取り巻く状況は大いに変わったもんだ。
バカバカしいような、切ないような……。

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地下鉄の梅田駅から梅田ガーデンシネマやシネ・リーブル梅田へ向かう場合、貨物駅のヤードの下を通る長い地下道を歩くのが普通だ。
この地下道を私は「うつむきロード」と呼んでいる。
梅田ガーデンシネマやシネ・リーブル梅田で上映される映画には切なさややるせなさを誘発する作品が多く、帰り道は自然とうつむいてしまうからだ。

そして先日観た『ブロークン・フラワーズ』。
やはり帰り道で視線が下へ降りてしまった。

主人公は若い頃に恋人を何人も作った女たらし、ドン・ジュアンならぬドン・ジョンストン。
中年になりコンピュータで一儲けした彼だったが、無気力で家庭を持とうとしない姿勢に愛想を尽かされ同棲していた女性に逃げられてしまう。
そんなドンの元に、差出人不明の手紙が届く。
その手紙は彼と別れた女性からのもので、実はドンには息子がいるのだという。
隣家に住む友人の執拗な勧めに折れ、友人の立てた旅行計画に従って、ドンは差出人を探しに昔の恋人たちを訪ねる旅に出る。

上辺では嫌々旅をしているドン。
しかし内心では寂しいし、息子に会いたい気持ちがある。
訪ねる先々で、本当の目的を隠しぎこちなく探りを入れていく。
だが、かつての恋人たちは彼女たちなりの生活を築いている。
ドンが入り込む隙はない。
ドンを演じるビル・マーレイはニコリともせず、無表情がしかめっ面。
彼から放たれるゆるさ、ダメ男感、哀愁は秀逸。
ビル・マーレイを主演に置いたところで勝ったようなものだ。

ドンの視点のショットが繰り返されたり、ドンの「取り残され感」を強調する画面構成もベタとはいえ手堅い。
同じ構図で繰り返される飛行機の離陸シーンも妙に笑えた。

旅の導入部となるミステリーが観客を引き込む道具になってはいるが、その謎解きを求めて観るとガッカリすると思う。
まったり感、モヤモヤ感、脱力感とペーソスを味わいたい人向けなロードムービーだ。

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志村貴子のカバーイラストに惹かれて藤野千夜のジュブナイル小説『ルート225』を読んだのが昨年のこと。
本の帯に「映画化決定!」と書かれてたけど、本当に映画化するんかいな、もしかしてぽしゃったのでは?と思っていたら、本当に映画化されてました。
ただし、いわゆる映画会社系列の映画館でかかる映画ではなくて、単館ミニシアターでかかる低予算マイナー映画として。
大阪では十三の第七藝術劇場でのみ上映というのだから、マイナー具合も判るというもの。
ともあれ、原作もまあまあだったし、出会いという奴を大事にしようと思って映画版も観ることに。

映画版の筋書きも原作に沿ったもの。
14歳の女子中学生、エリ子は母親の言いつけで、帰りの遅い13歳の弟ダイゴを探しに行く。
ダイゴは公園で一人しょんぼりとしていた。
同級生にシャツの背中に「ダイオキシン8倍!」と落書きされてしまったのだ。
二人は共に家に帰ろうとするが、帰り道の様子が変わってしまっていて帰ることができない。
しかも道の途中で、死んだはずのダイゴの同級生に出会ってしまう。
なんとか家に帰り着いた二人だが、家にいるはずの母親の姿が見えない。
翌朝になっても、両親は家に帰ってこなかった。
エリ子が学校へ行くと、疎遠になっていたはずの同級生と仲直りしたことになっている。
死んだはずのダイゴの同級生がエリ子の後輩になっていて、しかも昨日連れていた犬は以前に死んだのだという。
ダイゴの持っている、高橋由伸の写真の柄のテレホンカードで家に電話すると母親が電話口に出る。
しかしやはり家に母親はいない。
二人はどうやらパラレルワールドに迷い込んでしまったらしい。
何とか元の世界に戻ろうとする二人だが、果たして戻れるのだろうか……というお話。

原作との対比で特徴的なのは、原作でははっきりそれと書かれていない部分を明確に観客に提示していること。
「ルート225」というタイトルは「√225=15」、すなわち15歳を迎える少女の成長を描いた話ということを示しているのだけれど、映画のしょっぱなで「√225=15」という字幕でそれが明示される。
映画の最後の台詞でも、再び説明が行われる。
演出面でも、最初はクールぶっていたエリ子が、次第に両親への依存心や弟への愛情を表に出す芝居になっていることは明白だ。
映像化されることで「えっ、これで話が終わりなの?」的な感じが弱まり、テーマが強く押し出されていると思う。

人間、年月を生きていると「あの時こうしておけばよかった」とか「何でこんなことになったんだろう」とかいうことが増えていくもの。
しかし大抵の場合、それを挽回することはできずに終わってしまう。
『ルート225』の姉弟はそんな人生の苦味に直面する。
パラレルワールドのおかげで、ある部分においては彼女たちは彼女たちなりにケジメをつけることができた。
日常に埋没していて見過ごしていた物事を自覚するとともに、後悔は後悔のまま受け入れて人生を送るしかないことを学んだ。
それが大人になるということだと、本作は改めて教えてくれる。

ダイゴ役の少年は私が原作を読んでいたときのイメージとは造形が違うけれど、そのダサさ加減は「よくこんな子を見つけてきたな」と思わせるほどハマっている。
主人公のエリ子役の少女はたどたどしさはあるものの、思春期の少女の心情と変化って奴をよく演じていたと思う。
将来頭角を現してくるかもということで要注目。

低予算映画臭さは拭えないし、原作に恵まれているだけかもしれないけれど、意外と良作、な気がする。

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16 mai 2006

『 RENT 』を観た

本年ミュージカル映画第2弾、ということで『 RENT 』。
舞台は1989年から1990年のニューヨーク。
アパートの家賃( RENT )を払えず立ち退きを迫られるほど貧乏だが、アーティストを目指し日々を送るボヘミアンな若者たちの青春群像劇だ。
主な登場人物のうち、2人はゲイ、2人はレズビアン、3人は HIV 患者、1人は麻薬中毒者と一癖ある連中ばかり。
彼らの恋模様が話の軸となる。

会話の多くが歌でなされていて、その唐突感というか不自然さはいかにもミュージカルだなという感じ。
しかし曲自体はなかなかノリがよく、ロック調なのが多いので自然と腕がリズムを刻みだす。
周りの観客は身動きせず大人しく観てたけど。

シナリオは冒頭に歌われる「525600分という時間を愛で計ってみてはどうだろう」というメッセージのとおり、恋愛賛歌。
カップルが3組もあるとちょっとくどくて、いまいち入り込めなかった。
あと家賃も暖房代も払えないのに電話が止められていないこととか、ダンサーの姉ちゃん以外バイトしてる様子がないのに飢えずに生きてるのとか、医療費や葬式代に困ってないこととかはどういうことなんでしょう。

そのへんをスパッと割り切れば、ミュージカル好きな人はきっと気に入るであろう一作だと思う。

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いつも映画館に映画を観に行くのは一人、という私だが、およそ2年ぶりに人と連れ立って映画鑑賞。
『メルキアデス・エストラーダの3度の埋葬』です。

映画の舞台はメキシコとの国境に接するアメリカ・テキサス州からメキシコ。
ある日、荒野の遊牧地で野生動物に掘り出された人間の遺体が発見される。
メキシコから不法入国し、カウボーイとして働いていた男、メルキアデス・エストラーダだった。
何者かが彼を射殺し埋めたらしい。
メルキアデスの遺体は警察により再び埋葬された。
主人公の老カウボーイはメルキアデスとは友人で、「自分が死んだら遺体を故郷のヒネメスに埋めて欲しい」と頼まれていた。
メルキアデスを射殺したのは、当地に赴任してきた若い国境警備隊員だった。
家畜を襲いかねないコヨーテを始末しようとメルキアデスが発砲したのを、自分を襲撃するために発砲してきたと勘違いして射殺してしまったのだ。
犯人を知った老カウボーイは国境警備隊員を誘拐し、メルキアデスの遺体を掘り起こさせる。
そして馬に乗り、国境警備隊員とメルキアデスの遺体を引きつれ、ヒネメスを目指す旅を始める。

荒涼とした丘陵や山地が広がり、土ぼこりが舞うテキサスとメキシコの風景の乾きっぷりがスクリーンを覆う。
そこに現れるのは、豊かなアメリカを目指し不法入国を試みるメキシコ人たち。
田舎の退屈な暮らしに辟易しながら生きるアメリカ人たち。
旅の途中では、子供に見捨てられあばら家で一人暮らしを送る盲目の老人に出会う。
自分を殺してくれと懇願する老人の姿が苦い。
メキシコの集落では、ボロボロの建物に電飾が取り付けられ、調律の狂ったボロボロのアップライトピアノから音楽が流れる酒場に村人が集い酒を楽しんでいる。
経済格差の現実が重々しく突きつけられる。

旅の終わり、老カウボーイは約束を果たし、国境警備隊員に許しを与える。
懺悔を果たした隊員を放免し、一人去っていく。
友人を失い、誘拐犯として手配され、愛するカフェの女にも拒絶されて彼はどこに行くと言うのだろう。
老カウボーイの後姿に放たれた隊員の一言が、観る者の胸に深く沈んでいく。

出てくる俳優はみな好演しているが、特に老カウボーイ役のトミー・リー・ジョーンズが見せる狂的な執念深さは存在感たっぷり。
カンヌ映画祭最優秀男優賞も納得。

ミニシアター系の映画館でかかる映画が好き、という人にはオススメな一作と言えましょう。

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現在ロードショウ放映中の映画『プロデューサーズ』を観てきた。
この作品は1968年にアカデミー賞脚本賞を受賞した映画だったのがミュージカル化されて2001年にトニー賞を受賞、そしてまた映画としてリメイクされたということらしい。

ブロードウェイの落ち目の舞台プロデューサーのもとに会計士がやってくる。
帳簿を見た会計士の漏らした一言にプロデューサーは「多額の製作資金を集めて一晩でコケる失敗作を作り、製作資金を持ち逃げする」という計画を思いつく。
ブロードウェイのプロデューサーになるという夢を持っていた会計士もその計画に乗り、二人は最低の脚本、最低の演出家を揃えて失敗確実のミュージカルづくりを始める……というコメディだ。

ギャグは腹から笑うと言うよりは苦笑を誘われるといった系統。
国民性や同性愛者をネタにしているのだけど、ドイツ人やスウェーデン人やゲイ団体から怒られないのかなと心配になった。
英語の訛りもギャグの一部らしく、字幕の翻訳も頑張っていたと思うけど英語が得意ではない私にはちょっとしかそれがギャグだということが判らなかった。
アメリカ人にはきっと爆笑ものなんでしょうな。
しかしエンドロールの最後に仕込まれたギャグには不覚にも噴き出してしまった。
エンドロール終了後にもおまけがあるので、エンドロールが始まっても席を立たないよう注意したい。

展開はテンポよく、後から上映時間134分と知ってそんなに長かったのかと驚いたくらい。
ミュージカル映画なので歌って踊ってハッピーエンド、なのだけど、これがミュージカルのパワーという奴なのか、不思議な高揚感があって、観終わった後は胸の奥がすっきり爽やかになった。
ミュージカル業界におけるミュージカルづくりを題材にした作品だけに、「突然作中の人物が歌いだす」というミュージカル特有の不自然さもあまり気にならずに楽しめるのではないかと思う。

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2004年の日本映画のヒット作『いま、会いにゆきます』。
散々映画館で予告編を観せられて「はぁ、また泣かせる感動作ですか」と冷ややかにスルーしてたのだが、今日 TV で放送するというので観てみた。

若くして妻に先立たれ、小学生の息子と二人暮しの主人公、巧。
妻の澪は「雨の日に帰ってくる」と遺言を残していた。
死から一年後の雨の日、約束どおり彼女は二人の前に姿を現す。
しかし彼女は記憶を失っていた。
妻であり一児の母である、と言われ当惑する澪に巧は、高校時代からの二人の思い出を語って聞かせる。
記憶は戻らないものの再び澪は巧に魅かれ、3人家族の楽しい日々を送るようになる。
澪が一年前に死んでいることは伏せられていた。
しかし澪は生前の自分が書き記していた日記を読み、自分の過去を知ってしまう。
そして雨の季節が終わり、二度目の別れが訪れるのだった。

まあこの辺は予告編から想像のつくストーリー展開。
しかし別れの後、澪の日記を通じて澪の視点から二人の過去が語られ、観客の意表を突く仕掛けになっている。
「いま、会いにゆきます」ってそういう意味だったのね、と。
甘たるいけどピリッと捻りの効いたファンタジーだった。

だがそんな感動ストーリーは原作を読めば十分である。
この映画最大の見所は高校時代のメガネっ子澪。
可愛すぎですよ!
ありがとう、ありがとう監督!

そういうわけで、いま、会いにゆきます。
DVD で。

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フィンランドと言えば森と湖の国、ムーミンが生まれた国。
ディズニーランドに憧れはないけれど、フィンランドにあるというムーミンランドには憧れる。
私の「いつか行きたい国ランキング」上位にある国だ。

そのフィンランドで全部撮影されたという触れ込みの日本映画が『かもめ食堂』である。

フィンランドの首都ヘルシンキの街角に日本人女性のサチエが「 ruokala lokki 」(かもめ食堂)という名の食堂を開く。
おにぎりがメインメニューというその食堂だったが、日本料理店を前面に押し出した店構えというわけではなく、通りすがりに遠巻きに店を覗く現地人はいるが客は一人もいない。
初めて来た客は日本かぶれの青年、トンミだった。
日本のことで彼から受けた質問に頭を悩ますサチエは、街の本屋でミドリという日本人旅行客の女性に出会う。
ミドリに答えを教えてもらったサチエは、その礼にミドリを自分の家に宿泊させる。
特にフィンランドに来る目的があって来たわけではないというミドリは、かもめ食堂の仕事を手伝うことになる。
ポツポツとお客が来るようになったかもめ食堂。
やがてマサコという名の日本人旅行客の女性が店に現れ、彼女も食堂の仕事を手伝うようになる。
そしてかもめ食堂は満席になるほどの繁盛を見せる。

サチエにコーヒーの淹れ方を教えた謎の男、道からサチエを睨みつけては去っていく謎の女性というエピソードはあるものの、特にドラマチックな盛り上がりはない。
かもめ食堂が繁盛していくのは偶然と幸運にしか見えない。
森と湖の国が舞台だが、殆どヘルシンキの街中しか映らない。
ただ日常の時間がゆったりと流れていく。
しかし小林聡美、片桐はいり、もたいまさこという3人の女優の、強力でコミカルな存在感が作品を支えていて退屈させない。
ゆるい物語がおにぎりのご飯だとすれば、彼女らは味付けの濃い具と言ったところか。

ちなみに梅田ガーデンシネマで観たのだけれど、10時15分、10時25分の上映は満員で入れず。
12時20分の上映を観終わって出てきたら、急遽追加された21時台の上映を除いて全て完売となっていた。
上映中は「あんたら笑いすぎだ」と思うくらい随所で笑い声が上がる。
土曜日で毎月1日の映画サービスデー、大阪じゃ梅田ガーデンシネマでしか上映していないってことを差し引いても、何故こんなに人気で観客の反応が良いのか不思議だった。
私が知らないだけで前評判が高かったのか、女優たちの人気が高いのか。
謎である。

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『ナルニア国物語』といえば児童向けファンタジーの古典的作品。
その割に影が薄いというか、地味というか。
原作本の表題に『ナルニア国物語』と入っていないせいか、私が『ナルニア国物語』の名を知ったのは二十歳を越えてから。
とはいえ、今まで映画化されていない大作の映画化、ということで早速映画館に足を運んだ。

『ライオンと魔女』は『ナルニア国物語』シリーズ全7作の第1作目。
原作本(岩波少年文庫版)は既読なので、原作と対比しながら映画を観る形になった。

物語の進行は、大まかには原作に忠実だ。

男2人、女2人の4人兄弟姉妹の子供たちが疎開のために田舎の邸宅に引き取られる。
その邸宅の1室に置かれたタンスの奥は、動物たちが言葉を話し豊かな自然が広がる国ナルニアと繋がっていた。
しかしナルニアは女王を自称する魔女に征服され、100年間も冬が続いている有様。
4人はナルニアに入り込み、ライオンの姿をしたナルニアの真の王アスランと合流して魔女を倒すため戦う。

最初に気になったのは、主人公の4人に華がないこと。
美少年、美少女じゃなくて、野暮ったい普通の少年少女といった感じ。
はっきり言ってしまえば不細工。
しかしそれも物語が佳境に入ってくると、引き締まって格好よく見えてくる。
子供の成長物語って側面から見れば、これも悪くないかもしれない。
ターゲットである子供の観客にとっても感情移入しやすいだろう。
顔こそ地味だが演技力は大したもので、末っ子のルーシー役の子なんか特に「映画で動いてこそなんぼ」な可愛さを見せてくれる。

見所としてはやはり、ディズニーの豊富な資金が注ぎ込まれた CG だ。
予告編で既に観てるにも関わらず、アスランが登場したシーンでは「キター!」と内心で喝采。
その他の動物たちも全く違和感ない。
いやはや技術の進歩って奴はすごいものですな。

魔女軍とアスラン軍との合戦シーンも、近年の歴史もの大作映画みたく俯瞰がバリバリ使われていて迫力がある。
このへんは映画館のスクリーンで観てこそ。
ただ、長兄のピーターが魔女の配下のオオカミを倒すシーンや、魔女が倒されるシーンがあっけない。
子供向けってことで流血を描けないという事情からなんだろうけど、ちょっと物足りなさを感じた。

原作をそのままなぞっているので、原作を読んでない人にはアスランが登場するところまでがまどろっこしく感じるかもしれない。
勧善懲悪でベタでご都合主義的な物語展開も不満が出そうだ。
しかし子供の頃に原作に親しんだ人には、概ね違和感なく受け入れられるのではないだろうか。

原作との差異ということで気になったのは三つほど。

魔女の追っ手を避けるためにビーバー夫婦とともに逃げ込んだ穴倉で食事を取るシーンが原作で印象的だったので、映画でそこが改変されていたのは残念。

穴倉から出てサンタクロースに出会うシーンは形を変えて再現されているけれど、最初にパッと見てその爺さんがサンタクロースだとは分からなかった。
何せ赤い帽子も赤い上着も着ていない。
「サンタは本当にいるのよ」というルーシーの台詞で説明されるので、原作を読んでなくても一応分かるようにはなっている。
しかしサンタクロース=赤というコカ・コーラ社発祥のイメージがこうも深く刻み付けられているのかと、正直言ってショックを受けた。

どんな傷でも治してしまう薬でエドモントを助けたルーシーに、「兄にばかりかまけてないでほかの連中も早く助けてやれ」といった趣旨のことを言って諭したアスランの台詞が削除されていたのも気になった。
映画版ではルーシーが自主的に助けて回ろうとするところで場面転換するので、インパクトが弱い。
作者が教育的な意味を込めた場面だと思うんだけどなあ。

ラストシーンも原作とそっくりそのままというわけではなかったけれど、短いながらも絶妙な会話でうまくまとめたと思う。

最後に一つだけ注意。
エンドロールが始まったからといって席を立ってはいけない。
途中で短いエピローグが入ります。

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夜と霧

小学生の頃見た。
原爆に焼かれた丸こげ死体を写した写真パネル。
中学生の頃読んだ。
『はだしのゲン』で、死体の足首を掴んで引っ張ると肉だけ抜け落ちるシーン。
脳に刻み込まれたイメージに、またひとつ新たな一コマが加わった。
映画『夜と霧』( Nuit et Brouillard )である。

『夜と霧』は1955年にフランスで製作されたドキュメンタリー作品。
監督はアラン・レネだ。

彼はまず、青々と背の低い雑草が生える平原をカラーフィルムで映し出す。
静かで平和な風景。
しかしすぐにカメラはパンする。
視界に入ってくるのは、有刺鉄線。
その場所は、アウシュビッツ強制収容所であった。

そして映像は十数年前に遡る。
人々が収容所へ運ばれていく模様を撮影したモノクロの記録映像やスチル写真だ。

再び映像は十数年後に戻る。
主も収容者も失い、静かにたたずむ収容所がそこにある。
まさかそこで何十万人も死んだとは思えない。
どこかの古城か、打ち捨てられた寺院のようだ。
映像はまたも十数年前に遡り、収容者の模様を映し出す。

こうして映像はモノクロで描かれる過去と、カラーで描かれる現在を対比しながら行き来する。

そして画面に現れるのは、死体、死体、死体の山。
頭を剃られ、ガリガリに痩せた収容者の死体。
あるものは丸焦げ。
あるものは生焼け。
あるものは木材に挟まれ、焼かれる時を待っている。
あるものは骨になって山積みになっている。
あるものは首と胴体が切り離され、桶に生首が積み上げられている。

地面一面に死体が並べられている。
地面に死体が重なり合っている。
土を巻き込みながら、ブルドーザーが死体の山を押し進んで行く。
地面に掘られた穴に死体が積みあがり、マネキンが捨てられるかのように軽々と一人の死体が穴に落とされる。
そこに人間の尊厳はない。
あるのは圧倒的かつ空虚な物体の群れだ。

最後に、映像は「現在」を映し出す。
月日が経ち、人間が消え去った光景。
しかしその下にはあのおびただしい死者たちが埋まっているのだ。
ナレーションは惨劇を過去のものとして遠ざけ直視しない我々を痛烈に非難し、映画を締めくくる。
彼は言う、「戦争は終わっていない」。
「現在」の人々が間違えば、あの「過去」は「現在」の風景として蘇るかもしれない。
死者の声なき告発の声を、レネは我々生者の眼前に突きつける。
「で、今あんたは生きているわけだが――何をしてるんだい?これから何をするんだい?」と。

わずか30分ほどなのに、激しい印象と重みを残す作品だった。

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『テコン V 』は1970年代後半に韓国で製作されたアニメーション映画で、一言で言うと『マジンガー Z 』のパクリ。
以降韓国では次々と日本のロボットアニメをせっせとパクっていったらしいのだが、『テコン V 』はその中でも国民的作品としての地位を築いているらしい。
その主題歌は日本のロボットアニメとは異なり子供の独唱。
コミックソング好きな私はその妙に軽快なメロディと歌声に、一度聴いただけで魅了されてしまった。
朝鮮語が分からないので「ロボット」「テコン V 」「マンマンセー」くらいしか聴き取れないけど、ロボットアニメに「マンマンセー」(万々歳)という歌詞を付ける韓国人のセンスがとても好きです。

その『テコン V 』の主題歌をふと思い出し歌詞の詳細を求めて WEB を検索したところ、いろいろと発見があったのでメモ。

歌詞のハングル表記とその読み。ハングルを読めない私にはアルファベットで読み方が書いてあるのがありがたい。
http://pr4y.free.fr/index/2004/12/18/120-robot-taekwon-v---loboteu-taekwon-beui.html

mp3 ファイル。
http://pr4y.free.fr/images/taekwon-v(full).mp3
http://pr4y.free.fr/images/taekwon-v.mp3

映画本編のスチル写真と動画。
http://nandakorea.sakura.ne.jp/koreanihtml/b_1.html

歌詞の日本語訳と wma ファイルはこのページの一番下。
http://nandakorea.sakura.ne.jp/html/robot.html

ハングルの歌詞のテキスト版。
http://planning1979.cafe24.com/zeroboard/zboard.php?id=music&no=81

これで『テコン V 』の歌をマスターすれば、韓国人のハートをがっちり鷲掴みすること間違いなし。

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『ぺとぺとさん』は木村航の小説を原作とした TV アニメーションドラマ作品。
2005年7月から9月頃に放送されていた。

同時期に放送されていた『かみちゅ!』は地方都市を舞台に中学生であり神様でもある少女をヒロインとする青春物語だが、『ぺとぺとさん』は田舎町を舞台に中学生であり妖怪でもある少女をヒロインとする青春物語である。
『かみちゅ!』の製作スタッフはその重なり具合に大いに気を揉んだとか。

この物語の世界では妖怪が「特定種族」と呼ばれ市民権を得て人間と共存している。
舞台となるのどかな田舎町、鮎川町の中学校では人間と妖怪が同じ教室で教育を受けている。
その学校に通う妖怪たちは、見た目には人間と変わらない姿をしている。
そんな鮎川町に、妖怪「ぺとぺとさん」の少女、鳩子が転校してくる。
「ぺとぺとさん」は好意を持った相手に触れるとぺとっとくっついてしまうという妖怪。
明るく素直で人なつっこい性格の彼女は「ぺと子」とあだ名をつけられ、クラスメイトや住民に温かく迎えられる。
ぺと子とクラスメイトの少年シンゴ、カッパの少女くぐるを中心に、彼らの夏の日々が描かれていく。

まず丸っこくてぷにぷにした可愛い絵柄が目を引くが、キャラクター原案が YUG、キャラクターデザインと総作画監督がとみながまりという名前に納得。
実は私、中学生のときからとみながまりのファンで、作画監督って役職を初めて知ったきっかけが「作画監督とみながまり」なんである。

物語の進行は1話1エピソード式ではなく連続もの。
仲違いした姉妹の和解、妖怪を嫌う人物との和解、少年少女の淡い恋心といったエピソードが放送回をまたいで展開されていく。
物語全体としてはジュブナイルものっぽいけれど、「萌え」を強調した演出が強め。
妹キャラが沢山登場する上に、くぐるはツンデレキャラとしてぺと子とシンゴとの間に恋の三角関係を作る。
お色気ユーモアなシーンもいくつかあって、初っ端からいきなりかましてくれるので、何も考えずにお子様にもどうぞ、とは言いづらい気がする。
「ぺとっとくっつく」というぺと子のキャラクター設定はぺと子、シンゴ、くぐるの三人が親密になるきっかけとして物語の最初の方で使われるくらいで、大して活用されない。

個人的に流暢な方言を話す少女キャラクターには点数が高くなってしまうので、違和感のない関西弁を話すぺと子、博多弁を話すくぐるの好感度は高い。
逆に妹キャラはぬりかべのこぬりちゃんを除いてはあまり訴えてくるものがなかった。

田舎町が舞台ではあるが、単に田舎というだけで、ノスタルジックな雰囲気が強調されるような演出はない。
モデルとなる特定の町がある様子でもなく没個性的で平板。
この点、工夫の余地があったのでは。

今時の新作アニメなのに画面が4:3なのは残念。

積極的にオススメするほど秀でた部分があるわけではないけれど、絵柄に魅力を感じる人や、ほのぼのとした淡い恋物語が好きという人には悪くない作品だと思う。
「2005年ジュブナイル萌え系アニメ対決」として『かみちゅ!』と『ぺとぺとさん』を比べるならば、『かみちゅ!』に軍配を上げる。

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公式長編記録映画 日本万国博

泣けてきた。
何だよ、この2006年よりも、1970年の人々が思い描いて作り上げた「理想の未来」の空間の方がよっぽど魅力的じゃないか。

『公式長編記録映画 日本万国博』はその名の通り、1970年に開催された日本万国博覧会の模様を記録した映画で、1971年に公開された。
1971年度日本映画興行成績第1位だそうだが、その割に映画批評の俎上に上がらず黒歴史になっている気がする。
パッケージに「このディスクには、オリジナル素材に起因するお見苦しい部分、お聞き苦しい部分がありますことを、あらかじめご了承ください」とあり、これがまずかったのだろうか。
民族衣装に身を包んだエチオピア館の職員と記念撮影を繰り返す日本人客に、女性のナレーターいわく「これでは日本人がカメラ気違いと言われても仕方ありませんね」。
つんぼ、めくら、かたわといった言葉がテレビで堂々と流れてた時代だからなあ……。

DVD としてはモノラル音声だが、画質は最高レベル。
16:9 スクイーズとレターボックスの併用によるシネマスコープサイズ収録となっていて、片面2層ディスクにより高いビットレートを維持している。
フィルムの状態もマスタリングも素晴らしいのだろう、糸くずや筋状のノイズがほとんど見当たらない。
WinDVD 7 の TrimensionDNM を使うと効果絶大で、まるで VTR 映像を見るかのように滑らかでリアルな映像を見せてくれる。

まず映画はアフリカ人による打楽器の演奏シーンから始まり、世界中の人々のスチル写真が次々と映し出されたかと思うと、万博会場の建設の模様が手短に映し出される。
千里の丘は、少しばかりの棚田以外は青々とした林である。
会場が完成しても周囲はまだ開発が進行中の田園風景。
今じゃ後ろの山までカビのように住宅に侵されて見苦しい限りだが。
そして場面は開会式へ。
昭和天皇も今上天皇も若い。
後になって登場する皇太子・秋篠宮殿下に至ってはラブリー。
現在のお姿と対比するとため息が出る。

開会式が終わると、各国のパビリオンの模様や音楽・ダンスといった民族芸能が次々と映し出していく。
173分にもわたる映画作品なので、真ん中あたりにインターミッションも入る。
後半は万博運営の裏方さんたちの模様も織り交ぜつつ、再び各国の展示やパフォーマンスが映し出される。
日本館や各協賛企業のパビリオンの模様から場面はついに閉会式へ。

結末は寂しい。
人影のない万博会場をバックに、小学生の書いた詩が朗読される。
そこに記された能天気な希望に、未来人である私は苦笑せざるを得ない。
もう祭りは二度と来ないのだ。
あなた方がいる「そこ」が最高なのだ。
夢は消え去り、不安に満ちた「今」がやってくるだけなんだぜ。

USJ よりも、行ったことはないけれどディズニーランドよりも、私は1970年のこの万博会場に行きたい。
これこそ地上に現れた最後の楽園ではないかと思う。

不満点を挙げるとすれば、日本人の格好がダサいことだ。
これだけは日本人も進歩した。

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『プルーフ・オブ・マイ・ライフ』( Proof )は2005年のアメリカ映画で、戯曲を映画化したものらしい。

かつて天才数学者と賞賛されたが精神を病んだ父親。
主人公の女性キャサリンは、大学を中退してシカゴで彼と二人暮しをしていた。
しかし父親が亡くなり、キャサリンも父の病を受け継いだかのように精神的不安定さを見せる。
葬儀のためニューヨークから帰ってきた姉は、ニューヨークで一緒に暮らそうと持ちかけるが、キャサリンは拒絶する。
そんなキャサリンも、父の弟子である若き数学者ハルの愛の告白を受けて彼に心を開き始めた。
しかし父親の部屋から、歴史的な大発見となる数学の証明が記されたノートが見つかり、事態が大きく動き出す。
――といった感じのお話。

父親が生きていた頃のキャサリンの記憶がフラッシュバックして、現在と頻繁に行き来する。
そこで新たな事実が提示され、観客におっと言わせるという構成。
見事に乗せられたなあ。

癇癪を起こしたときにキャサリンが捲くし立てる台詞も楽しい。
舞台劇のノリだ。
キャサリン役の人のみならず、みな演技が秀逸。

既に指摘されていることだけど、原題通りタイトルは『プルーフ』だけでいいと思う。
キャサリンの自分の人生の証明のみならず、数学の証明、心の証明といった複合的な意味が込められているのは明らかだし。

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夫が転落死した元航空機設計士の妻が、彼の遺体とともにベルリンからニューヨークへ向かう飛行機に搭乗する。
機内で少し眠ってしまった彼女が目を覚ますと、共に搭乗したはずの6歳の一人娘の姿が見えない。
必死に機内を探すが、娘はどこにも見当たらない。
乗客も娘の姿は見ていないと証言する。
それどころか、乗務員いわく乗客名簿には娘の名前が載っていないという。
果たして娘はどこに消えたのか。
それとも心労が彼女に娘の幻影を見せていたのか……。

そんなサスペンス・ミステリー映画が『フライトプラン』
個人的に期待していたのだが、見事に期待はずれだった。
着想はいいのだけれど、その答えは説得力に欠ける。
杜撰というか、ツッコミどころが多すぎる。
それは本筋の謎以外にも言えること。
物語の点で言えば、わざわざ映画館に行ってまで観るべき作品ではない。
サスペンス映画らしく不安感を煽るカメラワークが随所にあり、「これどうやって撮ったんだろう?」と思わせるアクロバティックなところはあったが……。

誰かと一緒に観て、観終わってからお互いに作品の粗探しをするというのが本作品の正しい鑑賞法かもしれない。

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ロマン・ポランスキー監督の映画『オリバー・ツイスト』( Oliver Twist )。
原作は19世紀のイギリスの国民的小説家、チャールズ・ディケンズの同名小説。
ロマン・ポランスキーもチャールズ・ディケンズも知っているのは名前だけ、という状態で観た。

物語は非常にシンプル。
舞台は19世紀のイギリス。
救貧院に連れてこられた孤児の少年オリバー・ツイストだったが、食事のおかわりを求めたために救貧院を追放される。
で、いろいろと苦難の道を歩む。
しかし素直で清廉な心を失わず、金持ちに拾われてハッピーエンド。
それだけ。
非常にベタベタですな。
序盤で大人たちが「いつかこの子は絞首台に上ることになる」って台詞を繰り返すもんだから、救いのないまま死ぬ告発劇かと期待したのだけど。

見所と言えば、19世紀のロンドンの町並みを再現したオープンセット。
貧民たちが身を寄せ合うように住む汚い都市空間が映画的リアルさで描かれている。
(実際は路上にゴミが積もり空気は煤煙で汚かったはずだが、さすがにそれをそのまま描くと観るに耐えない。
日本の時代劇でお歯黒が描かれていないようなものだろう)
あとはオリバー・ツイストを演じている子役の少年と、子供にスリをさせて暮らす老人フェイギンを演じた男優の演技くらいかな。

オリバーは金持ちに拾われてよかったかもしれないけれど、他の孤児たちはきっといつまで経ってもまともに暮らすことなどできないだろう。
それが気になって「オリバーが幸福を掴んでよかったよかった」とは到底思えないのであった。
まあ、最後の場面になってもオリバーが冴えない表情をしているのはその辺をわきまえているからかもしれないが……。

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お口の恋人と言えばロッテだが、影絵映画と言えばロッテ・ライニガーである。

アニメーション映画の初期の時代に影絵映画を制作したロッテ・ライニガー。
「ロッテ・ライニガーの世界」と銘打たれた彼女の作品の上映ツアーが日本で行われていて、今まさに大阪で上映中ってことで観に行ってきた。
上映は短編『カルメン』『パパゲーノ』『ガラテア』の3作品と長編『アクメッド王子の冒険』1作品という構成(順番も同様)。
すべてモノクロのサイレント映画である。

基本的に人物はシルエットで描かれ、顔の表情は描写されない。
キャラクターの感情表現は仕草に頼ることになる。
ところどころカクカクして不自然なところがないわけではないが、上手に動きをつけていて感心した。

『カルメン』(1933年)

ビゼーの歌劇『カルメン』を元にした短編作品。
物語展開は字幕での説明が一切なく、音楽のみ。
ゆえにシンプル。
原作と違って結末は大団円になる。

『パパゲーノ』(1935年)

モーツァルトの歌劇『魔笛』を元にした短編作品。
最初から最後まで歌つきなのだが、恐らくドイツ語なんで何を言ってるのかは判らない。
でも物語は単純なので平気。

『ガラテア』(1935年)

スッペのオペレッタ『美しきガラテア』を元にした短編作品。
神話のピグマリオン伝説ではピグマリオンと彫像ガラテアは結ばれるが、この作品では「人形性愛者キモーイwwwキャハハハハwwww」とばかりにピグマリオンは相手にされず大騒ぎになるというドタバタ劇。

『アクメッド王子の冒険』(1926年)

1926年制作の長編アニメーション映画。
日本はようやく昭和に入ったころだってのに大したもんだ。
モノクロ映画だが恐らくフィルムに彩色してあるのだろう、背景は色つきだ。
鮮やかで独特の雰囲気を作り出しているが、MPEG2 で圧縮したら変なノイズで台無しになりそう。

物語はアラビアンナイトを元にした荒唐無稽な冒険活劇で、全5幕だったかな。
間に字幕画面が入って物語展開の説明がある。

魔法使いが魔法で作った「空飛ぶ馬」にアクメッド王子が乗せられ、魔法の国ワクワクに飛ばされる。
王子はワクワクの女王パリバヌーに惚れてしまい、脅迫まがいで彼女を自分の国に連れ帰ることにし旅立つ。
帰りの道中で二人は脱獄した魔法使いに襲われ離れ離れになる。
一方、魔法のランプの力でアラジンは王子の妹ディナルザデーと結婚するが、魔法使いのせいで宮殿と妻が消えてしまう。
王子はアラジンと出会い、魔法使いの宿敵である魔女の助けを借りて魔法使いとワクワクの魔物を倒す。
パリバヌーを奪還した王子は再び現れたアラジンの宮殿に乗り、アラジンとディナルザデーとともに祖国へと帰還する。

魔法の描写でただの影絵ではない、ウネウネしたおどろおどろしい化け物や精霊が登場するのが面白い。
ガラス板に描いて撮影したのだろうか。
物語は唐突でご都合主義な展開が続いてずっこけそうになるが、民話が元だから仕方ない。
東南アジアでは伝統的な影絵芝居があって、神話を元にした物語を上演していると聞く。
こんな感じなのだろうか、とぼんやり思った。

ところで、実は私はシルエットという奴が苦手で、見ていると怖くなってくる。
『ポートピア連続殺人事件』の一シーンはトラウマである。
しかしロッテ・ライニガーの一連の作品は平気だった。
背景もシルエットで描かれてにぎやかだったり、人物が動いたりするのが恐怖感を和らげているのかもしれない。
作品のカット写真を見つめていると落ち着かなくなってくるし。

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市民ケーン

最近ワゴンセールでクラシック映画の DVD が1本500円で売られているのを目にする。
その中に、以前から「観なきゃなあ」と思っていた『市民ケーン』( CITIZEN KANE )があった。
もともとアイ・ヴィー・シーから発売されていたものを買おうかと思っていたのだが、「画質が悪い」との評判だったので買うのを躊躇していた。
まあ500円なら画質が悪くてもいいか、と思い購入したのだった。

『市民ケーン』というと、映画評論家に名作映画を100本挙げろと言えば必ずその中に挙げられるに違いない映画である。
1941年の作品で、監督・脚本・主演をすべてオーソン・ウエルズが務めている。

作品の内容は、アメリカの新聞王ケーンという架空の人物の生涯を描いたもの。
ケーンは世界恐慌をきっかけに没落し、荒廃した邸宅で「バラのつぼみ」という言葉を残して世を去る。
「バラのつぼみ」の謎を解くため、一人の新聞記者がケーンの過去を知る人々のもとを訪ねていく。
そこで幼少期、青年期、中年期、老年期それぞれのケーンの姿がフラッシュバックして、再現ドラマ風に描かれることになる。

現代映画に慣れてしまったせいかもしれないが、私個人は手放しに名画だと賞賛する気にはなれなかった。
部分的には興味深いところはあったのだが、90分くらいで退屈になってしまい一旦再生をストップしてしまった。

印象深かったのは、まず、ケーンの最初の結婚生活が描かれるところ。
食卓のケーンと妻を対比的に捉えたショットが次々と切り替わっていき、二人の関係が冷めていくのを表現したシーンだ。
次にオペラの上映シーン。
舞台の高さからカメラがどんどん上昇して天井裏のスタッフの地点まで至り、そこでスタッフが女優の演技に嫌悪を示して自らの鼻をつまむというところ。
ともに映画技術の教科書に出てきそうな、映像的インパクトのあるシーンだったと思う。
ケーンの青年期から老年期に至るまで一人で演じきったオーソン・ウエルズのメーキャップと演技も見所だろう。

この DVD で残念なのは、やはり画質がよくないことだ。
ケーンの邸宅が映し出される冒頭の導入部は全体的に黒く潰れてて看板に書かれた文字が良く見えない。
最後の「バラのつぼみ」の種明かしも、日本語字幕がなかったら判りづらい。
その日本語字幕も DVD の字幕機能ではなくて、マスターに直接つけられた字幕。
しかも劇場での上映用の、あの独特の字体だ。
クラシック映画の雰囲気を盛り立てていると言えなくもないが、やはり読みづらい。
500円だから仕方ない、と割り切るしかないだろう。

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ロアルド・ダールの小説『チョコレート工場の秘密』は有名な作品らしいのだが、児童文学とはあまり縁のない人生を歩んできたもので、読んだことがない。
その『チョコレート工場の秘密』を映画化したのが『チャーリーとチョコレート工場』( Charlie and the Chocolate Factory )。
面白そうだとアンテナが反応したので、「原作が有名」「ティム・バートンが監督」「チョコレート工場に入る話」という知識だけ持って映画館まで観に出かけた。

物語はシンプル。
世界中にチョコレートを売り出しているウィリー・ウォンカの巨大なチョコレート工場には従業員が全く出入りしておらず、その内部は謎だった。
ある日ウォンカはチョコレートに招待券を封入し、招待券が当たった子供をチョコレート工場に招待の上、自ら工場を案内すると告知する。
招待券は世界でたったの5枚。
招待券を手に入れようと、世界中が大騒ぎになる。
ウォンカのチョコレート工場がある街に住む貧しい少年、チャーリーは偶然招待券を手に入れ、工場の内部に入ることになった。
そこは小人の民族「ウンパ・ルンパ」が働き、チョコレートの川が流れる奇想天外な世界。
チャーリーを除く4人の少年少女たちはウォンカの指示に従わず自分勝手にふるまったせいで、一人また一人とツアーから脱落していく。
果たしてウィリー・ウォンカの目的は何なのか。
そしてチャーリーの運命は?

最初から最後まで、惜しみなく CG を駆使して描かれる作品世界はさすが迫力十分。
今時の娯楽映画だ。
見学ツアーの子供たちが悪さをするたびに流れる「ウンパ・ルンパ」のミュージカルも曲調に変化があって飽きない。
「ウンパ・ルンパ」の顔つき(全員顔が同じ)がラジニカーントを髣髴とさせるので『ムトゥ 踊るマハラジャ』を思い出し、座席にありながらも手足が自然に動き出してしまう。
お気に入りは『2001年宇宙の旅』をパロディにしたシーン。
作中の TV 画面に類人猿が映ったところでニヤリとしたが、まさかあそこまでやってくれるとは。
私一人、笑いを堪えて大うけしていた。
キャスティングも良好。
クソガキとその親が、いかにもそれというハマリ具合だ。
リアリズムを持ち出すといろいろツッコミどころはあるのだが、そこは野暮ってものだから控えておこう。

にらんだとおり、映画館まで足を運んだ甲斐のある楽しい作品だった。

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30 octobre 2005

『ルパン』を観た

今年2005年はジュール・ヴェルヌが亡くなってから100年目にあたるのだが、フランス娯楽小説のもう一人の雄、モーリス・ルブランの「アルセーヌ・リュパン」シリーズ第一作が世に出てから100年目でもあるという。
それにあわせて製作されたのかどうかは知らないが、そのリュパンが映画化されたというので観に行ってきた。
その名も『ルパン』( Arsène Lupin )。
ストレートな題名ですな。

私はモーリス・ルブランの原作小説は読んだことがなくて、おそらく多くの日本人(の若者)と同様、孫の方が遥かに馴染み深い。
「じっちゃんの若い頃の大冒険」という感覚で観た。

舞台は19世紀末から20世紀初頭、「ベル・エポック」の時代のフランス。
幼いアルセーヌ・ルパンは貴族である母親の姉の邸宅で、母とボクシングの教師をしている父とともに暮らしていた。
ところが父の正体は泥棒。
正体が露見して父は馬を奪い逃亡するが、密かに舞い戻って母親の家の財宝、「マリー・アントワネットの首飾り」を盗むようアルセーヌをそそのかす。
アルセーヌは父の指示に従って首飾りを盗み出し、父に手渡す。
父が泥棒ということで母とともに邸宅を追放されたアルセーヌだったが、その道すがら、馬と顔を潰された死体に遭遇する。
その死体の指には、父の指輪があった。

15年経ち、アルセーヌは立派な泥棒に成長。
従姉妹のクラリスと再会したアルセーヌは名前を変え、かつて暮らしていた邸宅に武術の教師として戻ってくる。
クラリスと相思相愛の仲になったアルセーヌだったが、ある日クラリスの父が秘密の会合に参加しているところに遭遇。
そこで彼は王政派が、フランス王家の隠し財宝の在り処を示す十字架を集め、その財宝の力で王政復古を狙っていることを知る。
さらにその会合ではかつて十字架の一つを盗んだカリオストロ伯爵夫人ジョセフィーヌが弾劾され、彼女は処刑されることになる。
ジョセフィーヌを救出したアルセーヌは彼女の色香に惹かれ、クラリスそっちのけで十字架集めに乗り出す。
アルセーヌの前に立ちはだかるのは、かつてジョセフィーヌと関係を持った王政派のメンバー、ボーマニャン。
彼の言葉によってアルセーヌはジョセフィーヌに疑念を抱くようになる。
果たして父の死の真相は?
財宝の在り処は?
ジョセフィーヌの正体は?
謎を追いながら物語は進んでいく。

絢爛な時代劇の上にアクションあり、ロマンスあり、ミステリーありと娯楽性たっぷり。
空撮や CG を駆使したカメラワークはまるでハリウッド映画みたい。
俳優陣もいい味出した役者揃いだ。
ルパン役の兄ちゃん(ロマン・デュリス)は最初違和感があったけど、話が進むにつれてその濃いツラが馴染んでいって「こいつこそルパンだ!」という気にさせられた。
特に顎のラインが「孫」を思い出させてくれる。
カリオストロ伯爵夫人役の人(クリスティン・スコット・トーマス)も胡散臭さ溢れるオバハンそのもの。
クラリス役の姉ちゃん(エヴァ・グリーン)も、いかにもヒロインっていう清楚な美人っぷり。
短いシーンだけどナース姿がたまりません。
ボーマニャン役のおっさん(パスカル・グレゴリー)はブルース・ウィリスとショーン・コネリーを混ぜ合わせたパチモンみたいな感じのツラ。
どっかで観たことがあるなあという気がしたのだが、キャスト紹介を読んだら『海辺のポーリーヌ』に出演していたというじゃありませんか。
早速学生時代に使っていたフランス語の教材(『海辺のポーリーヌ』のシナリオを抜粋して教材にしている)を見たら、確かに居る!
というか若っ!
これが髭ヅラのハゲ親父になってるんだから、ポーリーヌ役のアマンダ・ラングレもきっと悲しいことになってるんだろう。
あのピチピチムチムチしたアマンダ・ラングレは可愛くてエロかったんだが。

そんなわけで『海辺のポーリーヌ』の DVD が欲しくなってきた私であった。

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お父さんのバックドロップ

私は子役という奴がどうも苦手である。
TV や映画での子役は言葉遣いがたどたどしいだけでなく、大抵関東言葉で話す。
子供が芝居をしているということが露骨に伝わってきて、自分が勝手に設定している「子供らしさ」からの乖離が著しいせいか、非常に不快なのだ。

大阪から関東方面に旅行したときに、周りの見知らぬ人々が関東言葉を話しているのも不愉快だが、「郷に入れば郷に従え」の精神で耐え忍ぶ。
関東言葉を話す知人については正直なところあまり気持ちのいいものではないが、諦めるのは容易い。
しかし、転勤族の子供だろうか、地元大阪で関東言葉を話す子供を見かけると蹴り飛ばしたくなる。
もちろん実際には蹴り飛ばしたりはしないけれども。

さて、映画『お父さんのバックドロップ』である。
主人公は小学生の少年、一雄。
母と死別した一雄は、1980年、東京から父方の祖父が住む大阪へと引っ越してくる。
一雄の父、牛之介の職業は、弱小プロレス団体「新世界プロレス」のプロレスラー。
学校行事のときにも、母親が死んだときにもプロレスの試合に出ていた父親を、そしてプロレスを、一雄は嫌っている。
大阪でできた友達にも、父親がプロレスラーであることを秘密にするよう頼む。

盛りの過ぎたプロレスラーである牛之介は、「新世界プロレス」の経営不振のため、悪役へと転向。
その姿が TV 中継され、一雄と母親の姿が記録されたビデオテープの上に祖父が試合の模様を録画してしまう。
さらに一雄は友達に父親がプロレスラーであることを同級生に暴露される。
同級生にからかわれた一雄は暴力沙汰を起こし、迎えに来た牛之介も拒絶する。

折りしも日本にブラジルの世界空手チャンピオンが来日。
誰の挑戦でも受けるという彼に、牛之介は無謀な戦いを挑む。
プロレスラーとしての誇りのため、そして、一雄に尊敬される父親であるために……。

物語としては先が読めるありふれたなもの。
ビデオデッキが当時のローディングタイプだったり、牛之介の通う焼肉店の壁にバファローズの法被がかけてあったり、バファローズアワーやバファローズナイターのポスターが飾られていたり、当時のバファローズやタイガースのプレイヤーが写ったカレンダーがあったりと小道具は細かい。
原作者の中島らもが端役で出演し、事故で亡くなる直前の姿を見せているのが切ない。

しかしこの映画の売りは、一雄を演じる神木隆之介である。
誰が何と言おうと神木隆之介。
女の子みたいに柔和な顔つき、なよなよした仕草、白い肌、サラサラの髪、澄んだ声。
可愛過ぎる!
この破壊力はそんじょそこらのグラビアアイドルなんか軽く凌駕する。
男の子だけど抱きしめて頭をなでなでしてあげたい。
関東言葉なのは気に入らないが可愛いから許す。

そう、周囲の登場人物はみな大阪弁を話すのに、一雄だけはかたくなに関東言葉を話す。
それは東京での母との生活を忘れられないからであり、父と父の育った土地を受け入れたくないからだ。
しかしラストシーン、牛之介との和解を果たし、秘密を破った友達とも仲直りした一雄は、ついに大阪弁を話すようになる。

ああ萌え萌え。
僕はもうダメです。

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「映画バトン」を拝領。
そんなに数多く映画を観ているわけではないので大したことは書けないけれど。

設問が別の blog で見かけたものと大分違って、抽象的だなあ。

1 心に残り続ける映画

『2001年宇宙の旅』( 2001: a space odyssey )

2001年宇宙の旅


1968年、アメリカの作品。
SF 映画の最高傑作。
私の中では、後にも先にもこれを越える SF 映画はない。
技術的にはどうあれ、商業映画として制作不能だろう。

幻想的であり、荘厳であり、詩的である。
抑制された台詞と効果的に現れるR.シュトラウスの音楽が、観る者を宇宙の深淵、神性へと誘う。
お陰で人によっては観てる途中で眠ってしまうのだが。
一度でいいから、映画館の巨大スクリーンと整った音響設備でこの作品を観たい。

ちなみにフランスでの題名は「 2001 : L'Odyssée de l'espace 」。

『ブレードランナー』( Blade Runner )

ブレードランナー 最終版

1982年、アメリカの作品。
SF 映画にしてフィルム・ノワール。
この作品の近未来描写が以後の映像作品に与えた影響は大きい。
20年以上経ってもちっとも古びていない傑作。
映像上で象徴的な仕掛けがあちこちに成されているのも見逃せない。
DVD が絶版なんて世の中間違っている。

ちなみに『ブレードランナー』は劇場公開・ビデオ販売にあたっていくつかのバージョン違いがあることで有名。
私は「完全版(ヨーロッパ劇場公開版)」の LD ( NJL-20008 )と「ディレクターズカット版」の DVD を所有している。

『ガメラ 大怪獣空中決戦』

1995年、日本の作品。
自分で金を払って映画館で観た初めての映画ということで記憶に残る。
旧来の怪獣映画より描写が大幅に格好よく、リアリティが高かった。
昔の「ちびっ子の味方」なガメラと違って、大人も楽しめるエンターテイメント作品だったと思う。

2 愛する人と観たい映画

思いつかない。
語りえぬものについては、沈黙せざるをえない。

3 震えたホラー映画

『2001年宇宙の旅』( 2001: a space odyssey )

1968年、アメリカの……
……いや、これ本当。
子供の頃に TV 放送されていたのをたまたま観たとき、超然と立つモノリスをバックに流れる「レクイエム」や、赤い眼でじっと船員を見つめる HAL 9000 の姿が何とも恐ろしかった。

『風が吹くとき』( When the Wind Blows )

1986年、イギリスの作品。
アニメーション作品である。
田舎で静かに老後を送っている夫婦がラジオで戦争勃発を知る。
彼らは政府の指示に従って核シェルターを作り、避難の準備を始める。
そして敵国の核兵器が炸裂。
家は滅茶苦茶に壊れるが、核シェルターに避難したお陰で夫婦は助かる。
しかし放射線障害が彼らを蝕んでいく……。
小学生の頃だったか中学生の頃だったか、TV の「アニメ大好き!」で放送されていたのを観たのだが、ひたすら淡々とした描写が怖かった。
DVD 化されていないのが残念。

いわゆるホラー映画については、私は怖がりなので観ない。

例によってバトンはここで終わります。

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キル・ビル Vol.2

『キル・ビル Vol.1 』は去年に劇場で観たが、『キル・ビル Vol.2 』は安売りされていた『 Vol.1 』とのセットの DVD で観ることとなった。

『キル・ビル』の物語は単純。
かつて所属していた暗殺団から抜け出し、過去を隠して結婚式に臨んだ暗殺者の女が、暗殺団の仲間に見つかり襲撃を受ける。
奇跡的に助かった彼女は、自分を殺そうとした暗殺団のメンバー5人に復讐を行っていく。
『 Vol.1 』と『 Vol.2 』がそれぞれ前編、後編となる構成だ。

『 Vol.1 』はヤクザ映画へのオマージュなのか、日本のヤクザ界に君臨するメンバーの一人を斬るため、主人公が料亭で大チャンバラを行う。
途中でアニメーションが入るわ、血が吹き飛びまくるわ、やりたい放題にやってる破天荒な表現に苦笑している間に酩酊感に包まれるバイオレンス映画だった。

『 Vol.2 』は一転、西部劇とカンフー映画へのオマージュを織り込みつつも、ドラマが前面に出てきている。
子供には見せられない暴力描写や、現実にはあり得ないようなぶっ飛んだ展開はあるけれども、『 Vol.1 』に比べれば大人しい。
タランティーノのことだからきっと最後にどんでん返しを食らわしてくるだろうと身構えていたが、食らったのは肩透かしだった。

誰かの言葉をそのまま借りれば、「金をかけてマンガをわざとB級映画に仕立て上げた」ようなヘンテコな作品。
こういう映画を作れるってのは、それはそれで一種の天才だ。

それにしても主役のユマ・サーマンって、あるシーンでは美人に見えるけれど別のシーンではすごく不細工に見える。
不思議な女優だ。

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Triumph of the Will (Sub)

仕事柄、社会の底辺の方々や社会的弱者の方々と関わることが多いのだが、彼らには一般的な常識は通用せず、私に激しいストレスを与えてくださる。
いっそナチスが政権を取って彼らをガス室にぶちこんでくれないだろうかと、外道な感情が湧いてくる。
もちろんそれは高校生じみた幼稚な発想であって、抑圧しなければならないものである。

だからというわけではないが、映画『意志の勝利』( Triumph des Willens )を観た。
この作品は日本では商品化されていない。
その理由は恐らく扱われた題材のせいだ。
1935年のドイツで生まれたこの作品は、1934年9月に行われたニュルンベルクでのナチス党大会を記録した映画なのだ。
だが題材はどうあれ、名画として誉れ高く、いつか観たい作品の一つだった。
アメリカで DVD 化されているのを知って、このたび個人輸入で DVD を入手した。
リージョンフリーなので、日本でも特別なプレイヤーを用意しなくても視聴できる。

実際に観て思ったのは、記録映画のお手本のような作品だということ。
ナチスが政権を獲得して1年が経ち、第一次世界大戦後の混乱からドイツが抜け出していった時代。
人々はナチスに熱狂し、陶酔している。
工夫を凝らしたカメラワークによって生まれる臨場感が、彼らの熱狂と陶酔を観客にも与える。
民衆の生き生きとした表情、若い党員たちの輝く瞳。
ヒトラーの前を行進する、SS (親衛隊)や SA (突撃隊)の一糸乱れぬ隊列。
美しい、と言わざるを得ない。
こいつらは人類史上に残る大罪を犯すことになる連中である。
否定しなければならないものである。
だけれども、美しいと思うこの気持ちは否定できない。
民衆や党員とは対照的に、演説シーンに登場するナチス幹部の姿が美しくないことが唯一の救いだろうか。

危険な映画である。
迂闊に手を出してはいけない。
観るなら『独裁者』と『ショアー』を観てからだと私は言おう。
美しいものが必ずしも正しいものとは限らない、と知ることができる者にのみ、『意志の勝利』は観ることを許される。

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実際に観たのは2週間前なのだけれど、『おねがい☆ツインズ』のお話。

『おねがい☆ツインズ』は『おねがい☆ティーチャー』の続編にあたるアニメーションドラマで、2003年の作品だ。
前作は正体が宇宙人である女性教師と、病を抱えた高校生のラブコメディだった。
今作もやっぱりラブコメディではあるが、前作のような SF 色はほとんどなくなり、普通の人間ドラマに近くなっている。

物語の舞台は前作から2年後の木崎湖周辺。
幼い頃親に捨てられて施設で育った主人公の少年、神城麻郁は自分の出生の手がかりを求めて、木崎湖のほとりの一軒家を借り高校一年生として一人暮らしを始める。
その家は、幼い頃の自分の姿が写った唯一の写真の背景にあった家だった。
前作で当地に巻き起こった UFO 騒ぎを TV 中継で観たとき、たまたまその家が TV に映っていることに気がついたのだ。
写真には彼のほかにもうひとり、同い年ほどの少女が写っていた。
写真にある家に住んでいれば、肉親と思われるその少女にも会えるかもしれない。
もしその彼女が肉親だとすれば、彼女を絶対に不幸にしないと彼は決意していた。

そんな麻郁のもとへ彼と同じ青い瞳を持つ少女、深衣奈と樺恋が別々に訪ねてくる。
彼女たちもまた孤児であり、麻郁の持つ写真と同じものを持っていた。
彼女たちのうち、どちらかが肉親で、どちらかが肉親でないらしい。
押しかけ女房的にやってきた二人の少女だったが、肉親かもしれない人間を追いやることはできないという理由で、麻郁は彼女たちと共同生活を始めることとなる。

予定調和な展開ではあるが、深衣奈と樺恋は共に暮らすうち、麻郁に恋心を抱くようになる。
しかしここで問題が持ち上がる。
麻郁と肉親だとすれば、許されない恋となる。
麻郁と血の繋がりがないとすれば、恋することはできるが、麻郁と共に暮らすことができなくなる。
この葛藤が中心となって物語は進んでいく。

ドラマ性が高く、主人公も目的を明確に据えて自らプログラムの仕事で生計を立てている自立した人物なので、前作のように主人公のヘタレ加減に悶絶することがないのはよかった。
ラブコメのお約束という奴で、ヒロインに対する態度はやはり終始煮え切らないが、我慢できる範囲内だ。

今作でも前作の登場人物たちが脇役で登場するのだが、基本的にギャグ要員なので前作でのシリアスな展開が台無しになってしまっているのが悲しい。
特に前作ではクール・ビューティーだった森野苺が単なる変態キャラクターになってしまっている。
前作でのドラマを経て、彼女なりに人生を謳歌するようになったということなのかもしれないが……。
そして前作同様、一旦シリアスに物語を区切ったあとは、おまけの第13話で胸焼けしそうな程甘たるいラブコメディになるのであった。

見た目もギャグも、「一般人にもどうぞ」とは到底言えないタッチだけれど、「萌え」を基準とするとキャラクターの絵柄は綺麗に描かれている。
「萌えアニメ」が好き、てな人には満足してもらえる出来だと思う。

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確かあれは中学生の頃だったと思う。
美術の時間、彫刻の実習があった。
250ml の缶ジュースくらいの大きさの直方体の石を彫って何か作れというやつだ。
何か楽に彫れるものはないかと思案した私が選んだ題材は、コウテイペンギンだった。
直立して首を肩に埋め寒さに耐えているコウテイペンギンは凹凸が少なくて彫りやすそうだったから。
しかし出来上がった作品は同級生には不評だった。
こんなのはペンギンではないという。
彼らの浅薄な知識にはコウテイペンギンという種はなかったのだろう。
単純に私がヘタクソだっただけだという冷静な意見は心にそっとしまっていただきたい。

そもそもコウテイペンギンは南極大陸を生活圏にするペンギンで、ペンギンの中でも最も体が大きい。
たいていのペンギンは南極のような極端に寒い場所ではなくて、南アメリカ大陸の南端とかニュージーランドとかのもう少し温暖な気候の場所に住んでいる。
しかしコウテイペンギンは何が彼らをそうさせるのか、わざわざ零下数十度の極寒環境で繁殖活動を行う。
その繁殖活動を描いたドキュメンタリー映画が『皇帝ペンギン』( La Marche d'Empereur )だ。
フランスの作品で、原題の意味は「皇帝の行進」である。

観に行ったのは先週の土曜日、梅田ガーデンシネマだったのだが、最後の回の上映開始の直前あたりに着いたらすでに満席。
運良く土曜日は追加のレイトショーがあったので、そちらの回で観ることにした。
しかし整理券入場順は既に70番台と半分以上後だった。
結構な人気である。
ここで上映されていたのはフランス語版。
上映館は結構あるのだがほとんどが日本語吹き替え版なので、客が集中してしまったのかもしれない。

映画は、コウテイペンギンを擬人化し台詞を宛がった物語仕立てだ。
「プロ野球珍プレー好プレー」のみのもんたみたいなものである。
いや勿論、遥かにこの映画の方が詩的だけれど。

冬になるとコウテイペンギンたちは、南極大陸の岩山に囲まれた繁殖地へ向かって行進を始める。
まるで何かに操られているかのように。
繁殖地に集まった彼らは交尾を行い、メスは卵を一つ産む。
餌のある海からは遥か離れているので、この間全員絶食だ。
卵が孵ってからの餌を確保すべく、メスは卵をオスに預け海へと行進を始める。
オスは足の間に卵を抱え、ひたすら寒さと飢えに耐え続ける。
押し競饅頭でブリザードに耐える彼らの姿は『八甲田山』を思い出さずにはいられない。この間に卵が孵ると、オスはヒナに胃の残留物や胃の粘膜を与えメスを待つ。
メスが帰って来ると今度はオスが海へと旅立つ。
メスの確保してきた餌を食べて育っていくヒナ。
このヒナがもう可愛いこと可愛いこと。
萌え死にそうです。
お持ち帰りしたくなること請け合い。
多分本物は臭いだろうけど。
ヒナが自分で海に入れるくらいに育ったところで、映画は終了である。

極端に厳しい環境で生命を育むコウテイペンギンのストイックな生き様を通して、高らかに生命の賛歌を歌い上げる。
コウテイペンギンも凄いが、それに付き合って極寒の中で撮影を成し遂げたスタッフも凄い。
全く大したもんだ。

ちなみに私が最もグッと来たのは、行進から脱落して見渡す限り白い世界を彷徨う一羽。
自分の未来の姿をそこに観るようで。

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リマスター版 トップをねらえ! 《1年間期間限定商品》

『トップをねらえ!』は1988年から1989年にかけて制作・販売された全6話構成のアニメーションドラマだ。
監督・制作は『新世紀エヴァンゲリオン』で一躍有名となった庵野秀明と GAINAX。
当時としてはまだ数少ない、TV 放送ではなくビデオ・LD での販売を目的に作られた作品である。

中学生の頃だったろうか、夏休みともなれば大阪のローカル TV 局、読売テレビでは午後4時や深夜あたりの時間帯に「アニメだいすき!」と銘打って、ビデオ売りのアニメーションドラマをしばしば放送していた。
その中で『トップをねらえ!』を観たことがあるのだが、残念ながら観ることができたのはクライマックスとなる第6話だけ。
それでも感動的なラストシーンは強く頭に刻み込まれたのだった。

その後庵野秀明監督が出世を果たし、数々の記事に『トップをねらえ!』が参照されたため、作品の概略は知ってはいたのだけれど、長らく全編を通して観ることは叶わなかった。
しかし作品が世に出て15年以上経ち、ようやく観る機会を得た。
製造期間限定のリマスター版 DVD-BOX の発売である。
第1話から第6話までの全編に加えて、数多くの特典映像をふんだんに収録し、単品売りのDVD を買い揃えるよりも5,000円ほど安価となっている。
私は DVDirect にて、送料無料の10,483円で購入した。

そもそも作り手がオタクの集団 GAINAX だけあって、SF や 特撮映画、アニメ、マンガ作品からの数多くの引用から成り立っている。
そもそも「トップをねらえ!」という題名からして、往年のスポ根(スポーツ・根性)ものアニメーションドラマ、『エースをねらえ!』にちなんでいることは一目瞭然だ。

物語も序盤はスポ根のパロディである。
主人公タカヤ・ノリコは、宇宙軍の宇宙戦艦ルクシオン号の艦長を父に持つ少女。
西暦2015年、父の率いるルクシオン艦隊は航行中に地球外生命体、宇宙怪獣の襲撃を受け壊滅してしまう。
父を亡くしたノリコは、宇宙怪獣の襲撃に備え設立された宇宙パイロット養成学校「沖縄女子宇宙高等学校」に進学し、パイロットを目指す。
戦闘用の人型ロボットを満足に操れないノリコだったが、ルクシオン号から生還したコーチ、オオタ・コウイチロウに素質を見出され、特訓の中で才能を伸ばしていく。
乗り込んだロボットが腕立て伏せや腹筋運動、シャドウボクシングやタイヤ曳きを行う様は爆笑ものだ。

ノリコは生徒たちに「おねえさま」と慕われるアマノ・カズミとともに、学校を代表して宇宙怪獣討伐のための戦士として、宇宙戦艦エクセリオンに乗り込む。
技量不足のためカズミにパートナー解消を告げられたノリコだったが、艦内で出会った青年、スミス・トーレンとの出会いと別れを通じて、ノリコは成長する。
宇宙怪獣の攻撃を受け、絶体絶命のピンチのエクセリオン艦隊。
単身、最終兵器ガンバスターに乗り込んだノリコは、見事宇宙怪獣を撃退するのだった。

ここで制作当初予定されていた4話は終わるのだが、好評だったため続く2話が制作されたという。
物語はよりシリアスに、より感動的に展開していく。

光速に迫る航行を行っていたため、エクセリオン艦隊が地球に帰還した頃には既に地球では10年が経過していた。
再会を果たしたノリコの親友、ヒグチ・キミコは既に26歳で一児の母である。
そんな折、宇宙怪獣の大集団が地球を目指して太陽系へ接近する。
病に蝕まれたオオタコーチを残し、ノリコとカズミは宇宙怪獣撃退作戦のためガンバスターで出撃する。
作戦から帰還する頃には、地球では半年が過ぎ、余命僅かなオオタは死んでいるかもしれない。
オオタを愛するカズミは耐えかねて作戦を途中放棄しかけるが、ノリコの説得に目を覚ます。
作戦を成功させ帰還したカズミはオオタと結ばれるのだった。
この第5話、ガンバスターの強さは圧倒的である。
これまで登場したどんなロボットアニメのロボットよりも強く、格好いい。
そして笑える。
「なんで防御がマントやねん!」「なんで地上に降ろした手の上に乗って降りてくるんじゃなくて、手の横からドアが開いて降りてくんねん!」とツッコミまくりだ。

そしていよいよ第6話。
すべてモノクロで撮影され、人類最後の決戦の悲壮感とスケールの壮大さを見事に表現している。
結婚直後にオオタと死別し、15年の月日を過ごしていたカズミ。
沖縄女子宇宙高等学校でコーチを務めていた彼女だったが、銀河中心に巣くう宇宙怪獣殲滅作戦のため、ブラックホール爆弾のパイロットとして出撃。
「銀河中心殴りこみ艦隊」に搭乗するノリコと再会を果たす。
ほとんどを宇宙で過ごしているノリコにとっては、第1話から1年も経っていない。
だが親友キミコの娘は既に沖縄女子宇宙高等学校の生徒となっていた。
時の流れに一人取り残されてノリコは涙する。
銀河の中心に到達した艦隊は、宇宙怪獣の猛攻を耐え抜き、ブラックホール爆弾を発動させる。
しかし宇宙怪獣の捨て身の攻撃のため、不発。
人類の命運もこれまでか?
そこでノリコとカズミはガンバスターでブラックホール爆弾へ向かい、ガンバスターの備える動力炉でブラックホール爆弾を起爆させるのだった。
その後の二人の運命は……観てのお楽しみ。
泣き出す人もいるに違いない。

『トップをねらえ!』を面白いと思う人というのは、オタクな人か、オタクの素養がある人に限られるかもしれない。
展開に性急なところがあるし、絵も今時のアニメーション作品からすればいかにも1980年代的で古臭い。
だけど、一般人を巻き込んで話題となった『新世紀エヴァンゲリオン』よりは一般人にも娯楽作品として楽しめる可能性がある。
少なくとも日本アニメーション史において押さえておくべき良作であると私は信じる。
近頃はアニメーション作品が乱発されて、私なんかもう訳が判らないが、そんな状況で楽しんでいるオタクな青少年諸君には是非『トップをねらえ!』を観て欲しい。
安価に手に入る今がチャンスだ!
買うほどのお金がない人はレンタルビデオかブロードバンド配信で観ろ!(もはや命令形)

ところで今回 DVD で『トップをねらえ!』を観て個人的に衝撃的だったのは、タカヤ・ノリコが大阪市立三稜中学校出身だということ。
無茶苦茶私の家の近所やんけ!
区役所の隣やで!

あとはヒグチ・キミコの主婦姿にグッと来ました。
待ってろ2032年!

関連サイト

GAINAX公式サイト
http://www.gainax.co.jp/anime/top/index.html

『トップをねらえ!』年表
http://www.biwa.ne.jp/~buj/top/history/history.htm

トップをねらえ!引用大全
http://www4.airnet.ne.jp/eggplant/gainax/top/top-p.htm

トップをねらえ!大辞典
http://www2j.biglobe.ne.jp/~maberick/top/top.html

時間の伸び縮み--ウラシマ効果
http://homepage3.nifty.com/iromono/kougi/timespace/node28.html

PS2 ゲーム『トップをねらえ!』
http://www.bandaigames.channel.or.jp/list/ps2_top/

PS2 ゲーム『トップをねらえ!』攻略
http://www.geocities.jp/kinggain/

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19 juillet 2005

『緑玉紳士』を観た

『緑玉紳士』は、大阪は高槻市出身の兄ちゃん、栗田安朗が作ったパペットアニメーション映画。
時間にして48分。
監督、脚本、美術、撮影、編集を一人でこなしたという作品である。

物語はグリーンピースのメガネ商人、緑玉紳士がメガネ好きの悪魔に盗まれた商売道具のトランクを追って悪魔の世界に迷い込み、悪魔と対決してトランクを取り返すというもの。

単純に「すごー」と思う。
パペットアニメーション制作というひたすら根気の要る作業を続けることができるってだけで尊敬に値する。
実際に出来上がった作品も見事だ。
セットは「こんなの一人で作ったのかよ」と目を見張るほど緻密で凝っている。
シーンごとにセットを組まなければならないはずだが、シーン数はケチられていない。
クライマックスとなる悪魔とのバトルシーンもアクション性たっぷりで格好いい。

ただ、台詞なしのパペットアニメーションで48分は少し間延びした感じを覚えたのも事実。
費やされた労力に対して、随分贅沢で失礼な感想かもしれないけれど。

ともあれ、方向性は全然違うけども新海誠に続いて優れた才能が現れたものである。
新海誠みたいにオタク方面には全く受けなさそうだし金儲けできなさそうだが、国際的な評価は栗田安朗の方が勝ち取れるような気がする。
今後が楽しみだ。

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『逆境ナイン』は1989年から1991年まで月刊少年キャプテンに連載されたマンガである。
弱小野球部であるがゆえに校長から廃部を宣告された野球部キャプテン不屈闘志が、克服不可能と思われるような逆境を跳ね返し、野球部を全国大会に導く物語となっている。
私が初めて読んだときはその強引なストーリー展開に、悶絶しながら爆笑し呼吸困難に陥ったものである。
これほど「腹がよじれるほど笑える」という比喩が似合う作品もそうそうないだろう。

その『逆境ナイン』が実写映画化された。
無謀である。
そもそも、マンガが実写映画化されて成功した例など殆どない。
大抵はチープな雰囲気の漂った別物になってしまう。
しかし原作は個人的に思い入れの深い作品であり、長らく時の流れに埋もれていた名作だ。
ファンとしてはそれを掘り起こし、敢えて映画化した蛮勇をこの目で見届けてやるべきであろう。
そんなわけで私は劇場に足を運んだのであった。

ギャグが空回りしている。
予想通りである。
どうも間がよくない。
笑えたのは主人公が「一緒にジャスコに行かないか」とデートに誘うシーンくらいだ。

制作資金が潤沢にあったとは思われないが、その割に CG が多用されている。
別にそこまで CG いらんやろ、というところまで CG が使われている。
原作の持つ、無闇な勢いを表現しようとの意図だろうか。

メインとなる野球のシーンはというと、迫力不足を感じる。
素人考えだけれど、ショットを刻んだ方がバカバカしい格好よさがより一層現れたのではないかと思う。

よかったところを挙げるとすれば、全力学園高校の女子用制服のデザイン。
これは可愛い。
あと、原作者島本和彦がマンガ家・炎尾燃役で出演していること。
「炎の転校生」での歌声と同じ声質が響き、有名人を間近で目撃したときのような、ささやかな喜びの気持ちを得ることができた。
不屈闘志役の玉山鉄二が見せる、原作さながらの表情芸も意外とよかった。

制作費を回収できるところまで観客動員できるか考えると微妙なところだ。
しかし、少なくとも『逆境ナイン』を実写映画化するという難事に挑戦したスタッフには、拍手を送りたいと思う。
お陰で原作も復刊されたことだし。

私もスタッフや作中の登場人物同様、阿呆になってみた。

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それはそれ、これはこれ。

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カレル・ゼーマン作品集

勢いでカレル・ゼマンの『カレル・ゼマン DVDコレクターズBOX 』『カレル・ゼマン DVDコレクターズBOX 2』を購入してしまった私だが、それらを開封する前に『カレル・ゼーマン作品集』から観ることにした。
コレクターズ BOX には収められていない作品、『水玉の幻想』と『盗まれた飛行船』を収録した DVD だ。

『水玉の幻想』

以前劇場で観た際に記したとおり、ガラス人形で作られたパペットアニメーションである。
これを観ることができるってだけでこの DVD は私の宝物だ。

『盗まれた飛行船』

1966年の作品。
実写に書割と切り絵アニメーションとパペットアニメーションを合成して作られている。
カラー作品だが、主にモノクロの映像にカラーのフィルターをかけて、部分的にあるいは全体的に着色したような絵づくりになっている。
カラーフィルムがない時代に、モノクロのスチル写真に絵の具を塗って作られた擬似カラー写真のような感じの映像だ。
これがジュール・ヴェルヌの作品世界をモチーフにした物語によくマッチしている。
さすがにカレル・ゼマン作品を観るのは2回目だから、びびりはしなかったけど感心するには充分だ。

物語は19世紀風のヨーロッパが舞台。
博覧会の会場で実演展示されていた新発明の飛行船を、5人の少年たちが盗んで飛び立ってしまう。
国家は新発明の飛行船の秘密を狙い工作員を暗躍させ、飛行船の行方を追う。
新聞記者もまた、飛行船の行方を追い取材を続ける。
飛行船に乗った当の少年たちは嵐に遭い、無人島に漂着する。
その無人島は、「ノーチラス号」の年老いたネモ船長の秘密基地のひとつだった。
その島の沖で、暴漢たちに乗っ取られた船が座礁する。
少年たちの運命は、そして飛行船を巡る騒動の行方はいかに……という筋書きだ。

古典的なギャグが多く盛り込まれており、牧歌的でユーモラスな冒険譚である。
子供に見せるのにも適した内容だと思うが、いかんせん吹き替え音声がないのは辛い。
大人だけが楽しむのは勿体無いのになあ。

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1979年から1980年にTV アニメーションドラマとして放送された『機動戦士ガンダム』は日本のロボットアニメの代表的な作品。
1981年から1982年には TV 版を編集し新作カットを加えた映画版三部作が制作されている。

その『機動戦士ガンダム』(ファーストガンダム)の続編として制作されたのが『機動戦士Zガンダム』だ。
放送は1985年から1986年。
ちょうど私が7歳から8歳の頃合なのだが、観た記憶はない。
『ガンダム』シリーズは今も新作が TV 放送されるほど人気があるけれど、幼い頃からあまり関心がなかった。
とはいえ大人になってから断片的に映画版を観たり、各種作品に引用されたガンダムネタに触れたりしたお陰で、ファーストガンダムのキャラクターと粗筋は知っている。
その続編の『Zガンダム』が映画化されるというので、後学のために観に行くことにした。
『機動戦士Ζガンダム 星を継ぐ者』である。

前売り券を買ってから知ったのだが、これは完全リメイクではなく、ファーストガンダムの映画版同様、TV 版を再編集したものに新作カットを加えたものだ。
そして三部作の第一作目でもある。
20年前の TV 放送用のフィルムと現在のフィルムが混ざっているわけだが、TV 版部分は絵が荒くフィルムの粒状感が目立ち見苦しい。
制作費用の問題があるだろうが、どうせなら完全リメイクして欲しかったというのが正直なところ。

物語はファーストガンダムの7年後という設定。
TV 放送のダイジェスト版といった感じで、緩急無く戦闘シーンが展開していく。
展開が性急過ぎるため、どういう軍事作戦なのか登場人物の台詞をよく理解できない部分が多い。
説明無く誰だか分からない人物が現れて物語に加わっていくことも多い。
幸いファーストガンダムを観ていたお陰で、「ブライトはミライと結婚したのかー」「フラウ・ボウはアムロとくっつかなかったんだなー」「相変わらずカイは胡散臭いなあ」などといった風に、ファーストガンダムで見知ったキャラクターが続々と登場してくるのを楽しむことができた。
しかしファーストガンダムを観ていない人には誰が誰だかさっぱりわからない作りになっている。

『ガンダム』シリーズについての知識なしにこの映画を観るのはおすすめできない。
単体の映画作品としても苦しい。
昔『Zガンダム』の TV 放送を観たことがある人向けの余興というところだ。
観客の実感としては入場料は大人1000円から1300円程度が適切なラインではなかろうか。

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十二人の怒れる男

『十二人の怒れる男』( 12 angry men )は1957年に公開された映画。
名画の誉れ高く、有名すぎて今更何を語るのかといった感じだけど、やっと見る機会を得た。

舞台は裁判所の陪審員室。
作品のほとんどがこの室内シーンで進行する。
少年による父親殺害事件を評決すべく集まった12人の陪審員。
誰が見ても有罪という状況のなか、ただ1人、疑問を発する男がいた。
陪審員の意見が全員一致でないと有罪の評決は下せない。
彼の主張により凶器のナイフの証拠能力が疑わしくなり、話し合いを重ねるにつれ更に疑問点が浮上。
それに伴って陪審員たちは次々と有罪から無罪へと意見を翻していく。

最初は漠とした印象の陪審員たちだったが、ドラマが進行するにつれて一人一人の素性や性格が浮かび上がってくる。
その演技を行える俳優を揃えるのに殆ど予算をつぎ込みましたといった感じ。
室内という舞台のなか、陪審員が席を立ってあちらこちらと位置取りを変える演出には演劇を見るかのような心地がした。
作品内の時間と上映時間がほぼ同時進行であるというところも演劇的な臨場感、緊張感の一因だろうか。

「どうせ最後には全員無罪にひっくり返るんだろう?」と判ってても退屈せずに引き込まれてしまう。
さすが名画と呼ばれるだけのことはあるな、と実感した一作だ。

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八甲田山 特別愛蔵版

6月に入り大阪は蒸し暑く、エアコンのありがたみを感じるこの頃。
目にも涼感が欲しいなというところでこの一作。
映画『八甲田山』だ。

1902年(明治35年)1月、日露戦争の開戦の2年前。
ロシアとの交戦を想定し、陸軍青森歩兵第五聯隊第二大隊の210人は雪中行軍演習のため、北八甲田連峰(八甲田山)へと向かった。
しかし一行は暴風雪と大寒波に遭遇。
210人中199人が死亡する一大遭難事故となった。
八甲田山雪中行軍遭難事故である。
偶然同時期、弘前歩兵第三十一聯隊も、十和田湖を回って現在の十和田市から八甲田山、青森を通り弘前へ戻る雪中行軍演習を行っていた。
こちらは38人で出発し、1人も死者を出さずに演習を成功させていた。

この史実を元に書かれヒットしたのが新田次郎の小説『八甲田山死の彷徨』。
そしてこの小説を元に制作され、1977年公開された映画が『八甲田山』である。

青森の聯隊と弘前の聯隊が八甲田ですれ違う形で雪中行軍演習を行うよう、軍の上層部から事実上の命令を受けるところから物語は始まる。
(史実では雪中行軍演習は別々の計画で、お互いに相手のことは知らなかったらしい。)高倉健の率いる弘前隊は少数精鋭での編成で、現地住民の道案内を活用し八甲田を目指す。
一方、北大路欣也率いる青森隊は少数編成を計画していたところ、直前に大隊本部が指揮に口は出さないという約束で随行することになり、210人の中隊編成で八甲田を目指す。
両隊を対比させる形で映画は進行していく。

弘前隊は悪天候に苦しみながらも、青森隊との約束を胸に、順調に行軍を進める。
しかし青森隊は八甲田山麓に入るところで、現地住民の道案内の申し出を大隊長が勝手に断ってしまう。
指揮系統の乱れと度重なる判断ミスで青森隊は迷走。
次々と兵士が雪の中に倒れていく。
八甲田に辿り着いた弘前隊が目にしたのは、雪に埋もれた兵士たちと、隊長北大路欣也の亡骸だった。

高倉健、北大路欣也、丹波哲郎、三国連太郎、加山雄三、藤原琢也、緒方拳、前田吟……とキャストは当時の日本映画のスターや実力派揃い。
時間も170分に渡る大作で、多くを雪中行軍のシーンが占める。
撮影は現地で本物の雪の中行われており、役者も演技でなく心底疲労していたことだろう。
行軍中に隊員が見た幻や回想として、冬以外の八甲田の美しい景色が所々に挿入され、雪景色で画面が単調になることを防いでいる。

気になったのは、所々字幕で物語を説明しているところと、隊がどういうルートで進んでいるのか判らないところ。
小説には隊の進んだルートの地図が付属しているので、見比べながら読み進めることができるのだが……。
第二次世界大戦の戦況ニュース映画みたいに進軍ルート図を挿入してくれればなと思った。

ところで、行軍中に発狂して褌一枚になり死ぬ兵士は大竹まことだ、という話を昔聞いたことがある。
有名なシーンでアップにもなるのだが、画面が暗い上に陰影が深く、顔がよく判別できなかった。

ともあれ、日本映画界が大作を作り得たギリギリ末期の時代、その最後っ屁を堪能できる作品である。

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超時空要塞マクロス ~愛・おぼえていますか~

1970年代以降に生まれた男性なら大抵、子供の頃にテレビアニメや特撮ヒーローのおもちゃで遊んだ経験があると思う。
私もいろんなおもちゃで遊んだものだ。
『ウルトラマン』の人形、『キン肉マン』の人形(「キン消し」)、『太陽戦隊サンバルカン』のロボット、『電子戦隊デンジマン』のヘルメット、『戦え!超ロボット生命体トランスフォーマー』のロボット。
そして、『超時空要塞マクロス』の「ヴァルキリー」。

「ヴァルキリー」は作中で主人公の属する軍隊が使用している兵器で、アメリカ空軍の戦闘機 F-14 Tomcat がそのデザインのモデルになっているようだ。
飛行機の形態、飛行機から手足が生えたような形態、人型の形態、の3タイプに変形する。
私の持っていたおもちゃもそれを再現していた。
メーカーの設計者は結構苦労したんじゃないかと思う。

『超時空要塞マクロス』という作品自体は1982年から1983年にかけて TV 放送されたアニメーションドラマ。
ジャンルとしては SF ロボットアニメになる。
制作にはアニメマニア出身の若手スタッフが多数参加。
SF にラブコメ・美少女アイドル歌手といった要素を盛り込んで、世代の近いアニメマニアの支持を得た。
1980年代のオタク文化を語る上では欠かせない作品だ。
小学校にも通っていない頃のことなので、私は物語も判らずヴァルキリーを変形させて遊んでいたけれど、作中に流れていた歌は印象深く記憶していた。

『超時空要塞マクロス 愛・おぼえていますか』はテレビ放送の成功を受けて制作された劇場版映画で、1984年に公開されている。
その10年後の1994年、私は高校生だったが、TV 版の続編となる『マクロス7』の放送が始まるときに、番組宣伝の一環としてだろう、この映画が TV 放送されたことがある。
後半からしか観ることができなかったのだが、そのときに『マクロス』という作品の物語の肝は「歌で敵を倒す」という点にあることを初めて知ったのだった。
その後『マクロス7』の本放送と、『超時空要塞マクロス』の再放送を何話か観ている。

それからまた10年経った先月、唐突に私の中で「マクロス・ブーム」がやってきた。
まず、作中で流れる歌の CD を購入。
そしてとうとう、映画の DVD を買ってしまったのである。

改めて映画の初めから観てみると、どうにも舞台設定を説明出来ていないことに気づく。

映画はまず謎の宇宙人の会話シーンから始まって、超巨大宇宙戦艦マクロスが画面いっぱいに映し出されたあと、アイドル歌手リン・ミンメイのコンサートシーンへと繋がる。
そこでコンサート会場はマクロスの中に作られた都市の中にあって、住民は5ヶ月間そこで暮らしていることやマクロスが謎の宇宙人に度々襲撃されていることが判る。
だがマクロスの航行の目的が何なのか、何故民間人が乗っているのかといったことへの説明が全くなされていない。
TV 版では、マクロスは宇宙から落ちてきた異星人の巨大宇宙船で、地球人の5倍サイズの異星人の存在を知った地球人がそれを10年かけて修復したところ、その異星人の襲撃を受けてマクロスが宇宙へ飛び立つという流れになっている。
映画版ではマクロスは地球から太陽系の外縁にワープしてしまい、地球に帰還しようとしているところという設定らしい。
ちゃんと作中で明示して欲しいものだ。

それはさておき、異星人の襲撃を受けたマクロスは、敵兵の侵入を許してしまう。
防衛軍の戦闘機、ヴァルキリーのパイロット一条輝は上官の早瀬未沙の命令を無視し、侵入した敵兵を追撃。
その途中、襲撃の混乱で孤立していたリン・ミンメイを偶然救出するのだが、コントロールを失ってマクロスの機関部に閉じ込められてしまう。
マクロスは敵を一旦撃退し、二人も救出される。
その事故をきっかけに二人は親密になる。
憧れのアイドルスター、ミンメイにデートの誘いを受けた輝は彼女をヴァルキリーに乗せて宇宙飛行に連れ出す。
ミンメイのマネージャーと未沙も彼らを追って来るが、地球人を生け捕りにして調べようとする異星人に襲われ、援護にやって来た輝の先輩パイロット共々、異星人に捕らえられる。
異星人が地球人よりも遥かに巨大な人間型の生物で、男と女が同じ場所に居ることに驚愕していることを知る輝たち。
彼ら異星人ゼンドラーディは男性のみで構成されていて、戦闘に関する事柄しか知らず文化を持たない。
ゼントラーディは女性なしに人工生殖を行っており、同じく女性のみで構成され文化を持たない異星人メルトランディとの戦闘に明け暮れている。
それゆえに、文化を持ち男女が共存している地球人に酷くショックを受け、歌を聴くだけで戦闘不能に陥る始末なのだ。

輝と未沙の二人は異星人の元を脱出して地球に漂着するが、地球は既に異星人の攻撃を受けて荒廃しており、人類は全滅していた。
ショックを受け初めて弱さと女性らしさを見せる未沙を見て、ミンメイに惚れられているにも関わらず輝は未沙に魅かれてしまう。
未沙もまた、絶望せずに事にあたり優しく彼女を支えようとする輝に魅かれ、二人は結ばれることに。
二人が地球上で発見した異星人の遺跡からの通信により、彼らはマクロスに救助される。実はゼントラーディもメルトランディも、そして人類も、異星人プロトカルチャーの遺伝子技術によって作られた生物なのだった。
遺伝子技術によって男性・女性それぞれが単独で子を作れるようになったプロトカルチャーは、ゼントラーディとメルトランディに分かれて戦争を繰り返した挙句、一部が地球に逃げ延びて人類を作り滅亡したのだ。

ここまでが作品の前半。
後半については簡単に紹介しよう。

輝と未沙はマクロスでミンメイと再会を果たすが、輝は未沙とミンメイを巡って修羅場を迎える。
もはやメロドラマである。
そこへゼントラーディとメルトランディの大規模交戦が始まり、マクロスも戦闘に巻き込まれる。
マクロス側はプロトカルチャーが遺した歌を解読し、その歌を唯一の武器として、人類存亡を賭けた戦いに挑んでいく……。

この最後の戦闘シーンが最大の見どころ。
リン・ミンメイの歌う「愛・おぼえていますか」に乗って、宇宙空間を無数のミサイルと光線が飛び交い、爆発光が瞬き、ヴァルキリーが舞う。
その動きのアクロバティックなこと。
そのスペクタクルの見事なこと。
格好よさに圧倒される。
私は特にロボットアニメが好きって訳じゃないけど、この部分はお気に入りだ。
映画館のでっかいスクリーンで観たかったなあ。

セルフィルムの質感、人物描写、リン・ミンメイの歌と振り付けに時代を感じるものの、一度は観ておきたい作品である。

ところで、輝の声を担当している長谷有洋は1996年にマンションから転落死しているらしい。
飛び降り自殺と噂されているが、詳細は明らかでないという。
知らなかった。
合掌。

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記憶にある範囲では、ウディ・アレンの映画は観たことがない。
でも昔から有名な映画監督だ、というのは知っている。
結構歳取ってるはずだよなあ、と思ってちょっと調べてみると今年で70歳。
それでもまだ現役で監督・脚本・主演を担当して映画作ってるんだから凄い創作意欲だ。
主演はしないがエリック・ロメールも高齢にも関わらず映画作ってる凄い人である。
日本で彼らに匹敵する人物というと、66歳で未だにマンガ連載を複数抱えている水島新司くらいだろうか。

さて、『さよなら、さよならハリウッド』( Hollywood Ending )である。
現在日本で公開中だけど、2002年の作品。
ジャンルとしてはドタバタコメディか。

ウディ・アレンが演ずるのは、かつてアカデミー賞を二度受賞したことがあるが、今ではすっかり落ちぶれてしまった映画監督、ヴァル。
離婚した彼の元妻は映画プロデューサー。
ヴァルの才能を信じている彼女は、新作ハリウッド映画の制作にあたって、恋人の映画会社重役にヴァルを売り込む。
妻を寝取った男と自分を裏切った女のもとで映画は作れない、とヴァルは監督のオファーを断るが、ひと悶着の末ヴァルはその作品の監督を務めることになる。
しかしクランクイン直前、彼は心因性の失明状態になってしまう。
目が見えないことを隠し、何とかヴァルは映画の撮影を進めていこうとする。
映画は無事完成するのだろうか……という物語。

何かに怯えたようにキョドりながら洪水のように喋るアレンはまるで小動物のよう。
ギャグは腹を抱えてゲラゲラ笑うタイプではなくて、苦笑させられるタイプの笑いだ。
最後は「ありえない!」と思わざるを得ないギャグでハッピーエンドになる。
あのオチはアレン流の二重の皮肉だろう。
『さよなら、さよならハリウッド』っていう邦題を付けた人は上手い。

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先日髪を切りに行ったときのこと。
毛を染めている間の時間待ちに、『関西ウォーカー』を読んでいた。
さて次に観に行く映画はどれにしようかな、と映画情報ページを眺めていると、『悪魔の発明』という文字が目に入った。
ダメ学生だったとはいえ、そのへん反応してしまう。
「ヴェルヌのアレか?」と思ったら、ビンゴ。
ジュール・ヴェルヌの小説を原作に、1950年代に発表されたチェコ映画らしい。
今年はヴェルヌ没後100周年。
「ヴェルニアンの端くれとしては観に行かないと」「チェコ映画でヴェルヌ原作ってことはアニメかな」程度の気分で何の前知識もなく劇場に向かった。
運命的な出会いとも知らずに……。

『水玉の幻想』

上映が始まる段になって、初めて『悪魔の発明』との同時上映で『水玉のなんとか』とかいう作品が上映されることを知る。
まずこちら、『水玉の幻想』からの上映。

読解不能なチェコ語(?)のタイトルとスタッフロールが流れたのち、雨がガラスを打ち付けている窓辺が、鮮やかなカラーで映し出される。
フォーカスがゆっくりと変わると、窓辺には親指程度のガラス製の人形が並んでいるのが判る。
カメラが右にパンしていくと、そのガラス人形を見ながらデッサンをしている青年がいる。
どうもデッサンはうまくいかないらしい。
紙が尽き、青年は物思いに耽る。
すると画面は科学映画のように、揺れる水面や波紋、葉の上の雫を映し出す。
雫の中の世界でガラスの熱帯魚が泳ぎだし、窓辺にあったガラスの人形がスケートを始める。

何とびっくり、ガラスを使ったパペットアニメーションだった!

タンポポの綿毛がピエロに変身し、優雅に滑る女性のガラス人形を追いかけていく。
綿毛君はどうやら彼女に恋してしまったらしい。
二人の間にガラスの壁が出現してしまい、前に進めない綿毛君。
彼の頭からピキーンと光の輪が出てガラスの壁は崩れ、破片に乗って綿毛君はガラス人形を追いかけ続ける。
しかし再びガラスの壁が現れて綿毛君は進めなくなり、悲しみに暮れながら彼は綿毛に戻っていく。
綿毛を映し出した水滴は葉から零れ落ち、画面は再び冒頭の青年を映し出す。
全ては青年の空想だったのだろうか……。

後で1948年の作品と知って二度びっくり。
戦後すぐなのにこんなに透明な美しさを込めた作品をカラーフィルムで製作して、今なお色褪せずに残っているとは……。
ガラス人形を使ったパペットアニメーションは後にも先にもこの作品だけらしい。
さすがガラスの国、チェコ。

『悪魔の発明』

間髪いれずに『悪魔の発明』の上映。
スタッフロールが流れたのち、ヴェルヌの本が積まれ、ノートが開いて置かれている机が映し出される。
モノクロ映画だ。
そこに主人公のナレーションが重ねられ、観客は物語へ誘導されていく。

またもびっくり、銅版画が動いてる!
ヴェルヌの小説は分類的には娯楽小説だから、銅版画による挿絵がある。
切り絵アニメーションだろうけど、あの挿絵が動いてるんですよ!
そこに実写の役者が違和感なく合成されて、あたかも本の中のヴェルヌ世界がそのまま目の前に出現したような感じ。
画面全体に縞模様のフィルターがかかっているし、室内の壁や小道具もいちいちご丁寧に銅版画の縞模様が描かれている。
屋外のシーンの背景も銅版画の書割で、わざと奥行感のない、平面的な画面が作られている。
役者をスチル写真にしてアニメーションと合成させているカットもあって、自由自在の特撮だ。

物語は、原爆を予見したとも言われる SFである。
蒸気機関車や自動車が地を走り、プロペラを大量装備した船が空を飛んでいる。
19世紀人が夢見た、科学の勝利した世界だ。
そんな中、「抑圧されたエネルギーの解放」を研究しているが、資金不足に悩んでいる科学者と助手の二人が誘拐される。
誘拐したのは、潜水艦で船を沈め、財宝を強奪している海賊。
科学者の技術を使った発明で、世界を支配しようとしているのだった。
呑気な科学者は、彼らが海賊であることにも研究を悪用しようとしていることにも気づかず、火山島の中に作られた秘密基地で資金提供を受け、研究を続ける。
助手は海賊の正体と目的に気づくが、科学者と引き離された上に軟禁され、科学者の研究を止めることが出来ない。
しかし彼は気球を作り、海賊の陰謀を記したメッセージを大陸に届けようとする。
更に彼は海賊の工事に協力する振りをして、島からの脱出を試みる。
助手の通報を受け、島には各国の連合艦隊が押し寄せて来る。
海賊は科学者の技術を使った超兵器で、艦隊を一網打尽にしようと迎え撃つ。
結末は観てのお楽しみ。

今時の SF 映画を観慣れた人間からすれば、物語の展開とアクションはあまりに牧歌的。
だけど銅版画の世界にはその緩やかさがマッチしている。
せせこましくてせっかちで、CG 頼みの現代人にはもうこんな映画は作れないんじゃなかろうか。

アニメの世界じゃ監督、カレル・ゼマンは有名人で、この『悪魔の発明』は日本でも彼の代表作としてよく知られているとか。
いやはや、今まで知らずに過ごしてきたことが恥ずかしい。
7月には DVD が発売されるようだ。
是非とも買わせていただきます。

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Amazon.co.jp: DVD: ニューオーリンズ・トライアル/陪審評決 プレミアム・エディション

私の先輩が2004年ベスト映画として名を挙げていたのが『ニューオーリンズ・トライアル』( Runaway Jury )。
ジャンルとしては法廷サスペンスである。
原題にもあるとおり、物語は陪審員制度を巡って展開される。

銃乱射事件によって夫を亡くした妻が、大手銃器メーカーを相手取り、犯行に使われた銃の製造・販売責任を巡る訴訟を起こす。
大手銃器メーカーは伝説的な陪審コンサルタントのフィッチを雇う。
フィッチは専門家を集めたチームを指揮し、ハイテクを駆使して陪審員への裏工作に当たる。
そんな中、陪審員の一人、ニックが暗躍を始め、謎の女マーリーの手により原告・被告双方に「陪審員売ります」のメッセージが送りつけられる。
陪審評決の操作は本当に可能なのか。
ニックとマーリーの正体、目的は何なのか。
フィッチは調査と工作に奔走し、評決の時を迎える。

物語の展開のテンポの良さ、スピード感のおかげで退屈なく物語に引き込まれていく。
アメリカ映画だけに善玉・悪玉ははっきりしているのだが、クライマックスまで誰が真の悪玉なのか分からず、緊張感を保って観ることができた。
キャスティングもぴったりだ。

陪審員の選定段階から陪審員の情報を収集し、有利な判決を導こうとするコンサルタント・ビジネスがあるのをこの作品を観て初めて知った。
フィッチのような、専門家チームを組んで陪審員工作に当たる陪審コンサルタントも荒唐無稽のようでいて、実在するという。
従来から言われていることではあるけれど、財力のない個人が財力のある大企業と戦うのは実に難しい状況なのだと思わざるを得ない。

何度も繰り返し見るタイプの物語ではないから DVD を買うほどではないかもしれないが、もしレンタルビデオ店で見かけたら手にとってみては如何だろうか。
きっと損はしないと思う。

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しりあがり寿原作のマンガを、人気脚本家の宮藤官九郎が監督デビュー作として映画化、という触れ込みの『真夜中の弥次さん喜多さん』。

『劇場版 AIR 』を観たときついでに前売り券を買っておいたのだが、原作がマニアックなだけにその時は「客入るんかいな」と訝しく思っていた。
しかし日曜日の梅田ブルク7という場所のせいか、主演男優の人気のせいか、宮藤官九郎の人気のせいか、客席は20歳代の若い女性が多く、概ね満員。
笑いが飛ぶときは黄色い声の笑いであった。

映画の物語をあえて説明するなら、「同性愛者の二人組、弥次さんと喜多さんが江戸から伊勢を目指す旅の珍道中を描いたロード・ムービー」だろうか。
時代劇をなぞりつつも、時代考証とかリアリズムとかといったものはさっぱり横にかなぐり捨てた独特の世界が展開される。
中盤までギャグに笑いの起きた客席も、主人公の二人組が生と死の境目の世界を彷徨う辺りから付いていけなくなり静まっていく。
そして彼らが伊勢に辿り着いたのかは提示されないまま、唐突に映画は終わる。

予算もいっぱい付いたし撮りたい絵を撮るぜ、といったお遊び感覚で勢いのままに撮影された作品ってところかと、観ながらにして思う。
俳優を沢山使っているし、ロケを行った場面もCGを使った場面も多いから金がかかっているのは間違いない。
あえて言うならば宮藤官九郎だから作ることを許されたカルトムービー。
DVD 化されるだろうけど、今のところ買う気は起こらない。
出演している俳優が好きだとか、劇団「大人計画」が好きだとかでも無い限りは、積極的にオススメすることは難しい作品だ。

ところで元々原作にあるのか知らないんだけれど、「生と死の世界を分かつ三途の川を渡れないなら、遡って源流に行ってみれば簡単に渡れるのでは」という発想は素敵だと思った。

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AIR 2 初回限定版

4月27日、TV アニメーションドラマ『 AIR 』の DVD 第 2 巻目が発売された。
第1巻に引き続き、初回限定版を手に入れる。

第2巻には第3話と第4話が収録されており、サブヒロイン霧島佳乃のエピソードがここで終わることとなる。
(全13話を観たわけじゃないから断定はできないけど、原作に沿っていればそうなるはず。)

相変わらず、現在の TV アニメーション作品では最高レベルといえるほど丁寧に作られた作品だ。
あくまで「 TV アニメーション作品としては」という前置きはつくけれど作画枚数を惜しみなく費やして、キャラクターの芝居(体の動き)を豊かなものとしている。
また、カットの構図や長回しに目を引いたり、製作側の意図の存在を強く感じたりすることが何度もあった。

それは DVD の特典である製作スタッフのコメンタリーを聴いてみて、はっきり裏付けられた。
DVD のヒットを見込んで予算が高めに設定されていたのであろうと邪推してしまうが、しかし何と言っても製作スタッフの士気と技術の高さが『 AIR 』を支えているのだ。

早くも第3巻の発売が楽しみである。

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AV Watch に「アニメ映画『劇場版 AIR』の DVD 化が決定」のニュース。

コレクターズ・エディションには特典映像 DVD が付属して、ドラマ CD・サウンドトラック CD が付属せず。
スペシャル・エディションには特典映像 DVD が付属せず、ドラマCD・サウンドトラック CD が付属。

両方買えというんでしょうか。
阿漕な商売やのう……。
大した特典のない通常版で7,140円ってのは如何なものでしょう。
いろいろ大人の事情があるんだろうけど、一消費者としては 4,900円が相当かと。
ファンの足元見てますな。

同じく AV Watch に、「新海誠監督『ほしのこえ』の PSP 用 UMD ビデオ化決定」なんてニュースもありますが、誰が買うんだこんなん。
25分作品だから、DVD からリッピングして圧縮・変換してやればメモリースティックに易々と収まる。
わざわざ PSP でしか再生できないものを買わんでしょう。
1,500円くらいならそこそこ売れるかもしれないけど、多分そんな値はつけてこないと思う。
ちなみに DVD 版の売値はおよそ6,000円である。

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『コーラス』( Les choriste )を観た。

1949年、フランスの片田舎にある、とある児童矯正施設に音楽家くずれの中年教師マテューが赴任してくる。
「池の底」という名のその施設では、専横的な校長の方針により、規則と体罰によって生徒たちが統制されていた。
しかし校長の目の届かないところでは生徒たちは問題行動を繰り返す。
マテューは合唱団を作ることで生徒たちをまとめあげることを思いつき、生徒たちを手なずけることに成功する。
なかでも問題児ピエール・モランジュは類まれな歌の才能を持った少年だった。
面会に来た彼の母親に魅かれたこともあいまって、マテューはピエールを音楽学校に入学させるよう熱心に勧めるのだが、その姿に嫉妬したピエールはマテューに対して心を閉ざしてしまう。
マテューは彼に荒療治を施し、再び心を開かせる。
しかしある日、マテューが施設を離れることとなる事件が学校に起こる……。

素晴らしい教師が問題児たちのいる学校にやってきて、彼らをまとめ更正させ、惜しまれながらも去っていく――物語はお約束というか、ベタというか、目新しさはない。
この映画はピエール役の少年、ジャン=バティスト・モニエの美声が売りだと思う。
日曜日の朝方に放映されている音楽番組で、日本人の少年少女が独唱しているのを見ると何だかムカムカしてくるが、彼の歌はすんなり受け入れることができた。

予告編を観たときは「これは観なきゃ!」と思ったけれど、本編を観ても予告編以上の感慨は得られなかった。
予告編と違って本編がつまらない、というありがちなことではなくて、予告編で全部ネタバレされてるものを、改めて辿っているような気がしたからだろう。
そんなわけで、予告編を観ずに本編を御覧になることをオススメします。

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『サイドウェイ』( Sideways )は中年男二人組のロード・ムービー。

小説家志望のしがない英語教師マイルスは二年前に離婚、前妻に未練たっぷりのダメ男。
自作の小説が出版されるかどうかの連絡待ちの状態。
マイルスの友人、ジャックは落ちぶれた俳優で、プレイボーイ。
一週間後に結婚を控えている。
独身生活最後の記念にと、ワインマニアのマイルスはジャックとともにカリフォルニアのワイナリーめぐりとゴルフの旅に出る。
しかしジャックは女性を口説いて肉体関係を持つのが旅の目的。
ジャックは目論見どおり、ワイナリーで働く女性、ステファニーと親密になる。
女性を口説く意気地のないマイルスもジャックの助力があって、レストランで働くワイン好きの女性、マヤと親しくなるのだが、ジャックが結婚を控えていることがばれて波乱が起こるのだった。

中年男二人を演じる役者が上手い。
特にマイルス役のポール・ジアマッティのいじけっぷり、冴えなさっぷりは素敵だ。
なんでこんな奴に美人が食いついてくるんだろうかと思ってしまう。

観る前はシリアスな映画かなと思ってたけど、どちらかというとコメディの部類。
とはいえ主人公と同年代の、中年に差し掛かった年齢の人が観ると胸にグッとくるのではなかろうか。
一方、中学生や高校生には退屈なんじゃなかろうかと思う。
おっと、PG-15 だから中学生は観ちゃダメだ。
登場人物が旨そうにワイン飲みまくってるのと、下半身についての会話がよく出てくるだけで別に大したことはないんだけど。

ワイン同様、大人になって初めて判る味わいを持った映画と言えましょう。

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AIR 1 初回限定版

Amazon.co.jp では、複数の商品をまとめて発注すると、一番納期の遅い商品が入荷したときに商品が発送される。
例えば「24時間以内に発送」の商品と「3週間以内に発送」の商品をまとめた場合は発送に最長3週間かかる見込みということだ。
ところがその3週間の間に「24時間以内に発送」の商品が売れすぎだとか数量限定品だとかいう理由で版元・製造元で品切れになると、「3週間以内に発送」の商品が入荷したときに「24時間以内に発送」商品はキャンセルになってしまう。
Amazon は余計な在庫を持たず、お客ごとに取り置きをしている訳ではないのでそんな悲劇が生まれるのである。
この罠を回避するためには、注文の際に「入荷次第分割発送」を指定するか、ひとつの注文では納期が近いものごとにまとめるかしかない。
(この手のトラブルについて詳しくは「『月は東に日は西に』予約に関するAmazon.co.jpの対応について」を参照)

先日 Amazon で『 AIR 』の初回限定版 DVD 全6巻を予約注文したのだけれど、うっかりしてて分割発送にするのを忘れていた。
4月からほぼ一ヶ月ごとに発売される商品で、第6巻目の発売は9月である。
ということは、折角予約していても9月まで発送されないのだ。
そして売り切れが生じて全巻揃わない可能性が非常に高い。

そろそろ第1巻目が発売されてるんじゃなかったっけ、と4月9日に Amazon を覗いてみたところ、発売日は4月6日で、初回限定版は既に売り切れていた。
そこで初めて分割発送にしてなかったことに気づき、慌てて注文を分割発送に変更したのだけれど、上記の Amazon の罠を知っていたので半ば諦めていた。
第1巻目のステータスが「発送手続き中、キャンセル不可」となっていても信用できない。
たとえ予約注文であっても「商品を確保できませんでした、ごめんなさい」というメールが届きかねないのが Amazon なのだ。

しかし今回は予約注文分の取り置きがなされていたようで、無事に第1巻目が手元に届き、胸を撫で下ろしたのだった。

この『 AIR 』は BS デジタル放送局 BS-i で全13回に分けて放映されたアニメーションドラマを DVD に収録したもの。
原作は『劇場版 AIR 』と同じく、PC ゲームのヒット作『 AIR 』である。
我が家には BS-i の視聴環境がないので、観るのはこの DVD 版が初めてだ。
原作に忠実で作画レベルが高い、と原作ファンの絶賛を浴びているこの作品、如何なものかと早速 DVD プレイヤーにかけてみた。

なるほど、4年半前にプレイしたときの記憶が甦る出来である。
登場人物たちは原作どおりのエキセントリックな性格造形。
話も大体原作に沿って進んでいく。
テレビアニメーションとしては背景画が非常に美しい。
ただ、展開がやや性急。
ヒロイン3人分の話を原作を踏襲しつつまとめることを考えるとやむを得ないとも思う。
登場人物の演技(声優の演技ではなくて、絵の動き)も丁寧だが、アニメ的な大げささが気になる。
キャラクターのビジュアルデザインも原作に忠実だけど、やたらと目が大きくて口が小さい原作のデザインはあまり好きではない。
五十歩百歩かもしれないが『劇場版 AIR 』のデザインの方が好ましい。

キャラクターの性格造形、演技、ビジュアルデザインの点で、原作ファン・美少女アニメファン以外には「キモイ」と一蹴されそうだ。
家族愛をテーマにした切ないドラマなのだけど、決してマニア以外には広まらないだろう。

まあ、私は買って良かったと思ってます。
次の巻の発売が楽しみ。

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NieA_7 DVD-BOX

NieA_7 (ニアアンダーセブン)は2000年に WOWOW で放映されていたアニメーションドラマ。
同時期、雑誌に同時連載されていた安倍吉俊によるマンガ版に触れたのはまだ私が定職に就いていないころのことで、バイト先の近所の本屋でたまたま単行本を買ったのだった。
購入動機は私のお気に入りの『 serial experiments lain 』でキャラクターデザインをしている安倍吉俊が描いてるから、というだけだった。
しかし読んでみると安倍氏の整った絵柄、面白おかしいギャグ、適度な叙情性に、「当たりくじを引いた!」と思ったものである。

ISBN:4047133493

ISBN:4047134139

それから4年。
アニメ版は未見だったのだが、「廉価版 DVD-BOX が2005年4月1日に発売され、予約購入すれば2割引」と Amazon.co.jp からの広告メールで知った私はまんまと策略にひっかかり、カッとなって予約購入してしまったのだった。

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物語の舞台は、宇宙人が移住して当たり前に溶け込んでいるというもうひとつの日本。
かつて宇宙人たちの母船が不時着したというそのすぐそばの寂れた街で、主人公の貧乏予備校生まゆ子は親戚が営む銭湯の一室に下宿している。
その下宿には、落ちこぼれ宇宙人ニアが勝手に住み着いていた。
奔放なニアと、彼女や街の奇妙な面々に翻弄されるまゆ子。
二人の少女の共同生活が描かれる。

アニメ版ではマンガ版よりもギャグが大人しくなっているのだが、その割に演出はマンガ的な技法が目立ち、空回りしているように感じる。
なんとも微妙な緩い雰囲気を漂わせながら進行する、へんてこでぬるいアニメーション作品に仕上がっている。
退屈かというとそれほどでもないし、つまらないかというとそう断言できない。
かといって他人に薦められるかというと、それは憚れるような気がする。
キャラクター萌えでもラブコメでもないし、つかみどころのない妙なポジションにある作品だと思う。

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国立国際美術館の「中国国宝展」を観終えたあと、天王寺のアベノアポロホールで映画『少女ヘジャル』を観る。

『少女ヘジャル』はトルコの作品。
トルコ政府のクルド人弾圧によって故郷と両親を失ったクルド人の少女と、判事の職を退き一人暮らすトルコ人の老人との交流を描いている。

クルド人としては裕福な従姉妹の元にヘジャルは預けられるのだけれど、クルド分離独立派だったのか、従姉妹と同居人はアパートを武装警官に踏み込まれて皆殺しにされてしまう。
戸棚に隠れていたヘジャルは一人助かり、向かいにある元判事の老人の部屋に保護される。
しかしトルコ語が判らず、トルコ語を覚えようとしない強情なヘジャルに対して、クルド語が判らない彼は戸惑い、うんざりする。
老人が雇っている家政婦サキネがクルド人であることを隠していたことが判って、彼の困惑は増す。

老人はクルド人を弾圧するトルコ政府側にいた人間だ。
彼はヘジャルとサキネにクルド語の使用を禁じるのだが、クルド語なしではコミュニケーションがままならない。
ヘジャルに手を焼きながらも共に時間を過ごすなか、ヘジャルを従姉妹の元に預けたクルド人の男に返そうとクルド難民の集落を訪れる老人だったが、クルド難民の生活の現実を目の当たりにして彼の心に変化が生じる。
家政婦のサキネにクルド語を教わり、ヘジャルとなんとかコミュニケーションをとろうとする。
ヘジャルもそんな老人に次第になつき始め、本当のおじいちゃんと孫娘かのようになってくる。
ついに彼はヘジャルを養子として引き取ろうとするのだが、その思いは叶わないのだった。

ヘジャル役の少女は、5歳くらいの少女が持っている可愛さと憎たらしさに溢れている。
アップの画面で時折見せる、クルド人の悲哀が全て詰まったかのようなその瞳と言ったらもう、それだけで涙腺が緩んでくる。
ヘジャルに翻弄される老人役の俳優も、「孫娘にデレデレになっているおじいちゃん」の顔が実にうまくて、結末の寂しさが引き立つ。

トルコにおけるクルド人弾圧という社会背景を知らなくても、「孤独な老人と孤独な子供の心の交流を描いたヒューマンドラマ」として味わうことはできる。
だけど知っていれば一層、ふたりの齟齬と融和の姿に胸を打たれると思う。

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Amazon.co.jp: DVD: スウィングガールズ プレミアム・エディション

カッとなって予約注文していたDVD 『スウィングガールズ プレミアム・エディション』が到着。
8,026円。
完全予約限定生産品でございます。

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プレミアム・エディションでは、本編のほかに2枚の特典ディスクつき。
さらに「 SWING GIRLS ENCYCLOPEDIA 」と銘打たれた144ページのブックレットが付属しています。

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プレミアム・エディションにのみ付属するマスコット。
本編で、トランペット担当のお姉ちゃんが高音を出せるようにと付けていたお守りですな。
こいつのおかげで箱の体積が2倍以上になってしまってます。
はっきり言って邪魔だ。

早速プレミアがついてるので開封するのに勇気が要る、貧乏性な私。

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第二次世界大戦末期の日本。
原爆投下を阻止するため、謎の強力兵器「ローレライ」を搭載した潜水艦がテニアンを目指す。
というのが、潜水艦映画『ローレライ』のお話である。

原作の小説『終戦のローレライ』は未読だけど、アポロシネマ8 まで観に行ってきた。

私は軍事マニアでも兵器マニアでもないんで描写が現実に即してるのかどうかの判断はつかないけど、兵器のメカニカルなところは好きだから、砲弾や魚雷がドカンズバンしたり駆逐艦がズコンバコンしたりしてるのは楽しめた。
ああいかにも CG であるな、と観てて分かってしまうが、ハリウッド並みに予算があるわけじゃないのだろうから仕方ないところだろう。

物語には現代日本へのメッセージが織り込まれている。
だが登場人物の描写の掘り下げが足らないせいか、空回りしているような気がする。
登場人物の言動にあまり必然性や説得力が感じられないのだ。
尺の都合かな、これは……。

レイトショー価格1,200円で観ることができたので楽しめたけれども、普通価格1,800円だったらきっと不満が募っただろうなと思った。

ところで監督が樋口真嗣だからって訳じゃないけど、上映中なんとなく『ふしぎの海のナディア』を思い出していた。
無音潜航に入るシーンとか、閉じ込められた船員を、航行を優先するためにやむを得ず見殺しにするシーンとか、『ふしぎの海のナディア』でも同じようなシーンがあった。
思えば『ふしぎの海のナディア』は人生で初めて観た、潜水艦を舞台とした物語だったのではなかろうか。
当時はつまみ食い程度にしか観れなかったので、いつか通しで観たいところである。

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『オペラ座の怪人』を観た、と言っても映画版の方。
舞台の方は観たことがない。

言わずと知れたミュージカルを映画化した絢爛豪華なもので、登場人物の台詞は基本的に歌。
映画館の大きなスクリーンと整ったサラウンド環境で観ないと映画ならではのスペクタクルを充分に味わえないだろうし、寒々しいのではなかろうかと思うので、どうせ観るなら映画館で観るのがよろしいでしょう。
でも、生のミュージカルで観れたらこの上無いのにというのが正直なところ。

物語はと言うと、映画の後半、ずっと 2ch BBS の独身男性板に巣くう人々のことばかり頭に浮かんできた。
醜い顔を隠しながら暮らし、陰から手を尽くして惚れた女をスターへと押し上げたのに、彼女に拒絶されるわハンサム男に彼女を奪われるわで、破滅へ至るファントム。
「結局男はツラかよ!」と、もてない男たちからの怨嗟の声が暗闇の底から聴こえて来るのだ。
ああ、彼らに幸あらんことを。

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Amazon.co.jp: DVD: 雲のむこう、約束の場所

『雲のむこう、約束の場所』を DVD で観直す。

以前この映画について不満を述べたけれど、色彩設計や演出、叙情性は気に入ってるから DVD を買った。

DVD では片面二層、おおむね8-9Mbpsで収録されていて、その映像の美しさを堪能できる。
ついでに、エンドロールで何回「新海 誠」という文字列が出てくるか確かめることもできる。

ヒロインのキャラクターは相変わらず気に入らないが、中学生くらいの少年が女の子に対して抱きがちな虚像を表現したものということで納得しよう。
この映画は男の視点で追憶され、描かれる物語。
女性にはこのロマンチシズムは分かりづらいかもしれないけど、男の子ってのはこういうもんなんですよ。

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ナビオ TOHO プレックスで映画『ハウルの動く城』を観た。

ナビオ TOHO プレックスのシアター1は、『ハウルの動く城』の上映を大阪で唯一フルデジタル映写 DLP Cinema で行っている。
運良くスクリーン真正面ど真ん中の席で観ることができた。
映像にも音響にもベストポジションだ。

おかげさまで映像と音響の素晴らしさは堪能できた。
しかし倍