8 août 2005

『 narcissu 』をプレイした

『 narcissu 』は PC 上で読む、音楽と声と少々の絵がついた短編小説である。
シナリオライター片岡ともが中心となって制作された作品で、Web サイトで無償公開されている。
体裁こそノベルゲームのシステムを利用してはいるが、選択肢によって物語が変化するわけではない。
画面構成と淡々とした語りに、一本のロードムービーを観たかのような感覚を覚える。

作り手が Web サイトで内容紹介として示していることなので伏せないが、この作品の物語は、ある若い男女が出会い死に臨んで、いかに生きたかを描いたものである。
だけれども、男女の恋物語ではない。
主人公の名前は示されず、ヒロインも彼の名前を尋ねようとはしない。
ギリシア神話のナルシスのように、彼女は彼女自身の世界しか見ていないのだ。
ヒロインにとって主人公は、止まっていた彼女の「時間」を動かし、一瞬の「生」へと導くきっかけに過ぎない。
しかし主体性を放棄していたヒロインにとっては、主人公は行動を起こすための、すなわち「生」への、唯一の手段であった。
音叉への一撃によって発生した響き=エコーのように、主人公の与えたきっかけによってヒロインの「生」は現れ、そして速やかに消えていく。
「生」を獲得してしまったヒロインは、主体的に終末を選択することで自己の世界の完結を果たす。

彼女の「生」を形に残したことが、主人公の「生」であった。
ヒロインが主観の世界の住人であるならば、主人公は客観の世界の住人である。
プレイヤーもまた、主人公の傍らで立ち尽くすだけだ。
物語に救いはない。
そもそもヒロインも主人公も、救いを求めてはいない。
あえて救いを見出すならば、それは二人が出会ったことである。

正直なところ、私は職業柄彼らを素直に受容することはできない。
同じ事をされたら、心の中で呪詛の言葉をぶつけるに違いない。
同じきっかけで去っていった人々に、胃を痛め頭を悩ます毎日の生活が私の心を固く縛っている。
冬のあの海は鈍くて重くて汚いぞ、と冷静にツッコミを入れてしまう。

だが、私にもまだ人の心はあったらしい。
最後の最後には目元が滲んでしまったのだから。

ボイス無しでプレイ(もちろんそれは CD や DVD の「再生」という意味で――この「再生」ってのも意味深長だな)したところ、所要時間は1時間ほどだった。
ダウンロードの時間も入れて、2時間ほどの余裕があるならば、この作品に触れてみることは悪くないだろう。

今晩吸うエコーは、一味違う。

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