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août 29, 2006

『ひぐらしのなく頃に解 祭囃し編』をプレイした

2002年から製作・公開されてきた物語『ひぐらしのなく頃に』。
今夏公開された第8作目「祭囃し編」にてついに完結だ。
第7作目の「皆殺し編」では事件の真相と黒幕がほとんど明かされた。
この第8作目においては、黒幕が犯行に至るまでの経緯が語られるとともに、残されていた謎の解答が提示される。
そして作中の人物たちが黒幕を打倒してハッピーエンドを獲得する模様が描かれる。

物語はまず黒幕の一人称視点から始まる。
妥当な展開である。
特筆すべきは、ここに至って初めて本作に「ゲーム」と呼ぶにふさわしい仕掛けが導入されることだ。
第7作目まで、読者は画面に表示される文章を読むだけだった。
文章を読むためにマウスのボタンやキーボードのキーを押すだけだった。
「祭囃し編」も途中までは同じ。
だがある地点で物語は断片化され、画面上にシーンがボタンの形で並べられる。
正しいボタンを選択すると、物語のシーンが叙述されていく。
そしてまたボタンの選択画面へ戻る。
誤ったボタンを押しても物語の文章は叙述されない。
特定のボタンを押して文章を読むことに成功すると、次のどれか特定のボタンに対応した文章を読むことができるようになる。
Playstation 用ゲーム『 serial experiments lain 』を彷彿とさせるシステムだ。
これは作中のある登場人物の行動を追体験するもの、と作中で位置づけられているとはいえ、「 TIPS 」システムを除いてコンピュータ・ゲームらしさがなかった『ひぐらしのなく頃に』という作品に親しんできた読者にとっては唐突だ。
だが、『祭囃し編』には「 TIPS 」が存在しないことを考えると、これは「 TIPS 」の変形である、と解するのが妥当だろう。

全てのボタンに対応したシーンを読み終わると、物語は再びいつも通りの一本道の小説へと戻る。
あらゆる困難を乗り越えて登場人物たちは団結して黒幕と戦う。
その戦いはうまく行きすぎとも、ご都合主義ともいえる。
作中に「奇跡」の二文字が何回現れるのかカウントしてみたくなるほど、頻繁に現れる「奇跡」という単語がくどい。
ベースが強固にハッピーエンドを拒む物語であるであるがゆえに、仕方のないところだろう。
作者が描きたいのは、黒幕以外の主だった作中の人物全員が黒幕を倒すために団結する必要があり、一人でも欠ければ黒幕を倒せない、という構図である。
誰かが死ねばアウト。
誰かが協力しなければアウト、という世界が本作の世界なのだ。

黒幕との戦いは荒唐無稽な展開を辿っていく。
「努力・友情・勝利」という陳腐ですらある週刊少年ジャンプ的テーマを、週刊少年ジャンプ的な盛り上がりを得るべく描くためにそうなった、と解釈するべきか。
もはや出題編の緊迫感はなく、アクション映画におけるボス戦のようなケレン味に満ち満ちている。
まさに「惨劇なんてなかった。あったのは喜劇」。
そして黒幕が打倒されることによって、本作の真のテーマが明らかになる。

『ひぐらしのなく頃に』の第一作、「鬼隠し編」の冒頭に掲げられた詩篇を思い返そう。
「どうか嘆かないで。
世界があなたを許さなくても、私はあなたを許します。

どうか嘆かないで。
あなたが世界を許さなくても、私はあなたを許します。

だから教えてください。
あなたはどうしたら、私を許してくれますか?」

「罪を赦し合う」。
これが『ひぐらしのなく頃に』のテーマだったのだ。
こうして円環的に伏線が回収され、長い長い物語は閉じられるのである。
綺麗な締めくくりに拍手を送りたい。

ところで、ここに来て『ひぐらしのなく頃に』はプロレスのようなもの、という気がしてきた。
プロレスは真剣勝負を装ってはいるが、筋書きのある見世物だ。
観るものはそれを理解した上で楽しむ。
装いを信じ込んだ人は、筋書きの存在を知って「八百長だ!」と憤るかもしれない。
あるいは観ることを放棄するかもしれない。
しかし、楽しむ人は自ら率先して楽しみを見出そうとする。
『ひぐらしのなく頃に』もミステリーを装ってプロモーションされたが、ミステリーではなかった。
その点を非難する向きは納得できる。
だが、本作に接して得られる娯楽的経験は偽りではない。
娯楽作品として向き合ったとき、本作はなかなかに優れた娯楽を提供してくれる。
邪道とも言える一方で、娯楽として楽しんだもの勝ちでもある。
『ひぐらしのなく頃に』という作品はそういうものだと思う。

投稿者 Dormeur : 10:26 PM | コメント (0) | トラックバック

août 27, 2006

「一心寺恐怖百物語」を観た

大阪にファントマという名の劇団がある。
公演チラシの裏側に必ずギャグを仕込むことで有名で、私もそのチラシで存在を知った口なのだが、知ってこの方8年、一度も公演を観たことがなく……って私の人生はこんなのばかりだな。
そのファントマを主宰する伊藤えん魔がここ数年、お盆の時期にプロデュースしているイベントが「一心寺恐怖百物語」。
お盆からは少々時間が経ってしまったが、久々に生の舞台芝居を観たので書き留めておきたい。

このイベントは前半1時間ほどが演劇、後半がトークライブという構成になっている。
前半の演劇は伊藤えん魔作・演出のホラー・ファンタジー『悪夢罠』。
ある夜、高層ビル「百本木ヒルズ」にて警報が鳴る。
エレベーターが故障していて使えないため、警備員は徒歩で100階を目指す。
同じビルでは心霊現象を扱う TV 番組がロケを行っていた。
一方、「百本木ヒルズ」で結婚式を挙げようと計画する売れないミュージシャンの青年は、恋人の様子が近頃おかしいことに気づいていた。
果たして彼らの運命は……というお話。
ゲストで「ダイナマイトしゃかりきサーカス」というアカペラグループが出演していた。
このアカペラグループはスウェーデンの「 Loituma 」と同じく男1名、女性3名という構成。
後でトークライブの締めにホラーイベントらしからぬ爽やかな歌を披露することになる。

トークライブでは伊藤えん魔を司会者とし、実話怪談本『新耳袋』の著者、木原浩勝を迎えて話を聞く。
天王寺のあるホテル(おそらく近鉄系のあのホテルと思われるが)には「決して客を宿泊させない客室」があるのだという。
というのは、女性の清掃員が入っても何も起こらないが、男性の従業員が興味本位に入ると女性の幽霊が出てきて性交渉を強いられるのだ。
しかしそれを公言すると、幽霊と称して職場に女性を連れ込み性交渉を結んだのではないかと疑われる恐れがあるため、関係者は固く口を閉ざすのだという。
そして他の部屋と変わらない状態で置いておき、客を宿泊させないようにすれば客に不審に思われることもないので敢えて閉鎖していないという。
なかなか良く出来た話だ。

また、スペシャル企画として木原浩勝が持参した秘蔵映像をスクリーンで観ることができた。
この映像というのは、関西の心霊スポット好きには名高いらしい「笠置ホテル」という廃ホテル跡を昼間に取材したもの。
ホテルの敷地に入る瞬間、映像が乱れ人間が溶けたように歪んで記録される。
しばらくして映像は正常に戻るのだが度々乱れ、また一方で映像中の人物のものではない音が記録されている。
画像や音声が乱れるのは奇妙な話だと思うが、私自身が合理主義者というだけでなく、職場のあちこちに廃墟同然の場所があって見慣れている。
廃ホテル自体は薄気味悪いが怖いとは思わない。
幽霊に出くわすよりも、夏の夜に暗所をカサコソと素早く駆け回るあの昆虫に遭遇する方がよっぽど嫌なものだ。

その後、スクリーンに心霊写真を投射する鑑賞会へと移る。
ファンから寄せられた心霊写真だけでなく、チラシ同様のネタ写真や「pya!」などの web サイトで流布しているネタ写真(樹海の「祝ってやる」落書きとかゲームボーイに夢中の猫とか)を織り交ぜ、軽妙なトークで場の笑いを誘うのは流石だ。

ゲストの「ダイナマイトしゃかりきサーカス」が締めくくりにこの日のために作った曲を歌い上げてトークライブは終了。
最後に抽選大会があり、普段くじ運の悪い私なのに何故か当選。
もらった商品というのが、欠けた茶碗に藁人形。
激しく要らないんですけど……もらった物だから律儀に持ち帰りましたよ。

今度はファントマの本公演を観たいところだけど、中之島演劇祭2006の中での上演なので果たしてチケットが取れるのやら。

投稿者 Dormeur : 04:08 PM | コメント (0) | トラックバック

août 19, 2006

『笑う大天使』を観た

川原泉といえば、私が最も敬愛するマンガ家の一人。
そんな川原泉の代表的作品『笑う大天使』が発表から10年以上経った今頃になって何故か映画化されるという。
しかも実写。
理由はともあれ、出来に期待せずとも一応観ておくのがファンというもの。
なお、前売券の先着特典である「ダミアンストラップ」を目当てに前売券を買い求めたが早々になくなっており入手できず。
残念。

ここで原作の『笑う大天使』について触れておく。

母が亡くなり孤独の身となった少女、史緒は生き別れの兄に再会する。
史緒は実は大金持ちの家系の令嬢であった。
兄の勧めで、彼女はバリバリのお嬢様学校である聖ミカエル学園に転入させられる。
しかし根っからの庶民である彼女は家では食事が口に合わず、学園でも猫をかぶって暮らさざるを得ず、息の詰まるような毎日を送っていた。
我慢が限界に達した史緒は、ある日学園の片隅でアジの開きを焼いて食べるという行動に及ぶ。
その現場を同級生の柚子、和音が目撃。
実は柚子は食堂からレストランチェーンに急成長した会社の娘で庶民の育ち。
和音も資産家の娘であるが父親は成り上がり者で、ガサツな性格な持ち主であった。
お互いに猫かぶり同士であることを知った三人は意気投合して親友となる。
そんな彼女たちはある日、ふとしたことから怪力を備えた体質になってしまう。
さらに、彼女たちが学園で交流のあった生徒が相次いで誘拐されるという事件に遭遇することになる。
事件の目撃者ということで史緒、柚子、和音の三人も誘拐されてしまうが、怪力を生かし犯人グループを壊滅させ誘拐された生徒たちを救出する。

というのが、『笑う大天使』本編のストーリー。それに加えて、史緒、柚子、和音を主人公にした外伝的ストーリー3編がある。

映画の『笑う大天使』ストーリーはマンガの本編と、史緒を主人公にした短編『夢だっていいじゃない』を組み合わせた形だ。
原作のあるものを映画化するなら原作をそのままなぞってもつまらない、という思想があるが、映画『笑う大天使』もそれに倣ってか原作から数々の変更が見られる。
史緒役に上野樹里を据えて、関西弁丸出しの少女に。
柚子はメガネっ子に。
和音は長髪の武道少女に。
聖ミカエル学園の制服はブラウスがなくドレス風に。
アジの開きはチキンラーメンに。
圧巻は誘拐犯とのバトルである。
香港映画かハリウッド映画かとばかりに CG とワイヤーフレームアクションを多用、無駄に力の入ったカンフー・アクションが展開される。
そのアクションの締めくくりには意表を突かれ唖然としたり失笑したり。
別にここまでしなくても……。

作中に挿入される神話のエピソードは銅版画風のアニメーションで表現され、これはなかなか良いアイデアだと思った。
史緒の兄の職業もうまく伏線としてストーリーに織り込み、物語の山場を作り上げている。
しかし聖ミカエル学園や町のシーンが明らかにハウステンボスでのロケだと判って安っぽいのが気になる。
作中の人物の行動に対してナレーションがツッコミを入れる演出も多用されるが、ツッコミの「間」が悪い上に音声が小さくて聞き取りづらく、ギャグが滑ってしまうのは誰もが気づくマイナス点だ。
さらに、原作でいい味を出していた孤高の野良犬、ダミアンのキャラクターがすっかり様変わりしていたのも原作ファンとしては悲しい。
(ちなみにダミアンはフル CG で描かれている。)

監督は原作の大ファンらしいのだが、原作の持ち味を生かしファンも喜べる映画化かというと、素直に首肯できないところ。
しかし、アクション映画を標榜していないにも関わらず、アクションシーンではっちゃけまくっているのは日本映画としては珍しい。
期待ハズレではあるが、カルト映画の称号を与えるのもやぶさかではない、珍妙な作品が世に出てしまった。
そんな感慨が胸に湧いて出てくる帰り道だった。

投稿者 Dormeur : 04:36 PM | コメント (4) | トラックバック

août 12, 2006

『ハチミツとクローバー』を観た

『ハチミツとクローバー』といえば今更説明不要、と言いながら説明すると、美術大学を舞台に若者たちの青春と恋模様をコミカルかつ叙情的に描いたマンガ作品である。
人気が昂じてアニメドラマ化に続き実写映画化。
ファンとしては一応チェックしておかなければと思い観てきたわけですが。

2時間ほどの映画作品にするには原作は長すぎるので、物語はかなり整理されている。
とはいえ、いちいち説明するには込み入ってて難しい。
原作を知っている人向けに乱暴に言うと、
ある時いつものメンバーで海へ行く
→森田がはぐにキスする
→動揺したはぐは逃亡、スランプに陥る
→スランプの原因を知っている竹本は、自分では何もできないので森田を焚き付けてはぐを助けようとする
→森田が行動を起こし、はぐ復活
→竹本は自転車に乗ってひたすら走る
→一晩野宿して自分のすべきことを悟った竹本ははぐのもとへ向かう
という具合。

細かい設定が変えられているのはまあ仕方ないのだけど、不可解なのは森田の人物が変わってしまっていることだ。
原作の森田は芸術の才能を無駄遣いし、子供のような無邪気さと奔放さで場を引っ掻き回すコミカルなキャラクター。
しかし映画版では、ボヘミアン的な天才肌の兄ちゃんになっている。
そのせいで作品のコミカルな部分が減少し、残されたコミカルな部分が浮いてしまっているように思えた。
他の人物の造形は原作に沿っているのに、何で森田だけなのやら。
あと、クライマックスの炎上シーンで火災報知器が鳴動しないのも同様に不可解。

一方で、はぐを演じる蒼井優はなかなかよかった。
はぐを実写化するには子役を使うか CG を駆使するしかなかろうと思っていたし、映画の予告編でのはぐのスチル写真を観る限りでは苦しそうだったが、実際に蒼井優が演じているのを観ると子役も CG も必要なかったと言える。
最後のシーンは「メリークリスマス、ミスターローレンス」と心の中で呟いてしまったけど。

もともと本作は上映館が少ない予定だった。
しかし試写の段階でヒットを確信した映画会社の人が上映館を急遽拡大したという。
それほどの出来かと言うと首を傾げるが、美術大学の雰囲気を覗いてみたい、とか出演している若手の役者をチェックしたい、とかいう人にはいいかもしれない。

投稿者 Dormeur : 11:57 PM | コメント (0) | トラックバック

août 06, 2006

『時をかける少女』(2006)を観た

『時をかける少女』と聞くと原田知世の顔が浮かんでしまう私は、そろそろオッサンと呼ばれるお年頃に足を踏み入れつつある。
今年リメイクされたアニメーション映画『時をかける少女』はそんなお年頃によく効く青春物語だった。

主人公の少女、マコトは学業の成績は振るわないが、明朗快活な高校生。
同級生のチアキやコウスケと一緒に野球遊びを楽しみ、自転車に二人乗りで乗せてもらう時には足を広げて跨るようなお転婆娘(死語)だ。
ある日、学校の実験室で昏倒した彼女は、帰り道に自転車のブレーキが壊れて止まれず、列車の通過する踏切に突っ込んでしまう。
しかし気がつくとマコトは踏切事故の直前に戻っていた。
走ってジャンプすると過去に戻るという能力を獲得した彼女は、それを生かして楽しむようになる。
取っておいたのに妹に食べられてしまったプリンを食べたり、テストを受けなおして高得点を取ったり、カラオケの制限時間終了直前から開始時に戻って何度もカラオケを楽しんだり。
上機嫌のマコトだったが、やがてチアキやコウスケとの友人関係が変わってしまう出来事が起こるようになる。
そのたびにマコトは過去に戻り、友人関係を維持しようと奮闘するのだが、状況はどんどん厄介になっていく……。

自分が楽しみを得ようとすれば、その分損をする人がいるかもしれない。
他人の気持ちを「なかったこと」にしてはいけない。
破滅的な出来事を経験したマコトはそのことに気づかされる。
そして映画は冒頭のシーンを反復する。
今やそこにはある人物が姿を消してはいるが、新たな仲間が加わった。
もうマコトはかつてのマコトではない。
彼女の目はしっかりと未来を見据えているのだ。

コミカルさとシリアスさ双方にメリハリがあり、テンポよく物語が進行する。
主人公とともに夏の日を駆け抜けて、観た後の心地は実に爽やか。
ノスタルジーを感じさせつつも、前向きに、今を大切に生きていこうと思わせる作品だ。
大林宣彦監督の1983年版と比べるとキャラクターもストーリーも大幅に変わってはいるが、「坂道」や主人公の住む家の和洋折衷な造りにはオマージュを感じる。
何より、時間跳躍について相談するマコトに対し、「年頃の女の子にはよくあること」とあっさり肯定する叔母さんの名は和子――原作の主人公の名と同じなのだ。
となると、本作は「続編」と言えるかもしれない。

ただ、気になる点も二つある。
一つは、ストーリー上のある重要人物の設定の不自然さ。
まあ、こればっかりは原作からの設定でストーリーの根本を成しているから、改変するわけには行かない。
もう一つはキャスティング。
恐らく高校生とほぼ同年代の人物を起用していると思われるが、演技の幅が狭くて素人臭さが否めない。
特にチアキを演じている人の声は耳に心地よくない。
逆にそれが今時の高校生というリアリティに転化している可能性も感じられるので、一概に悪いとは決め付けられないのだけども。

そうは言っても、全体的には秀逸な出来。
上映している映画館の少なさが残念に思える。
DVD が出たら買っちゃいますね、これは。

投稿者 Dormeur : 06:40 PM | コメント (0) | トラックバック

août 02, 2006

藤田嗣治展を観た

学生時代に受けた教えの一つに、「世の中の藤田は二種類に分けられる」というものがある。
つまらない藤田と、つまらなくない藤田である。
前者に該当するのは私で、後者に該当するのは藤田嗣治。
藤田嗣治はフランスでレオナール・フジタとして知られる画家だ。

しかし、モネやルノワールやピカソの名を知っている日本人は多いが、藤田嗣治の名を知っている日本人は少ない。
学校教育でもほとんど取り上げられない。
日本の洋画家では、世界的に最も成功した人物であるにも関わらず、である。
藤田嗣治は太平洋戦争中、軍部の要請に従って戦争画を描いた。
敗戦後その責任を追及された彼は、嫌気が差して日本国籍を捨てフランスに帰化する。
そしてその後日本に帰ることなく亡くなった。
その経緯から日本の美術界は藤田嗣治の業績を軽んじたし、藤田嗣治の遺族もまた日本の美術界を恨み、展覧会の開催には非協力的であったという。

私も藤田嗣治の名前は知っているし、作品を一つ二つ写真で観たことはあるのだが、その生涯でどんな絵を描いたかとなると、最近になって藤田嗣治を紹介する TV 番組を目にするまでさっぱり知らなかった。
それが今年、藤田嗣治の作品をその若き時代から晩年のものに至るまで取り揃えた展覧会が開かれるというのだ。
この機会を逃すわけには行かない。
そういうわけで、展覧会が開かれている京の町に足を運んだのであった。
あまり京都とは縁のない人生なもので、1ヶ月に2度も京都に行くのは初めてのことだ。
会場である京都国立近代美術館も初めてだ。

「京都国立近代美術館」って、「京都国」っていう国があるかのような名前だよな、と思いながら「見つめて☆新選組」「ぶるまーずへようこそ」を放吟しつつ、ナンバ走りで京阪三条駅から平安神宮方面へ向かう。
というのは当然嘘で、物静かに歩いていったのだが、三条通は高い建物が少ないうえに電柱が地面に埋められているので、景観が非常にすっきりしている。
都会っ子であり、かつ電柱・電線嫌いの私としては心地よい空間だ。
そんな京都の町も一つ角を曲がれば電柱・電線に埋もれているのだが。

つまらない前置きはこのへんにして、今回の展覧会の内容を書こう。
前にも触れたとおり、この展覧会は藤田嗣治の画業を辿るという構成になっている。
こうして観ると、彼の画風が時代によって次々と変化していくのがよくわかる。

藤田嗣治は20代でパリに渡り、貧窮のなか絵を描き続けた。
当時最先端のキュビズムを取り入れたり、人物をのっぺりと単純化したり、試行錯誤している。
第一次世界大戦中から名声が高まり、戦後のパリでは売れっ子画家となって経済的にも成功する。
「これが油絵か?」と疑うほど滑らかで白い女性の肌と、細い筆で縁取られた輪郭線が特徴的。
画面は立体感がなく、全体的に白っぽく淡い。
その分、画面の中で黒く描かれた部分が鮮烈な印象を与える。

1930年代になると嗣治は個展開催のため南北アメリカに渡ったのち、日本に帰国する。
このあたりではパリ時代の「白さ」が影を潜め鮮やかで立体的な絵になる。

嗣治は再びパリに戻るが第二次世界大戦勃発のため再び日本に帰国し、戦争画の製作を手がける。
この戦争画、特に『アッツ島玉砕』には参った。
両腕を広げたくらいの幅の作品で、暗がりのなか画面いっぱいに敵味方判らず兵士たちがひしめき合っている。
白兵戦ではあるが、戦っているというより、訳も判らず潰しあっているような肉体の塊がそこにある。
ダイナミックであり、同時に神話における戦いのような荘厳さもある。
絵の前に立つと、得体の知れない波動がムンムンと体を覆ってくる気がする。
これは TV の画面や図録では判らない。
生を見てこそ得られる体験だ。
戦中、展示されたこの作品を観た人々は、絵の前に置かれた箱に賽銭を投げていったという。
「軍神」という言葉も陳腐になる超越性を当時の人々も感じたのではないか。
これをもって単純に「戦意発揚のための絵画」と切って捨てたり、「戦争画家」のレッテルを貼り付けることはあまりにも乱暴だと思った。
共産主義国家のプロパガンダ・アートのような単純さとは全然趣が違うのだ。
むしろ戦争の凄惨さを伝え、観る者を内省的にさせるような気がする。

しかし戦後、日本画壇は戦争協力者として嗣治を非難する。
嫌気が差した彼はフランスに帰化。
日本国籍を捨ててカトリックの洗礼を受け、パリ郊外に蟄居しつつ子供の絵や宗教画を描いた。
かつてのパリ時代の「白さ」をたたえた肌を持つ子供たちではあるが、どれも同じ顔。
広い額に釣り目を持ち、澄ました表情をしている。
ミステリアスで不気味だ。
しかしこれが子供の居ない嗣治にとって、彼なりの子供の姿だったらしい。
この時代のもので目を引いたのは「 48 Richesses de la France 」という作品。
フランスにちなんだ単語をモチーフにして正方形の小さな紙に子供が描かれ、それがタイルのように敷き詰められている。
子供向けのフランス語単語帳のようであり、ユーモラスで可愛い。

とまあこんな具合で、「藤田嗣治はこういう画家」と一言には言えない人物であった。
しかしその作品をこの眼で観ると、獲得した名声も納得できる。
偉大なる藤田を前に、つまらない藤田は背中を丸めて京の町を後にしたのであった。

投稿者 Dormeur : 11:28 PM | コメント (0) | トラックバック